鹿児島に行ってきたんだった
鹿児島に、きちんと足をふみいれるのは15年以上ぶりだとおもう。すごく久しぶりだった。
ちょっとした用事で行ってくるようにボスに言われ、1泊というスケジュールだった。わりと急だったし、なんだか日々のいろいろであまり調べずに出発の日を迎えてしまった。うーん、あまった時間をどこに使おう。鹿児島も広い。
訪問先は仙巌園だった。仙巌園は、薩摩藩島津家別邸である。
ことしの4月12日に、木星と海王星が魚座で重なるという星の配置があった。木星の周期はおよそ1年だけど、海王星の周期は150年。魚座の支配星は海王星で、このふたつの星が、海王星のホームである魚座で重なるというのは166年ぶりとなるらしく、166年前(1856年)になにがあったかというと篤姫と13代将軍家定の結婚だとか。
唐突に星のハナシを出したわけだけど、まあ篤姫(天璋院)さんというと薩摩藩島津家で、ひとつのサイクルであるななどというのをちょっと書いておこうとおもったのだ。(仙巌園が築かれたのは、1658年19代当主島津光久によってだけど)
そういうわけで、鹿児島に着くとまず仙巌園に向かった。タクシーの運転手氏によると、その朝桜島が噴火したということだった。歓迎だろうか。
平日の午前中、庭園の入りはまばらでちょうどよかった。天気も良く、少し霞んではいたけれど桜島も望め、気分がいい。
大砲の鋳造に使われた反射炉跡や、御殿など園内を順番にみて歩く。御殿の内壁の一部がベンガラで塗られていたことや、内部に段差があることなどを目にした。ベンガラの朱色は魔よけのため、段差は殿様というとやはり一段なりとあげておかねばならない、そういった感じらしい。中央の池に八卦がしかけてあったりと、あちこちに中国文化の影響がうかがわれる。
御殿や庭園をまわったあとは、集仙台という展望所に行くことにした。旅というとやはり足腰を使わなければ(てきとう)。
集仙台は御殿の裏山で、そこからの桜島の眺めなどは絶景らしい。
写真は撮り忘れたけれど、この裏山には巨岩があって、大きな文字で「千尋巌」と書かれている。これは作庭の一種らしく、このように岩に文字を刻むというのも中国ではよく見られるものらしい。
この3文字、かなり大きい。これは27代当主の島津斉興が失業者救済の公共事業として人員約3900人、3か月の日数を要して彫らせたというのだからすごい。ちなみに岩そのものの高さが約40m、文字全高は11m、足場は竹で組んだとかなんとか・・・。岩のある場所の標高はよくわからないけど見上げるほどだからそこそこだろう。
失業者救済といって、こんな場所にある大岩に、こりこりと文字(というか)をひたすら刻むというのもなかなかつらいような気がする。
さて、集仙台。
登山口には展望所まで500mと書かれていた。15分から20分といったところか、整備された階段を、虫をよけながら上っていくと、展望所に着いた。はあ、ふう。庭園を散策する人はわりといたのに、ここに上ってくるひとも、下りてくるひともなかった。ひとりじめである。
朝から噴火したという桜島、この日は雲がわりと流れていたけれど、鹿児島に着いてからずっと動かないかたまりがあって、きっとあれは噴煙だろう。上にぽっかり浮かんでいるのがそうだ。
しばらく汗がひくまでそこにいて、またぼつぼつと下っていった。施設内でいくらか土産品の物色をし、珍しい建物のスターバックスコーヒーを写真に収めて(利用はしなくて)、尚古集成館は改装か何かで入れなかったから別館だけ覗き、刀傷のある鎧なんかを見て背筋が冷たくなったりしつつ、ここをあとにした。帰りはシティバスというのを利用してみたのだけど、交通系ICカードの相互利用には対応していなかった。
*
翌日は霧島市に行った。このまま書いていこうとしたけれど、長くなるので記事をわけることにした。
明治日本の産業遺産革命遺産の構成資産でいうと、関吉の疎水溝や寺山炭窯跡といったものもあるのだけれど、未訪問である。せっかくだからきちきちに詰めて行くのもありだっただろうか(遅いね)。
トップ画像は釘かくし(13種あるうちのひとつ)。
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