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星の信仰

 まだ続く、奈良まわりのこと。
 いくつか訪問した中に、春日大社がある(祓のお社はイチョウに染まっていた)。春日原生林のほうも気にはなったのだけれど、訪問地を多く設定していたため(仕事です)御本殿と、若宮の15あるお宮などをめぐるにとどめた。原生林を含めた地図をざっとみたとき、興味をひく文字があった。

 妙見宮という場所である。
 春日大社御本殿のほうからだと西にあたり、それぞれの参道の入口だけでも徒歩35分以上はあるみたいだった。その場所がどうして私の興味をひいたかというと、今年の初めに雲仙市の妙見岳を訪ねていたからだった。また、5月の天草訪問時には妙見浦という地に立った。熊本県阿蘇の妙見信仰は強いみたいなことを、ある資料で読んだ記憶もある。
 奈良から戻って、ばたばたと日々の雑務を片付け、何かをしているときに、春日大社付近の妙見宮の名を目にしたことを、ふっと思いだした。

 ここ春日の地における妙見宮の創立は、明治42(1909)年とわりと近代である。開山した日照上人とは日蓮宗の僧であるらしい。雲仙の妙見岳とは特に関係する何かはなさそうではあるけれど、妙見信仰のほうを調べてみると「妙見」というのは北極星(または北斗七星)を神格化したもの、とのことである。そのため、星宿信仰などとも呼ばれる。
 この星宿信仰というのはインドで発祥し、中国の道教の信仰や密教と習合し、仏教の天部のひとつとして日本に伝わったとある。雲仙の妙見岳が、古代の渡来人のルートとして中国から東シナ海を経て、天草や島原半島、八代をとりその各地に「妙見」の名のついたものがみられることをおもうと、なんとなくなるほどと思わないでもない(あいまい)。熊本県八代の妙見宮(八代神社)などは795年の創建と古い。

明恵上人春日明神遥拝所(石は九つある)

 春日の妙見宮の開山は、上に書いた通り日蓮宗とのことだけれど、妙見菩薩は日蓮宗の寺院に祀られることが多いらしく、春日の妙見宮も例に漏れずというところだろうか。どこで目にしたか忘れたけれど、キリシタン弾圧の時代、キリシタンの多い土地には日蓮宗の僧侶が送り込まれた、などとそんなことを知ってしまうと、関係を探そうとでもするかのように意識が動き、結果散らかって混乱をしてしまってどうもよくない。このあたりは今回は忘れよう(てきとう)。

 タイトルにつかったみたいに、「星の信仰」みたいな言い方をすると、響きがいいかんじがして、それで何か書きたくなった。

 最近おもうことは、例えばこうやって、足を運んだ土地や興味を持った何かについて知る過程で、いくつかのつながりだったり符合する物事に出合ったとき、そこに意味を見出そうとする人がいる。つまりタマシイがどうとか、前世がどうとか、宇宙の意思だとか、そういうスピった話題のことを私はいま言っているんだけど、もうそういうのってほとんどどうでもいい。
 それは確かにあるかもしれないし、ないかもしれなくて、どちらであってもいいし、それがたとえ宇宙の設計だったとしても、追究するほどの価値を私はそこに見つけられないということ。
 友人たちのなかにはこういうことに敏感な人も多く、そういった話題は聞いているとたのしかったし、多少は影響されもしたんだけれど、この頃は特にそういう方向に心がひかれなくなった。理由をうまく説明をする自信はないんだけれど、私としてはもっと実際的というか現実的というか、ある程度はその根拠になるところを重要視しちゃう性格があるみたいだ。それは私が山羊座に太陽を持っているからかもしれないし、またそれは見当違いであるかもしれない。などとこういうことを書くと影響されたままだと言われそうであるけれど、占星術を「運命を占う」ような方面への使い方を私は指示していないことによる発言であります。
 大いなるものの設計図に描かれている何ごとかに関しては、たまのエッセンスとして自分だけでたいせつにしたらいいとおもう。たまにごく少数の大事な人とだけ共有できたらいいような種類のものだとおもう。

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 星といえば、昨日(2022年12月14日)の夜がピークだったとか、教えてもらった時間にベランダに出てみたけれど、やはりぼんやりとした雲に覆われていた(日中の天候からの予想)。ついさっき、ちょっと車に用があって駐車場まで行ったのだけど、今日の夜空はばっちり澄んでいる。流星群はどうだかわからないけれど、じゅうぶんきれいな星空だった。

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きょうの「レビュー」:昨日だったかな、腕時計の商品レビューをつらつら読んでいたら、<腕首>という単語が目に飛び込んできてちょっと思考が停止した。手首じゃなくて? 私が知らないだけで、一般的な言葉というか、手首と別に腕首と言われる部位があるのかな、どうかな。

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