当事者側と支援者
春学期に無職55歳の男性が自宅で衰弱死したケースについて検討した。自分自身すごく卑下していたこと、自分自身で頑張らなければならないという考えが強くあって、その根底にその人の親との関係や刷り込みがあったことを知った。
支援者側が毎日のように家を訪ね、食料や服を気遣い、病院に行くことを勧めて繋がりを持とうとしたけど救えなかったケース。
本当に人の、人生の問題って根深いなと思ったケースだった。
昨日、そのケースの支援者側視点から動画をみた。
誰も孤独にしたくなくて、その人自身子どもの時家族で夜逃げしたとかの経験もあって奮闘している人だった。毎日できるだけのことをその人はしていたと思うけど、救えなかったケースだった。
でもその人は、亡くなった方が地域で目撃情報が無くなった時に、責任をもって警察と訪問して、遺族と繋いで、本当にすごい人だと思う。
支援に責任をもっていると思う。支援者側にも人生がある。支援者の問題意識とか信念って支援にすごく影響するのだろうな、支援も結局対人関係だと思う。
どれだけ熱心に支援をしても、人は平等に生きているから、その人が自宅に居た25年近くも、その人は平等に何かを感じていて、親の刷り込みだったとしても自分なりの考え方があって、その信念が、自分自身のことは自分でするということだったのだと思う。死んでも。支援者ひとりでその信念、心境が変わることなんて本当に難しいことなんだと思う。それを間違ってるって言うことが本当にその人のためになることなのか?生きることが全て?そんな事すら思ってしまう。
でも、その人がまだ若い時だとしたら、親が居て、それはそれで介入が難しかったのではないかと思う。家族と切り離すことは、いくつになっても難しくて、人間にとって家族、親の存在がどれだけ大きいものなのか、すごく悲しい気持ちになる。どれだけ理論があっても、最終的に行き着くのは家族の問題で、家族は閉ざされてて、過去の事実は何も変えられない。自分自身で折り合いをつけるしか無いんじゃないかって本気で思う。
なんか、あのときの自分みたいに、当事者は今ある環境の中で精一杯頑張ってるんだって思ったら、簡単に介入することって尊厳を傷付けることなんじゃないかって思ったり、余計なお世話なんじゃないかって思ったり、支援の善し悪しを考えることすら支援者のエゴみたいな気がしてきた。
対等に当事者と話せることがどれだけ尊いことなんだろう。
当事者に必要なのは対等に話せて、相互作用を生み出せる人、つまり当事者同士のような心開ける存在なのだろうかと思った。
難しい難しい難しい、、、。
人の人生は、人である限り全て平等で尊いものだなと思った。平等で、それ以上もそれ以下もないと思った。
今までの支援観が崩れたような気がした。