最近読んだものについて

感想のようなものを書いてみようと思う。

普段はこんなふうに仰々しく考えては文章をつらつらと並べることはしない。せいぜいツイッターにツリー形式で放り投げる程度だ。

そんな私が書きたくなってしまった。きっかけは単純で、作品に影響されたからである。

作品の名は『違国日記』。ヤマシタトモコ原作の漫画だ。どうやら最近11巻が出たそうだが、私は5巻までしか読んでいないのでそこまでの感想になる。

以下に試し読みができるサイトのURLを添付する。

作品のあらすじもサイトに頼ろうと思う。

「へんな人と
暮らしはじめた。
お父さんとお母さんが
死んだので。」

35歳、少女小説家。(亡き母の妹)
15歳、女子中学生(姉の遺児)。

不器用女王と子犬のような姪が
おくる年の差同居譚。
手さぐり暮らしの第1巻!


少女小説家の高代槙生(35)は
姉夫婦の葬式で遺児の・朝(15)が
親戚間をたらい回しにされているのを
見過ごせず、勢いで引き取ることにした。

しかし姪を連れ帰ったものの、
翌日には我に返り、持ち前の人見知りが発動。
槙生は、誰かと暮らすのには不向きな
自分の性格を忘れていた……。

対する朝は、人見知りもなく
“大人らしくない大人”・槙生との暮らしを
物珍しくも素直に受け止めていく。

違国日記-pixivコミック

大きなネタバレをしない程度に補完をするなら、槙生という主要登場人物の一人は、少なくとも私の視点から見れば非常に繊細な人物だ。人見知りというのもその点に起因するのではないかと考える。

一方の朝という少女は明るくメンタルが強い。実際、両親が死んだというのに泣くこともなければ取り乱している様子もない。(まあそれが読者としては不安も呼ぶし、読んでいて落ち着かなくなるわけだが)

同居生活が始まってからは、槙生が当然母親代わりになる。とはいえ、あらすじの時点で予想が尽きそうなものだが、褒められた母親役をしているわけではない。人から見れば面倒を見ることをなげうっているとさえ取られかねない。
しかし、ところどころ――主に二人がつまづきかけたところで、朝に対して自分の思い自分のものとしてを吐露することがある。それは朝という相手を前提にした独白に近い。聞くものがいることをわかって行われる独り言である。それはある種の年長者らしい先導の行為である。同時に、決して家族として踏み込まないという一線を作ったあり方を保つ。朝はそんな態度を見て、どことなく心にひびが入ったような描写をされることがある。
先に朝はメンタルが強いと書いた。重要なネタバレになる気がするので多くは省くが、それは間違いなく母親に起因するものだ。実際、再演に近い行為を槙生が受けるシーンがある。そして一見するとメンタルが強そうに見える朝がそんなふうにふとした瞬間に綻びを見せるのは、母親同様、自分の映し鏡に堪えかねているからではないかと思う。わかりにくい言い方かもしれないが、本編を読めばなんとなく通じてくれるのではないかと思う。

――さて、私は余白のある作品が好きである。

余白、というのは当然、言葉のままではない。
言い換えるのなら解釈の余地。或いは描写しないことで生まれる、読者の体験だ。

逆を言えば、あれこれと設定をつらつらと並べたてる作品は好まない。ここはどういう世界で、どういうルールがあって、どんなものが存在しているのか。
重要なことではあるのだろう。バックボーンがなければ、作品は立たない。
だが、それを読者にも共有しようと長々書き連ねると途端に読むのが面倒になる。なにせ説明をしている間は作品が進まない。停止した時間に読者は取り残され続け、ようやく再開するころには作品が遠くなっている。

そう、遠さである。

余白を、私は描写しないことで生まれる読者の体験と書いた。それがここに繋がる。つまり、余白とは読者が物語に入り込むための隙間である。
作品の中に身を置き、登場人物と感覚を共有しあい、自分が物語の一ページに映っているような心持になる。それが余白の役割である。余白は読者を作品へと近づけてくれる。

『違国日記』にはそんな余白が多数存在しているように思う。

単純に余白としての余白が多いというのもあるかもしれない。仔細に書き込まれたシーンというのは多くなく、文字だけのコマも複数存在する。しかし、それ以上に、作品に通底する空気感としての余白があるように思う。

もう一つ、私は、槙生と朝、ふたりの主要人物両方に共感を覚えることが多い。

先にも書いた文章を読めばすぐにわかるが、二人は間違いなく対比されるキャラクターだ。実際、作品内では互いが互いの生活を見ては驚くというシーンが数多くある。
しかし、そんな対照的であるはずの二人に共感を覚えるのである。
これは私だけはないと思う。この漫画の読者は、あきらかに交わりがたい性格の二人の言動や行動にどことなく身近さを感じるはずだ。

例えば、朝の子供っぽく感情的な行動の数々。幼さを感じ、行き当たりばったりで、いつ綱渡りが失敗するんじゃないかとひやひやする。けれど、その行動は感情的に裏打ちされたものであり、その行動理由の大抵は槙生の俯瞰したような行動にある。その時の、感情があふれ出る瞬間。ためらいという言葉を知らず、言いたくて仕方がなくなる時の感覚に、私はうなずく。

また、ある時は槙生の人を突き放したような言動。冷めた目で物事を見つつ、実は夢見がちで一番子供っぽさが残っている彼女の見せる鋭い側面に刺されながら、彼女持つ個人的な領域と他人を分けたがる、自分を殻に閉じ込めた物言いに染み入る。

彼女たちは二人でよくできた人間なのではないだろうか。いや、二人を合わせるとできすぎた人間が出来上がる気がする。喜怒哀楽に長けつつ、自分に素直であり、物事を客観視ができ、己と他人を正確に分けることができる人。
まあ、人間としてこれ以上ない人生の楽しみ方ができるのではないだろうか。

しかし、そんな人間に共感をするというのは難しい。
二人には目に見える欠陥があるからこそ、その欠陥が自分事のように思えて、共感できる。二人のいびつさが、私という人間を別の側面から見せていくれているとも言える。
そして、また実際の人間というのはここまで一面的でもない。より複雑で、矛盾にも思える行動を取り、理解できないことを平気でやったりする。完璧からは遠く離れた、しかしあり得ざる二面性を内面に備えている。
だから、対照的な二人ともに共感できるのではないだろうか。

最後に、感想を書くことにしたのも、影響されたからと言った。具体的には朝が日記をつけて始めるという作品内の描写から、起きたものである。
理由はそれだけだ。
ただ、読んだうえで、思ったことを書き起こしておくの悪くないと思った。しかし、思い返せば私は作品の感想を書くという行為が非常に苦手である。読書感想文など苦でしかない人間だった。
だから、書き始めてすぐに辛くなった。というか、後半ほとんどは何を言っているのかもわからない。体のいいことを適当に書いただけのような気がする。そして、読み返して、こんなこと書いたっけ?などと思ったりするのかもしれない。

だが、日記は嘘を書いてもいいらしいので、私もここに書いたことに関してあまり気負わず、とりあえず久々にnoteのことを思い出したから書いてみただけということで収めようと思う。

だが、ひとつだけ言えるのは『違国日記』という作品は、自分がこれまで読んできた漫画の中でも初めての体験であると同時に、これからも残り続ける作品であるという予感がしている、ということだ。
万人におすすめ、というと難しい。だが、少なくとも、読んでみると、何かしら考えることができるのではないかと思う。少なくとも、この作品を知って感じるものがあるのなら。



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