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生き方の、ゲームチェンジ

定年後、多くの人が不安と悩みを抱えて何もしないまま人生を消化していくのは、生き方のゲームチェンジをしていないからだ。

我々は今の社会システムに生まれ落ちると、「みんなと同じことをして生きていく」ように教育される。義務教育は集団で行動できるように訓練をして、同じような考え方、共通となるものの見方捉え方を学ばせる。
社会は、標準のルールのもとで、大人も子供もいっせいに動くのが最高に効率的だから。
そして高校から大学に進み、それぞれの選択と競争のもと、就職をしたり結婚したり、家庭や子どもをもったりして個別の人生を歩むように見えるが、本筋はまったく変わらない。

「他の人と同じことをして、ただ他の人より優秀でいなさい」

つまり、所属集団・組織に分かれて、それぞれのカテゴリーごとのリーグ戦などをみんなと一緒に戦い続けることで社会を機能させている。
そして、組織やチーム内での能力発揮、スキルの上達などの差異や優越、序列を付けて競い合わせることでパフォーマンスの最大化を組織は目論む。
それで我々は仕事の中で、一喜一憂・ストレス過多、時折の賞賛、罠のようなペナルティなどに翻弄される数十年を余儀なくされる。
そして競争の論理が破綻する前に、「定年」という社会の入れ替えシステムが稼働する。
個人の視点で見れば、それまで所属して団体戦を戦ってきたチームから登録抹消されるのである。チーム内のポジションがなんであれ、プレイヤーはもとより、監督・コーチ、スタッフに至るまですべてチームから去ることを決定される。
どんなに能力が高くても専門のスキルに磨きをかけていても、チームの損失、後進への模範が消えると惜しまれはするだろうが、組織やチームの上位概念である社会システムの決め事だから誰も例外なしに、去っていかざるを得ない。
ご苦労さまと労われて、退職の報酬を手にして、これからは自由に生きていってくださいとエールを送られる。

別段、悲しいことでもない。みんなと同じことをするのだから、多少不本意であっても仕方がない。
そして急に「ずっとやりたかったことをやりなさい」という呪文が浮上する。
だから、パートナーと海外旅行に出かけたり、夢見ていたゴルフ三昧、釣り三昧の日々。会社や組織に属していたときには、時間の制約、お金の制限で細切れにしかやれずに不完全燃焼に終わっていた「やりたかったこと」を一気に取り戻すことができるという構図。それは事実だ。
しかし、それらは一過性で、制約や制限からの解放が嬉しいだけで、本当に心からやりたかったことなのかは別だが、それでもその渦中に入ると楽しいし、やりたかったことをやっているという満足感を得る。それは否定しない。

だが、毎日好きなだけできるゴルフも釣りも観光地旅行も一周回れば、一巡すれば基本的に色褪せていく。そして1年・2年経つと、「やりたいことがない。何をしてこれからの人生を過ごせば良いのかわからない」という元の木阿弥に戻る。
人生100年時代とマスコミが囃すが、いままでのように「標準の答え」がないので不安だけが目立つ。だから、100歳までの経済的な手当てと認知症や介護の中でどう死ぬまで時間を過ごすのかいう悩みをとりあえず書き立てる。

考えてみよう。
そもそもやりたかったこと自体が、みんなと同じことであったりしないか。趣味や余暇活動は労働の対価、やりたくないことや続けたくないことを紛らわせるためのものとして巧妙に用意されたものではないか。
確かにゴルフ派と釣り派は全く別物だし、趣味嗜好は千差万別のようだが、ちょっと待ってほしい。働くことと余暇にする趣味というフレーム自体が、みんなと同じ思考の産物であったりしないか。

社会システムからフェイドアウトした人が何をしていこうが、しないでいようが社会は知ったこっちやない。誰も教えてくれないし、与えてもくれない。
身に染み付いた「団体戦」の考え方や行動基準・習慣が、抜けないままでいるから、引きずったままだから、自分個有のやりたいことが生まれてこないのではないか。
お役御免のポジションに自分を置いていては、なにも生まれない。


生き方の、ゲームチェンジが必要なんだ。




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