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石原慎太郎という巨星


巨星墜つ
40年生きてきて、近親者やごく近しい知人友人以外、これまで人の死について心がどうこう動く事は余りなかった様に思う。
朝晩いつのことだったかは覚えていないが、2022年2月1日仕事の合間おそらく一束見たスマフォの何かのニュース通知で、石原慎太郎先生の訃報に接した。大きなものが無くなった虚無感と不安と焦りがないまぜになった溜息をつき、必ず来るであろうそして89歳という年齢を考えればもうそろそろであろうといつからか思っていたそれが「ついに来たか」という、音になっていたかどうかはわからない独り言も併せて落とした様に記憶している。
(直接の知己も得ておらず、ただ一方的に尊敬とはまた違う憧れに近い人へ少なくとも呼び捨ては違和感がありながらも、どう敬称してよいかわからず、一旦先生とさせていただいた)

これまた記憶不明瞭ではあるが、最初に石原慎太郎先生が私の脳内にメモリーされたのは、おそらく小学生くらいの齢節だったか、NOと言える日本という書物に触れ、内容よりもタイトルにハッとさせられ事だったと思う。またある時何か記者なるものを相手に怒鳴っている恐いおじさん(だったかおじいさんだったか..)という印象であった。ただ、そこらにいる自制心を失った典型的な老人癇癪とは違う快闊さと強さを感じたのも淡く残っている。
後に自分も成人し社会や国家、歴史へ一端の意識が徐々に形成されたが、その主成分は石原慎太郎先生の何かしらの表現物であり発信(私にとってはインプット)が触媒となっている。

強烈な自我意識と供する感性、それを表現する言葉、身体的強さ、野性味と品性、美意識、言ってみればセンス、があらゆる仕事にそして人々の記憶に残っていて、おおげさかもしれないが人間が生きる意味そのものさえも体現していた、間違いなく誰よりも人間らしい”おもしろい”人だった。現世人口の大半を占める無味無臭、言語明晰意味不明瞭な”つまらない人”とは対極というかそもそも同じ極には存在しえない、感性・個性を恐れない稀有な人だったように思う。

作家としての表現物、日生劇場、青嵐会、都の財政変革、都庁アートワーク、排ガス規制、東京マラソン、羽田国際化、尖閣購入、東京五輪、、その自らの感性を元に表出される仕事も見事に形を成し事業となり、その意味合いも後世に残っている。晩年国民意識に“維新”を起こそうとその試みは、国会復帰後ご存命の折には成就しなかったものの、平成25年2月12日 自ら遺言と称した、安倍総理と対峙した最後の国会質問は、遺言を形容するにはいささか不謹慎ではあるが全国民必聴の最高傑作であったと思う。国会に復帰した意味が十分にあったと思う。

あらゆる既成物や事象に疑いを持ち、しかし既成されるに至った歴史を原理とし、また常人には到底触れる事ができないであろう傑物の了見傍らにその歴史を学び養われ得た情報と言葉と見識が先述のあらゆる仕事を創ったに違いない。基づく文明観、人間観によって得られた社会科学への考察力と都市工学観、芸術、スポーツへの身体感覚と造詣、暴力の原理と言葉を信じ組織と人を動かした。
最近安っぽく使われる事の多い“教養”だが、まさに本来意味するところの教養を備えた正しいリーダーであった事も我々の中に強く残っている。

最後の国会質問と共に私の中にずっと残っている石原慎太郎先生の言葉がある。
80歳を超えて政党立ち上げの記者会見だったか、年齢への不安を記者から質された返しの一節において、自分への怒りと国家行く末への焦りと青壮年への大喝だったと記憶する。
「まさにそうだよ、80超えてなんで俺がこんなことをしなければいけないんだ、若い奴は何をやっているんだ、もっとしっかりしろよ!」

青嵐会を興したのが1973年。私が得ている情報が正しければ、石原慎太郎先生41歳の時である。

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