[映画鑑賞文]ゴジラ-1.0(2023) 戦後と終戦の虚構について

この文章は以下のような構成をとる。
1ではこの映画の特徴を挙げる。2,3,4ではこの映画から導かれる隠されたテーマを暴く。5では2,3,4で書かれたことはどうでもいいことである、と言う。そしてそれはこの映画が描いたものと描き方と深い関係があると言う。端的にいえば私たちは戦後を夢としか、イメージとしてしか語り得ないということである。そしてこの映画が描くと戦後とは現代人が思い描く戦後的なものの最大公約から天皇を取ったものだという。そしてそれが鑑賞者に思い思いの戦後を語らせる装置になっていると主張する。
この文章にはネタバレもあるが、この文章を読んでもゴジラ-1.0という作品のことが全てわかるわけでもないことをご承知おきいただきたい。

1.はじめに


終戦とは國體の護持が問題であった。その終戦の決断が護持の対象、つまり天皇、によって行われた、という事実は近代日本政治において最もアイロニカルな記憶の一つである。
ゴジラ-1.0にはこのような場面、つまりある問題に直面した政治家、国家の意思決定者がジレンマを抱えるような場面は出てこない。
なぜか。監督の山﨑貴は、岡本喜八(=庵野秀明)が日本の一番長い日(=シン•ゴジラ)でそうしたように、統治者や政治家や官僚といった社会の上層にいる人たちの目線から戦後やゴジラを描いていない。むしろ、復員兵や近所のおばさんといった庶民の社会の下層にいる人たちの目線から描いているからである。
この点は劇場版のゴジラシリーズとして前作にあたるシン•ゴジラとの最も大きな違いである。
登場人物たちは持ちうる知識と力を駆使してゴジラという巨大な敵に挑む。しかし、登場人物たちが持ちうる力は今までのシリーズより一層限られたものなのだ。
登場人物たちの力は小さい。彼らは何か歴史を動かそう、大事業をやろう、という意気込みよりも日本という国の未来のために、今ある問題を解決するために、「貧乏くじを引く」決断をした人々のように見える。
そしてそれはこの映画を鑑賞する私たちと登場人物たちの視点の差異にもつながってくる。

2.ゴジラ-1.0における終戦


神木隆之介演じる主人公の敷島は特攻隊員である。特攻するために乗った零戦の不具合(嘘だとわかる)によって着陸した大戸島でゴジラに遭遇、敗北し、心に深い傷を負った状態で帰還することになる。
帰還した敷島を待ち受けているのはかつての故郷のボロボロになった姿と敗残兵をなじるおばさんである。
とここまでが映画の序盤だが、見ていると驚くほどサクサク進む。鑑賞中、ゴジラに敗北をした敷島に対して共感したり、エモーショナルになっても、それが持続するような感傷を覚えることはほとんどない。むしろ鑑賞者はその状況、その場面で抱くべき感情に対して認識してシーンごとにそれを感じる。
特に、島に現れた生物が「ゴジラ」なる存在だと明かされる場面のあっけなさは驚くほどである。通常このような未知の生物が出るような物語では、ゴジラはどこから来たのか、いったい何者なのか、という深追いをしたくなる。しかし、この映画には一言で済ませてみせる潔さがある。
ドラマパートは終始このように演出としてはあっさりと、しかし鑑賞者が見失わないよう説明は丁寧に、という具合で進んでいく。やりすぎなくらい丁寧に状況の説明が行われ、同時に演技も説明的と言っても良いくらいの感情的に演じられる。そのおかげで鑑賞者は状況を見失うことはほとんどない。多くの人が悲しむべきタイミングで悲しみ、盛り上がるタイミングで盛り上がるだろう。鑑賞者の情報とエモーションのコントロールが行われているのだ。これに映画における演出に対する信頼の欠如を指摘する者もいるだろうが、私は否定的に評価してはいない。

この映画が終戦、戦後を描いているのは一見して明らかである。
ところで鑑賞者はなぜ戦争が終わったと思うのだろうか。
もちろんこの映画では引き揚げ船が出てくるし、また近所のおばちゃんも兵士が大したことがなかったから敗戦したのだ、というようなことを言う。
だが、この映画においては終戦というイベント自体は描かれていない。もちろん、終戦というものが曖昧で人によってそれを受け取るタイミングは違う、といった反論はあり得るだろう。しかし、誰にとっても終戦の瞬間というものはあったはずである。それがこの作品では描かれていない。そしてそのことはこの映画においては珍しく演出上の強い効果をもたらすとともに、無意識的なテーマを浮かび上がらせているように思う。
演出としての意義は、終戦というイベントが直接描かれないことで、主人公の敷島が言及するように戦争が終わってない、という感覚をより説得力のあるものにしていることである。
主人公である敷島は特攻から逃げたという点、そして大戸島でゴジラに発砲しなかったという点、そしてその2点はどちらも死者を伴う出来事であったことから負い目を感じ、「戦争は終わっていない」というような発言をする。
庶民において終戦とはあの有名な「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の一節を含む玉音放送に代表されるわけだが、この映画においては終戦を代表するイベントが描かれていない。
主人公が復員兵であること、終戦直前にゴジラに遭遇したことによって終戦の瞬間を回避していることが、敷島の発言の説得力を増している。
上記が主人公敷島視点での、あるいはこの映画における視点での「終戦」である。


では、先に提示してみた無意識的なテーマとは何だろう。
それはこの映画が取捨選択した視点において戦争がなぜ終わったのか、あるいは本当に終わったのか分からない、ということである。
この映画では統治者や政治家、官僚の視点がない、と書いたが、そのため、終戦の過程が描かれていない。それはそういう映画だからしょうがない、といえばそうだし、そこに文句をつけるわけではない。むしろ終戦自体は描かれていないにもかかわらず、戦中らしきものと戦後らしきものが描かれており、それを鑑賞者はそういう風に見るだろう、ということに面白さがあるのだ。
先ほど述べたように主人公から「戦争は終わっていない」という意味の発言があるため、それが後半のキーになることが作中でも明言されており演出として正しいとも言えるのだが、敗戦してなお「戦争は終わってない」というときには二つの道しかない。つまり戦争を勝つまで続けるか(=本土決戦、一億総玉砕)、戦争に負け続けるか(=永続敗戦論)という二択である。
だからこの映画は果たされなかった本土決戦、一億玉砕を描いた偽史ともいえる。
もちろん最終的にゴジラに勝利することになるのだが、しかしラストシーン直前のヒロイン典子の首に見える黒い染みはゴジラという現象は終わってないという示唆にも解釈できる(が筆者自身はただのアザだと思う。)

いったんまとめる。この映画では終戦というイベントは描かれていないこと、それは敷島が言うような「戦争は終わっていない」という発言の演出的裏付けとも言えること、しかしそれが結果的に国家としての日本が行った戦争がなぜ終わったのか分からないことを確認した。次章を先取りすればこの映画において終戦というイベントが描かれていないからこそ、主人公敷島はときおり今が現実かどうか確認することになるのだが詳細は次章以降に譲る。

3.虚構としての戦後とゴジラ


戦後は虚構である、という言説は批評が得意とするところで、幾度も繰り返されてきた。今回言いたいのはそういうことではなく、実際今回の映画で描かれた戦後は虚構であるということ(映画なので)と、奇妙にも主人公敷島も戦後に対して「今は夢なのではないか」というような疑念をときどき抱いている、という問題についてである。
まずは主人公敷島の虚構から見ていこう。
特攻と大戸島でのゴジラの襲撃、二度生き残った敷島は死人が自分を待っているのではないか、あるいは自分はすでに死んでいるのではないか、というような考えを時折見せる。
なぜ敷島がそのように思うかといえば、自分は死ぬべきなのに生き残ってしまった、という感覚を抱いているからである。そして、今は夢なのではないか、という自分の存在を疑う発言は、物語の中盤、敷島が立ち直り家庭らしきものの中で平穏を見いだそうとしたころ発せられる。
戦中に目にした惨劇と現在の平穏や幸福、その落差によって敷島は今は夢なのではないか、というような発言をする。
このような感覚はこの映画オリジナルというわけでもなく、ある程度戦中派に共有された感覚であったようである。気になる人は吉田満の『戦中派の死生観』を読んでみるとよいと思う。最もこちらは、だからこそ戦後のために何かせねばならぬ、という思いが強く感じられるが。

次に鑑賞者にとっての虚構を確認する。
観賞者にとってこの映画が虚構であるのはあまりにも明白な事実であるが、特に重要だと思われる点を2点挙げる。
1つはゴジラの存在である。当たり前だがゴジラは存在しない。そのことは最も強い虚構性である。
2つ目はこの映画の戦後やゴジラ描写の大きな割合を占めるのがCGだという点である。このことは初代ゴジラと比べることで大きな意味を持つように思う。ミニチュア特撮、セット撮影、そして着ぐるみのゴジラと、特撮といえど画面に映るものはある程度「物理的現実」を有していた初代ゴジラに対して、ゴジラ-1.0においてはどこまでがCGでどこまでがセットか分からない。ゴジラ-1.0においてもセット撮影されているだろうが、それはセットの外まで広げられ画面いっぱいに広がるCGで作られた戦後と見分けがつかない。セットで作られたであろう「戦後」はCGによって広げられ、補完される。こうして本作における「戦後」イメージは作られる。

しかし、本作の主要スタッフにはおそらく戦中、戦後を実感として経験したものはいないだろう。その意味でこの作品の「戦後」の美術や登場人物たちの精神は考証などの勉強を経て作られたものだ。
この作品で描かれている戦後とはイメージとしての戦後である。当たり前だろう、と思われるかもしれないが、ここで言いたいのは作者の戦後観や何か思想に基づいて再構築された戦後ではないということである。そのとき参照されたのはおそらく資料による考証と、多くの人が持つ戦後イメージの最大公約数である。
だから、この映画に出てくる登場人物たちは戦後的振る舞いを演じて見せても、思想や実感としての戦後を有しているわけではない。だから鑑賞していてどこかチグハグな印象を受ける。

以上、登場人物敷島と鑑賞者にとって本作の戦後の虚構がいかなるものか見てきた。

しかし、この映画で私にとって重要な虚構は「終戦」である。
この映画では終戦間近、特攻から逃げ出し、大戸島でゴジラと遭遇し命からがら生き延びるという戦中と、生き延びた人々がそれぞれの生活を作りながらゴジラと対峙するという戦後が描かれている。
このように戦中と戦後が描かれているにもかかわらず、1章で見たように終戦は描かれていない。この映画において終戦は作中描かれた戦中のイメージと戦後イメージの間に、あるいは登場人物たちのセリフの中にしかない。そしてそこから鑑賞者は当然に終戦というものがあったのだ、という風に理解する。
だが、ここで映画内において戦中という現実、戦後という現実が描かれている一方で、終戦という現実が描かれていないことについて立ち止まってみる必要がある。
ところで現実の終戦とは何だっただろうか。現実の終戦について専門家でない私が云々語ることはできないが、しかし2つのことについて指摘できると思う。
それは初めに述べたように終戦においては國體の護持、つまり天皇の扱いが問題であったということと、もう一つは終戦それ自体において天皇が大きな役割を果たした、ということである。
特に天皇が果たした役割としてご聖断と玉音放送は国家の記憶として覚えられている。
以上、終戦と天皇とが分かちがたい関係にあることは周知の事実である。
そしてここからこの映画において終戦が描かれていないことへのひとまずの回答が得られるのではないか。
おそらくこの映画において終戦が描かれていないのはこれまでのゴジラシリーズと同じように天皇を作中に出さないためである。それは、ある特定の政治思想を作中に持ち込まないこと、そして正しい本当の戦争を描こうとはしていないからだと思われる。もちろんゴジラとはエンタメ映画であるから、観賞者に余計なストレスを与えず楽しんでもらおう、という意図もあると思う。複合的な理由によって終戦と天皇はこの映画から取り除かれている。
そしてこの映画で終戦と天皇の代わりに現れるものがいる。ゴジラだ。

4.ゴジラ、天皇、典子

ゴジラは天皇の代わりに戦争を終わらせにやってくる。
この文章で何度か書いたようにゴジラの出現には終戦を省略する役割があった。そしてその終戦は天皇と深いかかわりがあることを確認した。
ゴジラが天皇の代わりにやってくる、という事態はゴジラシリーズにおいても異例だといえる。ゴジラシリーズにおいて天皇の不在は天皇がいない日本やゴジラの不可能として解釈されることはあっても、天皇それ自体を補完するものとして解釈されることはなかったからである。
そして虚構であるゴジラによって、あったはずの終戦が隠された本作においては、戦後もまた虚構となる。だから天皇なしの終戦を経た戦後を敷島は夢ではないか、と疑う。
ではゴジラによっていかにして戦争は終わるのか。それはゴジラが倒されることによって戦争が終わるのである。
監督の山崎貴はゴジラ観についてゴジラ-1.0のパンフレットで「僕の中では神様と生物の両方を兼ね備えた存在というイメージがありました。」と述べている。このゴジラ観から山崎がゴジラに神を重ねていることが分かる。
こう見たときにゴジラに対する勝利は本土決戦、戦勝の成就として見るべきというよりむしろゴジラ(=神)の敗北として見るべきではないかと思われる。
ゴジラの敗北が神の敗北だとしたとき、重ね合わされるのはここでもやはり天皇である。
ここで本作は未完の勝戦や敗戦を描いた作品というよりはその微妙な重なり、戦争には負けたが勝負には勝った的な心情、感覚を描いているように思う。
本作のラスト付近では中盤でゴジラの被害を受けた典子が奇跡的に生きており、敷島と典子が病院で再会するシーンがある。そのシーンのラストカットは典子の首あたりにある黒い染みのようなものが映し出されて終わる。
このショットには戦後が終わらないといった解釈や被爆を示すものだという解釈がされている。だが私はあえてこれをポジティブに解釈してみようと思う。
あの黒い染みがゴジラによるものだ、というときそれは作中でも描写されたようなゴジラの驚異的な回復力を受け継いだものと予想される。だから典子は奇跡的に助かる。
そしてその回復という事実は被害を受けた地域、人々の復興を予感させる。同時に先に述べたようにゴジラは神とも捉えられる。そのとき典子の黒い染みはその神の一片を受けたようにも考えられる。神から人へというときに天皇の人間宣言を思い出すのは飛躍しすぎだろう。だが戦後天皇制とは頂点として天皇の独裁を示すものではなく、象徴天皇として、むしろ人々の中に遍在するものだろうと思う。だとすれば、あのシーンは神の時代が終わり人の時代が来る、という戦後民主主義の到来を示しているように解釈されてもよいと思う。

5.↑というような話ではないだろう。


しかし、ここまでで確認してきたような思想はこの映画にはない。むしろ見せたいシーンとやりたいことを合体した結果のチグハグさが脚本と演出に表れている。もし山﨑貴が思想家であればいくらかの娯楽性を犠牲にしてでも演出や脚本の元に統合しただろう。それをしなかったのは単に思想にそこまで関心がなかったからだろうと思う(が、実は恐ろしく狡猾でそのチグハグさや薄さがもたらす無思想感で作品の印象をコーティングすることによって誇大妄想的思想を隠している可能性もある。)
山﨑は戦争の事実を描いていない、という批判もあるだろうが、むしろ書きえないこそとった態度によるものである。だから、思想によって補正することで今から見た正しい戦後を描いた作品、ではなかったことは山﨑の誠実さの表れだろうと思う。
そして何か思想的なものを剥ぎ取った後にこの作品に残ったものは作り物であるにもかかわらず、ゴジラが持つ絶対性と鑑賞者や登場人物たちがそれに抱く恐怖、そして神木隆之介演じる敷島と浜辺美波演じる典子のメロドラマに感じる感動は鑑賞者にとって本物だろう。
残されたものはゴジラとメロドラマであったとき、それは初代ゴジラとの見事な対称性を見せている。
一つ差異を挙げるとすればゴジラを特攻によって倒そうとする点であり、かつて芹沢博士はオキシジェンデストロイヤーによってゴジラを道連れにしたが、敷島は生還するのだ。

この映画は私たちの、現代日本人(と言うべきではなく、日本に住み育った人、と言うべきかもしれない)の戦後観、戦後という集合的記憶を表した作品である。
現代日本のオリジン、ゼロではなくマイナスワン足り得るのはこの作品が一歩引いた地点から始めるからである。
戦後観を基に、一歩引いた地点から始めるこの作品はそれ故に誰しもが現代との繋がりを見出すことができる。右翼であれ左翼であれ、教訓やあるいは相手思想の脅威を。
しかし、この作品が虚構であるというとき、そもそも私たちが今いる現実が実体験としてはアクセス不可能な、虚構としてしか構築しえない歴史の延長線上にあることを思い出させるように思う。

いかなる現実も夢とか怪しげな記憶の延長線上にしかない。そして今を生きるにはかつてあった事をどう思い出すか、どう乗り越えようとするか、ということでしかない。
例えいまがごっこの世界や虚妄、あるいは終わらない戦後とか悪夢だったとしてもそれが現実だ、ということであり、しかしそれを、それが現実だ、として諦めることではない、ということではなかろうか。

この映画は戦後を描いた。それは夢とか虚構としての戦後である。
描かれた戦後は空虚な虚構かもしれない。それは誰しもが思い思いの戦後を託せるものである。だからこそ今を生きるために過去に何を託すのかが問題となるのである。

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