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死ねるおまえら

 羨ましい。もうすぐ死ねるおまえらのことが本当に羨ましい。これから起こるニンゲン対シゼンの戦争のことなんて何も気にする必要などないのだから。おまえらは宣戦布告したまま死んでいく。俺たちにツケを残して、甘い汁だけチューチュー吸って死んでく。俺たちが何をした。おまえたちの人生にしてみれば、五分の一程度しか存在していない俺たちだ。なんの力もない俺たちだ。おまえたちの年金を支えることもしていない俺に、文句を言う資格はないか。おまえたちに育ててもらった覚えもない。声を大にして言いたいけれど、おまえたちに生かされていることになっているらしい。そして、糞不味く冷え切ったデリバリー型給食に耐え抜いて、俺たちはようやく義務教育を終える。
「これからどうすっか」
 俺は椅子にまたがって背もたれに頬杖をつく。
「ひとまずココの墓参りに行こうよ」
「殺したやつぶん殴るか」
「のるかそるか」
 田舎の婆ちゃんちに行った夏休み、ココは未曽有の豪雨による川の氾濫だか土砂崩れだかに呑まれて死んだ。海を見てくるなんて言い出したまま帰ってこなかった爺ちゃんを探しに外に出ちまったんだよ。婆ちゃんは止めたんだって言ってたらしいけど、止めらんなかったから死んだんだろう。ジルベはココに惚れていたからショックは俺なんかより遥かに大きい。
「ひとまずココの墓参りに行こうよ」
 ジルベが言い出したんなら誰もノーなんて言えない。
「殺したやつぶん殴るか」
 いつだって威勢のいいゴンゾーラだが、他人に暴力をふるった現場を見たことがない。
「のるかそるか」
 メガロウは慣用句の使い方を間違える。
 春休みにやるべきことは決まった。俺たちはココの墓参りに行く。
「どうやって行くかが問題だよな」
 俺が芝居じみた顔で腕を組めば、ゴンゾーラはいとも簡単に解決する。
「ノガチンに車出してもらおうや」
 技術の先生だ。だったと言ったほうが適切か。俺たちは国歌も市歌もレミオロメンも歌わされ、喉を嗄らして卒業したのだから。ネジには雄ネジと雌ネジがあって、なんで雄雌と呼ぶのか分かりやすく教えてくれた。頭はカリフラワーみたいで切手集めが趣味だった。俺も半年くらいはまったけれど、なんであんなものに小遣いを注ぎ込んでしまったのか、今となっては悔やまれる。
「おまえら世代はもっと怒っていい」
 ココが死んだとき、担任以上に目を赤くして俺たちを諭してくれたのもノガチンだった。ココの墓参りに行きたいと言えば、車くらい出してくれるかもしれない。
「じゃ、頼むぞ。山岸」
 ゴンゾーラは当たり前のように俺の背中を叩く。なんで俺がやらなければならない。
「こういうのは言い出しっぺがやるものだ」
 言い出しっぺって、「これから何すっか」って口にしただけだろう。
「ココの墓参りがしたいと言い出したのはジルベじゃねえか」
 ちらり視線を運べば、なんだよおまえ、もう泣きそうじゃねえか。
「善は急げだ」
 メガロウは慣用句で押し通す。俺がノガチンに車を出すよう交渉する。その線に反対意見は出ないようだ。そりゃそうだろう。誰にとっても交渉というやつは面倒だ。俺にだってもちろん。
「大体、ココの墓ってどこにあるんだよ」
「ココが呑まれた親父さんの実家近くだ。場所は聞いてある」
 糞、知ってんのかよ。面倒なことは明日に回したいが、校門を出たら俺たちはもう部外者だ。ノガチンが無理を聴いてくれるのも今日が最後かもしれない。
「ジルベは一緒に来いよ。場所知ってんのおまえだけだろう」
 俺たちは教室を後にした。廊下には両手を取り合って涙する女子がいる。今生の別れじゃあるまいし大げさなんだよ。マコは一人ぼんやりと外を眺めていた。ココの親友だった。声をかけようかと思ったけれどやめておく。話がややこしくなりそうだ。
「なあマコ、ココの墓参りに行かないか?」
 やめとけよ。
「え、行きたい」
 ややこしくなりそうだ。ノガチンに車を出してもらうつもりだと伝えると、マコはココの思い出話をはじめ、ジルベの涙腺が決壊した。
「なんであんな日に婆ちゃんちなんかに行くんだよ」
 大概みんな婆ちゃんちって言うよな。なんで爺ちゃんちっていう奴はいないんだ。どうでもいいことが頭を廻る。
「お爺ちゃんを助けようなんてココらしいけどね。私なら絶対しない」
 マコは爺ちゃんと一緒に暮らしていたはずだ。助けてやれよ。ココの話はいつの間にやらマコの爺ちゃんの話にすり替わる。自分の娘でもないお母さんの食事に文句ばかりつけるサイテーな爺さんだそうだ。どこにでもありそうな話だ。
「私がホットケーキ焼いてあげたら、そんなものは食わないなんて言うし」
 ややこしい爺さんのようだ。ジルベの涙もすっかり枯れ果てた頃、俺たちは技術準備室に辿り着いた。
「いるかな。ノガチン」
「いるんじゃない。担任持ってないし」
 ノックをしても返事がない。俺はゆっくりとドアを開けた。いるじゃねえか。ノガチンは万力で挟んだ金属片にヤスリをかけていた。
「先生」
 さすがに本人の前でノガチンとは呼ばない。
「おう、どうした?」
 俺たちが今日で卒業することすら知らないのではないか。
「何作ってんすか?」
 目を細めるとそれは骸骨のように見える。
「すごいだろう。真鍮を磨いて作ったスカルヘッドだ。シフトレバーのノブにしようと思ってな」
 センスの悪さが露呈しているが、ノガチンから車の話題が出てきたのは好都合だった。
「先生の車、乗ってみたいな」
 ジルベが大きくうなずく。そして、マコが一気に詰め寄った。
「行きたいところがあるんですよ」
 ノガチンはヤスリを置いて眉を持ち上げる。
「どこ?」
 ジルベが口にしたその場所にノガチンの声が裏返った。
「めっちゃ遠いじゃねえかよ。一日で往復なんかできないぞ」
「ココのお墓があるんだよ」
 ノガチンは大きく息を吸って下唇をかんだ。俺たちは言葉を待った。
「おまえら三人か?」
「あとゴンゾーラとメガロウも一緒だと思う」
「無理無理。俺の車、どう頑張っても俺以外に三人しか乗れないよ」
「軽自動車?」
「馬鹿言うな。RX‐7だ」
「知らんけど」
「我が国が誇るスポーツカーだよ。後部座席は拷問部屋って呼ばれてるけどな」
 ジルベは俺に振り返る。
「ゴンゾーラとメガロウは置いていこう。いいだろう、山岸」
 なぜ俺を説得しようとする。卒業早々、仲間割れというのもなんだが気分が悪い。
「日帰りとか言うなよ。一泊するんだったら、親に許可とって宿でも探さなきゃな」
 途端に気分が沈む。親の許可なんか取れるものか。宿代をノガチンが払ってくれるわけでもないだろう。面倒臭いバロメーターが振り切った。
「無理無理。やっぱいいわ、ノガチン」
 眉間に皺が寄り、往年のヤンキー顔が浮かび上がる。
「なんだ?そのノガチンてのは」
 真鍮のスカルヘッドをシフトレバーに付けようなんて男だ。根が昭和のヤンキーである。俺は深々と頭を下げて技術準備室から飛び出した。

 羨ましい。もうすぐ死ねるおまえらのことが本当に羨ましい。これから起こるニンゲン対ニンゲンの戦争のことなんて何も気にする必要などないのだから。おまえらは呷るだけ呷って、軍拡増税の末に武器を買い集める。俺たちを戦場に送り出して、高み見物を楽しんだら暖かい布団にくるまれて死んでいく。俺たちが何をした。おまえたちの人生にしてみれば、五分の一程度しか存在していない俺たちだ。投票権すらない俺たちだ。おまえたちのシナリオを書き換える権利がない。おまえたちのシナリオに犠牲者は明記されない。もうすぐ死ぬものだから一年で目に見える成果を上げないと不安でならない。身内の誰かが褒めてくれればすぐに満足してしまう。糞不味く冷え切ったデリバリー型給食は笑い話で済ませてあげる。でもさ、もううんざりなんだよ。俺たちは金輪際おまえたちの教育を受けるつもりなんてない。
「これからどうすっか」
 俺は朝礼台に腰を下ろして足を組む。
「ココの墓参りには行こうよ」
「金巻き上げないとな」
「あんたがノガチンを怒らせるから」
「時は金なり」
 親に許可をとれなんてつまらないことを言いやがる。ようやく義務教育を終えたと言うのにどうして好き勝手させてくれない。ジルベはスマホでココが眠る場所をルート検索。車があったら九時間三二分だ。歩いて行ったら五日と一五時間。阿呆のように長かった三年間を思えば五日と一五時間なんて大したこともないように思える。それでも流石に歩き通す気にはなれない。
「ひとまずココの墓参りには行こうよ」
 ジルベが引き下がらないなら、誰もノーなんて言えない。
「金巻き上げないとな」
 ゴンゾーラは威勢のいいことを言うが、あいつが他人から金を巻き上げたところなんて見たことがない。
「あんたがノガチンを怒らせるから」
 マコに痛いところをつかれて俺は鼻を鳴らす。
「時は金なり」
 メガロウの慣用句になにか答えが隠れているような気もするが、恐らく気のせいだ。マコと墓参りに行くなら春休みのうちに済ませる必要がある。俺たちには無限に時間があっても、あいつは進学が決まっている。春休みなんて二週間もない。歩いて墓参りに行こうなんてものならば、寝ずに歩き続けなければならない。
「夜行バスもあるな」
 ジルベはあきらめない。
「いくら?」
「片道で八千円くらいだ」
 結局、金だよ。金目のものがどこかにないかと考えれば思い当たるものがある。そんなことゴンゾーラだって思いつく。
「切手ってまだ残ってるか?」
 俺たちはノガチンに乗せられて切手集めをしていたではないか。
「それだよ」
「それでしょ」
「よし、マコの爺さんに頼もう」
 マコは目をまるめる。
「は?なんなのそれ?あんたらが勝手に売りに行けばいいじゃない」
「未成年がモノ売れるわけないだろう。俺たちはブックオフで漫画本一冊すら売れないんだぞ」
「自分の親に頼みなさいよ。なんでウチの爺ィに頼まなきゃなんないわけ?」
「親は無理だ」
「俺も」
「任せておけ。マコの爺さんには顔が利く」
 思いがけないところから声が上がった。メガロウは腕を組む。
「あんた何言ってんの?」
「マコの爺さんとは将棋仲間だ。ふれあい地区センターでよく対局している」
「あんただったの?」
 マコは小声で呟く。思い当たる節があるようだ。
「頼んだぞ、メガロウ」
「明後日だ。明後日の一四時に約束がある」
「じゃあ、おまえに切手を託すぞ」
「おう。明日までに全部かき集めてもってこい」
 マコはため息を漏らした。

 そして、俺たちは地区センターの体育室で卓球をしている。
「うまくいくんかいな?」
「多分、大丈夫」
 思いがけずマコのお墨付きが出た。爺さんが最近頻繁に出掛けていくことにマコは気付いていた。そして、夜になるとご機嫌に対局成績を語った。誰もがその話はさっきも聞いたと思っているが、機嫌のいい爺さんが夕食の時間を溶かしていく。それでも余計な一言は忘れない。
「醤油変わったかね」
 ジルベはシェークハンドの握りかたを指摘する。俺は不必要に距離を取ってサーブを打つ。ゴンゾーラはバウンドしても変化のない回転をかける。できないからこそやるんだよ。一回の予約で四五分しかプレイできない。短いなと愚痴をこぼしても、やりはじめると意外と長い。試したい技は尽きた。俺たちはラリーで残りの時間を潰した。
「ところで将棋ってどんだけかかるんだ?」
「翌日持ち越しとかあるよな」
「俺だったら将棋盤ひっくり返すな。爺さん強いの?メガロウとの対戦成績どうなってんのよ?」
 マコは突然のスマッシュ。
「全勝」
 機嫌のいい爺さんを思えば、どちらとは聞くまでもない。
「時間でぇす。卓球台をアルコールで拭いてくださぁい。ラケットはこちらで消毒しまぁす」
 球が跳ねるだけの卓球台を拭く必要があるのか。俺は卓球玉を伝って緑色の台へと拡がっていくウィルスの逞しさを思う。
 卓球を終えた俺たちは、壁に身体を寄せて地区センターの廊下を進む。そして、ふれあいルームをこっそり覗きこんだ。
「メガロウと爺さんはまだやってんのか?」
 将棋なんて延々やるものと思っていた。
「いなくね?」
 マコが首をのばす。
「いない」
 俺たちは顔を見合わせた。マコは下唇を噛み、ジルベは下あごを突き出す。ゴンゾーラはぽかんと口を開け、俺も何かしなければと鼻の下を伸ばした。それでも慌てる必要はなかった。メガロウがうまくやっているのであれば、駅前ビルの「たからじま」に向かっているはずだ。線路の向こう、栄えていない北口に、宝石・ブランド品の買い取り専門店がある。スマホをスクロールすれば切手だって買い取ってくれると書いてあった。
 線路をくぐって再び白い太陽を浴びると、雑居ビルから下りてくる人の姿があった。
「メガロウだ。爺さんもいる」
「ジルベ、おまえ目がいいな」
「五・〇」
「マジで?俺、一〇・八」
 俺は三〇・六と言いかけて止めた。メガロウが俺たちに気づいて手を振った。マコは咄嗟に俺の後ろに隠れる。それだけで俺に惚れてんのかなと思う。
「何百万円だった?」
「果報は寝て待て」
 メガロウは爺さんの一歩後ろを歩いてくる。
「で、いくらなんだよ」
「査定を待って、金額は明日だ」
 マコの爺さんは応えた。ジルベは深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
 そうだった。何より礼が先だ。俺とゴンゾーラもジルベに負けないほど頭を垂らした。隠れていたはずのマコが顔を出す。
「見覚えのあるのがいるな」
 爺さんは無表情で、マコも取りあえず頭を下げる。
「友達の墓参りをしたいというのは感心だ。でも、あまり期待しないほうがいいかもしれんぞ」
「最近、切手集めてる人少ないからねぇ、なんて言われちまったよ」
 メガロウが付け加えた。爺さんは俺たちの横を抜けて歩き続ける。
「もう一局やるか」
 メガロウは俺たちに手を振って地区センターへと戻っていった。
 
 全部で一万円にもならなかった。
「切手集めなんて随分と古臭いことをしていたもんだな」
 加齢臭のする爺さんに言われたくない。
「マクドナルドでも行くか」
 奢ってもらえる予感に俺たちは顔を上げた。各自ドリンク一杯と全員でポテトのLサイズ一個。マコは爺さんに見えないよう手を合わる。そして、済まなそうに眉を垂らした。奢ってもらえるものならば文句はない。爺さんはコーヒーを美味そうに啜る。ヒトの飯に文句を垂れるような爺さんには見えなかった。
「一〇〇円でおかわり自由なんてありがたい」
 そんなサービスは聞いたことがない。俺たちはポテトを摘まんでからテーブルに金を広げる。何度数えたところで金額に変わりはなかった。
「八七六〇円」
 切手収集は小さな美術館を建てるようなものだとノガチンは言っていた。絵画の価値は落ちない。乗せられた俺たちが馬鹿だった。毎月のお小遣いを切手につぎ込んだ日々は何だったのか。「見返り美人」や「月に雁」への憧れ。男子たるものいつだって収集に熱中する。俺たち四人はトレカでもスニーカーでもなく、こんな時代に切手集めだった。
 爺さんはコーヒーを啜って息を吐く。
「こいつは夜行バス一人分だぞ」
「一席に五人座ればOKか」
「俺たちはジルベの荷物だと言い張るか」
「俺、ジルベのペットでもいいぞ」
「マコはジルベの愛人な」
「愛人は乗車賃かかるだろう」
 爺さんの視線が刺さる。マコは明後日を向いたままだ。
「レンタカーという手がある」
 思いがけず爺さんからの提案があがった。しかし、誰が運転するというのだ。切手を金に換えることができない。ハンドルを握ることも許されない。俺たちに足りないものは大人のライセンスだった。それでもテーブルに視線を落とせば切手が金に変わっていることに気付く。俺は顔を上げた。先ほどの問いを口にしてみる。
「誰が運転するというのだ」
 爺さんは口角を持ち上げて親指を立てる。そいつを自分の胸に突き立てた。途端、マコの声が響いた。
「お爺ちゃん、免許返納しなかったの?この前、事故起こしたじゃない。ダメダメダメ。絶対ダメ」
「この前って、何年も前だろう。あれはマコトの整備が悪かったんだよ」
 マコのお父さんってマコトっていうんだな。お母さんか?
「事故起こしてから何年も乗ってないってことでしょ」
 俺たちの視線は右往左往。爺さんはポケットから取り出したライセンスを印籠のように突き出した。
「認知機能検査も高齢者講習も一発パスだ」
 爺さんはマコを助手席に乗せてドライブした時、縁石に乗り上げる事故を起したそうだ。まだ小学生の頃だというから三年以上は昔のことらしい。通行人がいなかったから自損事故で済んだが、縁石がなかったら助手席のマコがただでは済まなかった。
「どうせブレーキとアクセルを踏み間違えましたって、あれでしょう?」
「あれはマコトの整備が悪かったんだ。そもそも最近のハイブリットナントカってのは無駄なものが多すぎるんだよ」
 整備の問題ではなさそうだ。ジルベが立ち上がる。そして、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
 マコは目を見開いた。
「あんた死ぬよ」
「ココのところに行けるのであれば構わない」
 それの意味する行先に不安を覚える。咥えたポテトが口から落ちた。
「開いた口が塞がらない」
 爺さんも立ち上がる。印籠をポケットに戻すと、ジルベの手を握った。
「必ず連れて行ってやる」
 背筋に寒気が走った。ホットコーヒーにしておくべきだった。コーンポタージュでもいいな。

 あれだけ嫌がっていたマコもしっかり車に乗っていた。それでも助手席は断固として拒否、そこには将棋仲間のメガロウが座った。俺たちは後部座席に詰め込まれる。
「うしろ三人乗りなんじゃないの?」
「しかたねえだろ。六人乗りのワゴンなんて借りれなかったんだよ」
「車はこれくらいシンプルなバンに限る」
 爺さんは久しぶりのハンドルにご満悦だ。
「下道だと一二時間以上かかるけど大丈夫っすか?」
「座ってハンドル握ってるだけだ」
 車は疲れると聞くが、確かに座ってハンドルを回しているだけだろうとも思う。
「お爺さんそこ左」
 勢いよくハンドルが切られ、早速、バンが縁石に乗り上げそうになる。
「急に言うやつがあるか」
 爺さんの怒号が響く。後部座席の俺たちは押しつぶされ、マコは悲鳴を上げた。
「暗雲が立ち込める」
「ナビが悪い。次の信号を左とか言わんか。おまえは大体先を読むってことをしないから直ぐに詰まれるんだよ。いつだって遊び駒が多すぎて縛りが全くなっていない」
 カーナビの話はなぜか将棋の話題へ移っていった。俺たちは二人の話についていけず、メガロウに目配せする爺さんに前を向いてくれと祈るばかり。高速道路を走る金がないというのが唯一の救いだ。ダンプに突っ込みさえしなければ、事故ったとしても骨の三本くらいで許されるだろう。
 ジルベはスマホでマップばかり眺めている。まだ走りはじめて一時間も経っていない。俺は反対に座るマコに問いかけた。
「マコは高校行って何するんだ?」
「なにって、友達作って、勉強して、中学校と別に変わんないんじゃない」
「部活はやらんの?」
 ゴンゾーラも加わる。
「多分やんない」
「バレーボールやってたよな?」
「私、ちっちゃいし、ココみたいに才能ないから」
「バイトは?」
「なんかうちの高校ダメみたい」
「どこでも基本的にはダメだろ?」
「知らないけど」
「俺、わりと高校説明会って行ったんだよ」
 ゴンゾーラのくせに、そいつは意外だ。本当は高校に行きたかったんじゃないだろうか。俺はうまく口を挟むことができない。
「大体、特別な事情がない限りダメとか言うんだよ」
「特別な事情って?」
「バイトしないと死んじゃう病」
「なにそれ」
 再び車が大きく曲がって俺たちはジルベを押しつぶす。爺さんの運転にも慣れたもんだ。
「あんたたち、なんで高校行かないの?」
 ゴンゾーラが視線をパスする。そいつは俺が答えなければならないか。どこから話すべきか言葉を探す。
 きっかけはテレビのドキュメンタリーかなんかだったと思う。海抜上昇によって水没していく群島。森が焼けてバーベキューになったコアラ。あと一〇年もせずに、この地球は取り返しのつかないことになるという。それなのに残念な大臣はミサイルや戦闘機にばかり金を使って、死ぬまで遊んで暮らすつもりだ。俺だって男子だ。収集癖があることに一定の理解はある。餓鬼の頃は、小遣い貯めてプラモデルなんかも買ったよ。戦闘機や軍艦を組み立てた記憶もある。でも、財布の金で満足しろよ。新たに税金巻き上げてトマホークなんて買う馬鹿いるかよ。
「ココが濁流に呑まれても平気でいられるニンゲンから、もう教育なんて受けたくないんだよ」
 俺は多くを端折ってそこだけ伝えた。ジルベが頷く。
「で、これからどうすんの?」
 卒業証書を受け取ったあの日、俺は仲間にそれを尋ねたつもりだった。そこで出てきた言葉がこれだったわけだ。
「これからは墓参りだよ」
「その先のことを聞いてんでしょ」
 そいつはまだ考えていない。
「ココにでも聞いてみるか」
「賛成」
 ジルベはマップに目を落としたまま応えた。
「腹減って死にそうだな」
 ゴンゾーラは言う。言われてみれば多少は腹が減った。
「マクドナルド行くか」
 爺さんは言う。若いやつはマックを食わせておけば満足すると思っているのだろう。
「俺、うどんとか食いたいけど」
 ジルベはスマホで讃岐うどん屋を探しはじめる。硬い太麺のぶっかけに半熟卵の天ぷらとかサイコーだよな。俺は涎があふれる。ジルベの声は届かず、爺さんは見慣れた赤い看板を見つけるとおもむろにハンドルを切った。そして、俺たちはゴールデンアーチのかかったハンバーガー屋に連れていかれる。
「奢ってやるから心配すんな」
 また、ポテトとジュースだけではないかと心配だ。俺たちはテーブルに押し込まれ、爺さんは一人カウンターへ向かった。
「マコの爺さんマック好きなのか?」
「知らない。一緒に行ったことなんてなかったし」
「飯に文句言うって割にはそんなにこだわりなさそうだよな」
「文句言うのが好きなだけじゃない」
 今のところ文句を言われてはいないが、飯の選択権はないようだ。そして、爺さんは大量のマックバーガーとポテトが盛られたトレーを運んできた。なぜか店員を引き連れている。
「水は適当に並べてくれ。まったく餓鬼たちの腹を満たすのは大変だよ」
 爺さんが山盛りのトレーをテーブルの中央に置くと、肌の白いニキビ面が水の入った紙コップを並べていく。
「バーガーは一人二個だ。それくらい食うだろう」
 爺さんは自分だけコーヒーを啜ってハンバーガーにかぶりついた。ゴンゾーラはクチャクチャと音を立てる。
「口を閉じて食えと言われなかったのか?」
 あいつは水を啜って、ポテトに手を伸ばした。
「おい」
 ゴンゾーラは顔をあげる。
「あ?」
「クチャクチャするな」
「爺さん、ハンバーガー好きなんだな」
「モノが口に入っている間に喋るな」
 俺はジルベと変顔を合わせた。マコは俯いたまま一本のポテトを齧り続ける。空気が凍てついていく。それでもゴンゾーラはお構いなしだ。
「爺さんはなんで飯の文句ばっか言うんだ?」
 ゴンゾーラの直球は外角いっぱい。マコの顔が高潮する。
「飯の文句なんて言ってないだろう。おまえの食い方が汚いと言っているんだ」
「火に油を注ぐ」
 メガロウは早くも二つ目のバーガーに手をつけた。
「でも、味が濃いとか硬いとか文句言うんだろう」
 爺さんの視線がマコを刺す。
「味が濃かったことなどない。大体いっつも味が薄いんだよ」
 俺の爺さんも高血圧だった。味の薄い飯と冷えた飯は二大不味い。奥歯に肉が詰まって水を呷った。
「ベロが死んでんじゃねえの」
 ジルベが大笑いして、俺は盛大に噴水した。
「きったねえな、山岸」
 ジルベはさらに大笑い。
「飯の上に吐き出すんじゃねえよ」
 ゴンゾーラは自分が誘っておいて大いに不満そうだ。
「おまえらはどんな躾をされたんだ」
 爺さんの追い打ちに、俺は鷲掴みにしたポテトを口に押し込んだ。
「汚ねえと思うやつは食うんじゃねえ」
 マコまでが非難の視線を浴びせてくる。その目は爺さんと似ていた。ジルベは危機を察してトレーを押さえ込む。俺がひっくり返すとでも思ったのだろう。その通りだよ。俺は左手で掴んだ紙コップの水をジルベの顔面に浴びせると、右手で勢いよくトレーをひっくり返した。無数のポテトが晩秋の銀杏のように舞った。
「なんなんだ、おまえのその態度は」
 爺さんが勢い良く立ち上がる。俺は深々と頭を下げてマクドナルドから飛び出した。

 飛び出したところで、ここがどこであるのか全く見当がつかない。俺は爺さんの運転するバンに乗り込むほかないが、きっかけが掴めない。すると真っすぐにマコがやって来て、俺の頬を平手で張った。
「わけ分かんない」
 そいつはこっちのセリフだ。
「痛ってえな」
「あんた、ノガチンから車出してもらおうとした時もいきなり態度変えて怒らせたでしょう。そういう餓鬼っぽいの止めたほうがいいと思うよ」
 ゴンゾーラが未開封のバーガーを俺に放った。
「いきなり切れんなよ」
 弧を描くバーガーを叩き落とすべきか。ゴンゾーラが拳で自分の掌を打つ。俺は衝動を抑え込み、なんとかそいつをキャッチした。
「切れたわけじゃない」
 俺の台詞をジルベが続けた。
「面倒臭くなっただけだ」
 俺は鼻を鳴らして、バーガーを放る。ジルベはそいつを叩き落とした。俺は目を丸くする。次の瞬間、ジルベが声を張り上げながら突進してきた。俺は押し倒され駐車場のアスファルトに後頭部を強く打ち付けた。記憶がぶっ飛びそうになる俺に、ジルベが跨って声を上げている。俺を罵っているのだろうか。餓鬼みたいに不貞腐れているんじゃねえ。都合が悪くなるとすぐに逃げ出すんじゃねえ。自分一人が不幸みたいな面するんじゃねえ。何の取柄もないくせにリーダー面するんじゃねえ。頭がグラグラしてそいつがジルベの声であるのかすら分からない。ゴンゾーラの声のようにも、マコの声のようにも聞こえる。父親の声のようにも、自分の声であるようにも聞こえた。
 どうにか目を開けると、ジルベは俺の襟首を捕まえて眼球の毛細血管を膨らませていた。
「こんなところで立ち止まらせんなよ」
 ジルベが鼻を啜る。よく泣くヤツだよ。遠くで爺さんのがなり声が聞こえる。視線を向ければ、メガロウが背中から羽交い絞めにしていた。
「爺さん、マジで帰っちまうぞ。こんなところで終わらせないでくれよ」
 ジルベは訴える。ポケットに手を突っ込んだゴンゾーラが俺を見下ろした。
「土下座してこい」
 ジルベは俺の襟を正して立ち上がった。マコが俺に手を差し伸べる。
「いいよ。そんなことしなくても」
 白くて冷たい手を握り俺はなんとか立ち上がる。ジルベが叩き落したバーガーを拾い上げて爺さんのもとへ重たい足を運んだ。何を言うべきか考えるのも億劫だった。考えろ。餓鬼みたいに不貞腐れているんじゃねえ。考えろよ。都合が悪くなるとすぐに逃げ出すんじゃねえ。考えるんだ。自分一人が不幸みたいな面するんじゃねえ。五月蠅えよ。何の取柄もないくせにリーダー面するんじゃねえ。分かってんだよ。
「おまえみたいな礼儀知らずとはもう付き合いきれん」
 そんなこと自分が一番分かっている。俺は包み紙を毟り取って、バーガーを口に詰め込んだ。何度も噛んで、噛んで、噛んで、噛んで、どうにか喉を通過させた。
「ごちそうさまでした。俺たちをココのところまで連れてってください」
 結局、俺にはいいアイデアが何も思いつかない。ゴンゾーラの案に乗っかるしかなかった。
「馬鹿」
 マコの舌打ちが聞こえる。なんか芝居じみてるよな。妙に冷静な自分もいる。
「お爺ちゃん、ハンバーガー好きだったの?」
「あ?」
 マコの問いかけに爺さんはどこか動揺している。
「ハンバーガー。好きなんだね」
「基本的に、あれだ。ケチャップ味のものが好きだ」
 俺は土下座しながらアスファルトに向かって噴き出した。
「そう言えばいいじゃない」
「おまえの、ロールキャベツは、なかなかよかった」
「うっそだあ」
 マコはそう言い捨てながらバンのほうへと歩き出す。
「そんなことないぞ。て言うか、おまえはいい加減に放さんか」
 メガロウに解き放たれた爺さんは、マコを追いかけるようにバンへ向かう。
「絶対、美味しいなんて言わないじゃない」
「そんなことないぞ」
 絶対言わない。そんなことない。絶対言わない。そんなことない。同じ言葉を繰り返しながら二人はバンに乗り込んだ。メガロウは助手席に飛び込む。ジルベとゴンゾーラに両肩を抱えられた俺も後部座席に押し込まれた。

 しばらく寝ていたようだ。チカチカ目を刺す明かりに瞼を開けば、隣でジルベがスマホをいじっていた。辺りは真っ暗だった。桜の季節は過ぎたというのに少し肌寒い。エンジンの代わりに爺さんの鼾が鳴っている。無理やり詰め込んだバーガーを消化しきれないでいるのか、腹は減っていなかった。
「悪い。起したか?」
 ジルベは声を潜めた。
「いつのまにか寝ちまってたみたいだ」
 俺も小声で応える。
「あの後、頭が痛えって言いながらすぐに寝たよ。死んじまうんじゃねえかと思った」
「まだ生きてるらしいな。みんな寝てんのか」
「大分近くまで来てるはずなんだけどな。急に街灯もなくなったから車を停めたんだ。この辺、停電してんじゃねえのか。爺さんも疲れたみたいだから寝たほうがいいだろう」
 ひどく真っ暗だった。ジルベがスマホの画面を消すと星空が包んだ。
「なんだこりゃ。星ってこんなにあんのか?」
「なんか、すげぇところに来ちまったよな」
「すげぇ」
 夜空に魅了されていれば、ジルベの腹が鳴る。
「うどん食いてえな」
「腹減ったか?」
「山岸のせいでバーガー一個しか食えなかったよ」
 思えば最後に詰め込んだのは三つ目だったような気もする。ジルベが上から罵倒した時のことを思い返していた。あれは本当にあいつの言葉だったろうか。だったらマジでぶっとばしてやりたいけれど、ぶり返すのも野暮な話だ。
「なに観てたんだ?」
「ココのニュース。まだネットに残ってんだよ。一年半も前のことだけどな」
 再びスマホの画面が光を放ち、そこには学校指定ジャージの姿と「大迫琴美(14)」という表示が写された。事態を大変重く受け止めているそうだ。再発防止に努めたいらしい。
「ココ」
 マコが目を覚ました。ジルベは俺を跨いでマコにスマホを渡す。
「夢見てた」
「ココの?」
 マコは頷く。
「墓石を蹴り倒したらココが目を覚ますの」
 怖えよ。
「ココの話をしてよ」
 ジルベは声を潜めてマコにせがむ。
「あんた本当にココが好きなんだね。それ伝えたことあったの?」
 俺が代わりに首を振る。ジルベは項垂れてスマホの明かりを消した。星空にココの思い出が映し出される。身長が高くてバレーボールの才能に恵まれた女の子。ウィルス蔓延下でも公園でマスクをしながらボールを打ち合っていた。一緒に県大会を目指したけれど準決勝で負けたらしい。俺なんかは帰宅部で運動センスのないヤツだったから、マコとココの学校生活にはまるで共感ができなかった。大きい女は可愛げがないという思い込みで、ココに好意を抱くことなんてなかった。ジルベはマコの話を聞きながら鼻を啜って俺の肩を握る。痛えよ。
「ジルベはココのどんなところが好きだったの?」
 マコの問いかけに沈黙が続いた。爺さんの鼾が響き、星たちが三回転ほどした頃、ジルべの口からようやく言葉が零れた。
「デカいところ、かな」
 俺は拍子抜けする。それでも、マコには何か伝わるところがあったようだ。
「あの子、なんだか色々大きいのよ。だから、死んじゃったんだと思う」
「この世界には都合が悪かったんじゃないかな。今って色んな時のニュースとか見れるじゃない。なんかさ、ココみたいなのがいると、この糞みたいな世界がうまく廻らないんじゃないかなってさ」
「だよな」
 全然分かんねえよ。
「非の打ち所がない」
 メガロウが目を覚ましたようだ。
「そう。ココみたいな大きい人間が大人になると、この世界じゃ都合が悪いんだよ」
 次第に夜が明けてくる。辺りの様子がモノクロに浮かびあがってくる。
「なんだよここ」
 建物もなければ自然があるわけでもない。風景と呼べるようなものが何一つない。かつて世界が存在していたような虚無が浮かび上がってくる。ジルベとメガロウはスマホでマップを確認する。どうにか電波は拾えるようだ。後部座席のドアを開けて俺たちは外に出た。遥か向こうに、色のある建築物が見えている。でも、ココはあっちじゃない。
「歩いてあと二〇分ってとこか」
「歩くか」
 メガロウは助手席のパワーウインドウを下げる。
「俺は残るよ。爺さんとゴンゾーラだけ残していったら揉めるだろう」
 マコは頷く。ジルベとメガロウしかスマホを持っていないのだ。俺たちが分かれる時、この二人が連絡役にならざるを得ない。
 太陽に向かって灰色の大地を進んでいると、足元は木々や電柱を吞み込んだ土砂であることに気付く。時折、地蔵の顔なんかが現われて驚かされる。大量の土砂が堆積したままになっていた。
「あれから一年半は経ってるんだよな」
 俺は小さな上履きを拾い上げた。辺りを見回しても小学校らしき形跡は見られない。傾いた鳥居が見下ろす先には赤い前掛けをしたキツネが寝ている。そこから先は上り坂になっていた。倒れた樹々が露わになっている。とても車で入っていけそうもない。大木を跨いでマコの手を引く。枝を持ち上げてジルベが潜る。障害物競走はマコがトップに躍り出た。
「道がでてきたぞ」
 ようやくアスファルトで舗装された道路が現われた。ジルベは首を傾げてスマホも傾ける。
「この道でいいんじゃない」
 杉林を貫く道を行く。手をついたら倒れてしまいそうな痩せ細った樹々が立ち並んでいた。
「小屋だ」
 倉庫といったほうが適切か。中学校で言うならば、校庭の隅にある体育倉庫のようなプレハブ造りだった。人工物にヒトの気配を感じ、俺たちは吸い寄せられる。シャッターの開いた入口には錆び付いた軽トラックが止まっていた。サッカーボールや跳び箱が置かれているわけではない。なにか詰まったガラ袋が積まれていたが、ライン引き用の石灰ではないだろう。ただ土砂が詰まっただけの土嚢かもしれない。
「誰かいますか?」
 マコが声を出す。
「いませんよ」
 俺が裏声で応えれば、ジルベが肩を揺らした。
「脅かすなよ」
 笑い声を殺してジルベの肩を拳で打った。確かに誰もいないようで、背筋を冷やして小屋を後にした。花壇と思われる煉瓦造りの一角に、枯れた植物が刺さっていた。その隙間に小さな植物が花を咲かせている。
「ハルシオン」
 マコの言葉に俺の頭には嫌な記憶がよみがえる。
「それ睡眠薬じゃねえのか?ウチの母ちゃんがしょっちゅう飲んでたぞ」
「ハルジオン?」
 スマホで写真検索したジルベが応えた。
「そう言った」
 嘘つけ。マコはしゃがんで睡眠薬ではないほうのハルジオンを摘みはじめた。
「お墓参り行くんだからお花くらい欲しいよね」
 ジルベもスマホをポケットに突っ込んでせっせと摘みはじめた。
「花が枯れる前に急いで行かないと」

 そこはお寺ではなく路傍の墓だった。手を合わせている婆さんがいなかったら見過ごしていたところだ。座敷童でも見つけたように婆さんは目を丸めた。混乱した様子で視線をマコに送っていた。
「琴美ちゃん?」
 マコは申し訳なさそうに首を振る。ここでマコが墓石を蹴り倒したらココが目を覚ますのかもしれない。墓石に近づくマコに僅かな期待を寄せるが、あいつはしゃがみこんでハルジオンを供えた。
「私は大迫琴美の親友です」
 そう告げると、婆さんは肩を揺らしながらマコの首に絡みついた。大きな泣き声が頼りない杉林を揺らす。俺はようやくココが本当にいないということを実感した。ここに来れば再会ができるような気すらしていたんだよ。
「プレハブ小屋があったろう。あそこ、ココの出てくる場面かと思ってたよ」
 ジルベが鼻を啜る。
「んなわけねえだろう」
 俺は下唇を噛んでハルジオンを強く握った。

 墓石に手を合わせて、さらに山道を上がる。途端に視界が開けたかと思えば、眼下には海が広がっていた。太陽に照らされた水面が眩しく光る。峠のこちら側とは別世界だ。入り江につくられた漁村には幾艘もの舟が停泊していた。
「向こう側はきれいでしょう」
 ココの婆さんたちは元々この漁村で暮らしていたという。魚の数も減って身体も衰えたことから、峠を越えた内陸側の新興開発地に移り住んだ。調整池の周りに大型商業施設や幾つもの住宅を築いて、レイクタウンと名前が付けられた。集中豪雨による洪水を食い止めるため調整池は、大量の土石流までは想定していなかった。
 婆さんたちは一度離れた漁村に戻り、なんとか生活を繋いでいるという。俺たちは峠を下り、漁村へ足を踏み入れた。村の老人たちは、珍獣を見るような目で俺たちに不躾な視線をぶつけてくる。
「お爺さんは無事なんですよね?」
「あの日、あの人はこっち側に来ていたからね。高波が来る前に船を陸に上げて固定しておかなければならないってね。ほかのみんなに迷惑がかかるから。その時は、まだそんなに大雨ではなかったんだよ」
 それでも、ココは爺さんが心配になって大雨の中で峠を越えようとした。あいつがマコみたいにチビでバレーボールに恵まれていないような体格だったら。そんなことは考えては身勝手に悔やむ。
 爺さんが生きているなら、ぶつけてやりたい言葉があった。
「おまえら世代が引き起こした人災だよな」
 魚の獲れなくなった漁村に暮らす爺さんに、それを言ったところでなんになる。だからといってココの判断が愚かだったという結句はないだろう。なんでココだけが土石流に呑まれなければならなかったんだ。この峠を境に陸地側で起こった災害には何がある。
 背後から車のクラクションが鳴らされた。振り返れば窓から顔を出したマコの爺さんがなにか声を上げている。拳を握って険しい表情を浮かべているが、なにかまた怒られるようなことをしただろうか。
「マコの爺さんはよくここが分かったな」
 ジルベは現在地を示したマップを見せた。頷いてみせるが、俺はスマホの仕組みをよく知らない。
「これからどうすっか」
 俺は腕を組んでジルベに問いかける。
「ひとまずココの爺さんに挨拶だ」
 そりゃそうだ。
「おまえら世代が引き起こした人災だよな」
 一度だけ、マコとココの爺さんに問いかけてみてもいいような気がしている。もうすぐ死ぬおまえらが何を考えているのか。俺たちがこれからどうするのかなんて、そいつをはっきりさせてからだ。
「腹減ったな」
「俺、うどんとか食いたいけど」
 そろそろ米も食いたい。

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