田原坂慰霊碑に彼の名はなかった
「全戦没者」1万4000人から、なぜ外れたのか
【小野寺初太郎を追って 中】
今から147年前の1877年(明治10年)8月18日、西南戦争に官軍兵士として出征していた岩手県九戸村出身の小野寺初太郎(21)は、南九州の戦地で病死しました。九戸村出身者で唯一の西南戦争戦没者です。
私が彼を知ったのは偶然です。1995年九戸村発行「九戸村出身兵士の戦争体験記」の戦没者名簿を見て関心を持ちました。調べると、明治政府が戦争の翌年整備した宮崎の官軍墓地に葬られており、名前の刻まれた墓碑もあることが分かりました。
九州から数千キロ離れ少し前には新政府の敵とされた東北。そこの一兵士でもきちんと扱われたのだなと感心しました。そしてあの時代に一人過酷な運命に立ち向かった郷土の先人がいたことを、還暦を迎えるまで知らなかった自らの不明を恥じました。
しかし調べていくと事はそんな簡単なことではなかったのです。
官軍・薩軍「全戦没者の御霊を慰霊」
西南戦争最大の激戦地・熊本市田原坂(たばるざか)。 坂を上りきった丘には田原坂公園があり、資料館や展望所などが整備されています。その資料館近くに「西南の役戦没者慰霊之碑」があります。
慰霊碑を建立した植木町(現熊本市)は案内板でこのように説明しています。
慰霊碑は高さ12.5メートルの慰霊塔と、その後方に広がる高さ2.3メートル幅21.8メートルの慰霊碑でできています。その慰霊碑に西南戦争全体の官軍・薩軍双方の戦没者約1万4000人の名が刻まれています。
官軍戦没者は板の右上から、北海道、青森県、岩手県と北から出身地ごとに載っています。岩手県は「33名」という表示の後に、氏名が並んでいます。
しかし33名の中に「小野寺初太郎」という名前はないのです。
これは一体なぜなのか。
原資料は靖国神社忠魂史
慰霊碑は1957年の建立です。その後1990年に植木町の教育委員会が主体となって調査しまとめた「西南の役戦没者名簿」を元に1996年に銘板の修正をしたのが現在の慰霊碑です。
そして官軍戦没者名簿の原資料となったのが、靖国神社発行の「靖国神社忠魂史」(1935年)とのことでした。
この本の西南戦争の記述は、それぞれの戦いの説明をした後「この間に左記の戦死者を出した」という表現があり一人ずつ所属・死亡日・場所などが記されています。
そしてやはり、靖国神社忠魂史に初太郎の名前はありませんでした。
私は細島官軍墓地の資料から、死者の何がそれを分けているのか調べてみました。わかったのは、忠魂史に載ったのは「戦死」「負傷後死」「溺死」などの人で、載っていないのは「病死」「自殺」だったのです。
「病死」原因で載らず
つまり戦地で亡くなり国により墓地に埋葬されたにもかかわらず、初太郎は「病死」だったために靖国に合祀されなかったのです。それにより靖国の記録に残らず、それを原資料とした田原坂の戦没者慰霊碑にも名前が載らなかったと考えられるのでした。
赤澤史朗著「戦没者合祀と靖国神社」(2015年、吉川弘文館)によると、西南戦争病死者を東京招魂社※に合祀するかについて政府内で問題となり明治12年、溺死や暴発など事故を含む戦闘中の死や負傷後の死亡などは合祀する、病死についてはごく一部を除けば伝染病死も含め合祀は認めないという形で整理されたということでした。
※明治10年当時、靖国神社は東京招魂社で、靖国神社となったのは明治12年です。
後の戦争は病死者も合祀
病死者が靖国から排除されたことに疑問をもつかもしれません。もっともなことです。西南戦争の後に起きた大きな戦争ではいずれも病死者も合祀されるようになっているからです。
靖国神社忠魂史は、例えば日清戦争の記述の中で「この間の気候の変化、烈しき勤務等によって罹病し…斃れたものは左の通りである」などとした上で、戦闘による死と同様に病死の一覧を載せているのです(ただし、戦闘による戦死や負傷後の死亡は通常の「合祀」。病死は「特別合祀」とされ時期を遅らせて祀られていました)。
日清戦争は病死が9割
細かな違いはありますが日露戦争でも日中戦争でも太平洋戦争でも、病死を合祀対象としていることは変わりません。それは海外では戦闘による死より病死が圧倒的に多く、合祀を認めないわけにはいかなかったからでした(日清戦争では戦没者1万3300人のうち、病死が約9割の1万1900人でした)。
大きな戦争では西南戦争の病死者だけが丸々合祀されず、きちんと記録も記憶もされないことになってしまったのでした。
故郷の記憶と記録こそ
戦争における兵士の死というようなことでも政府のその時々の都合で基準が変わり、弔い方も変わるのです。
そんな中で変わらずにあり続けられうるのが故郷の人々などによる記録であり記憶です。靖国合祀にあたらないとされようが、彼を知る人たちが彼を悼み記録・記憶さえしてくれれば、それを後世の人が受け取ることは可能です。
そしてそれは、彼らを英雄として崇めるようなものではありません。彼らを記憶するということは、公的な評価から離れむしろ一人ひとりを生身の人間として冷静に見つめることにつながります。
田原坂公園の「戦没者慰霊之碑」も同様の意味を持ったものだと理解しています。
両軍に分かれて戦えど国を憂う志士たちの思いは違わないという考えに立ち「全戦没者」を一堂に並べ後世に伝えようとしたものだからです。
そこには敵も味方も戦死も病死も違いはないはずです。
薩軍には服役中の病没者も
現に薩軍に刻まれている戦没者の中には病死者が含まれています。それも戦争中ではなく戦後の監獄服役中の病死者も入っているのです。
杉野逸蔵という名があります。熊本出身で薩軍に参加後に途中で脱退。蟄居中に捕まり懲役3年とされて山梨監獄に服役中の明治10年11月に病死したと記録にあります。
同じく熊本出身で薩軍に参加した末松直道は戦争の途中で帰順、懲役2年判決を受け、服役中の秋田監獄で明治12年8月、病死しています。
これらは薩軍に共感した人たちによって丁寧に集められた記録です。このような形の死でも、彼らは広く記録・記憶しようとしたのです。
そしてその記録をこの慰霊碑は受け入れているのです。では官軍についてはどう考えればいいのでしょうか。
病死の扱い、熊本市「今後検討」
「官軍の戦没者は靖国神社忠魂史に依っています。またその後、把握はしていますが名簿に反映していない人が多数います。それは戦死者の定義をどこまで捉えるかによって判断が異なるためです」
熊本市文化財課の担当者はこのように回答しました。
その上で初太郎については細島官軍墓地の資料や植木町職員による資料で存在は確認しているとのことでした。しかし「病死ということと靖国神社鎮魂史に掲載されていないことから、名簿に載せるかは今後検討が必要です」と答えました。
敵味方を越えすべての死者を包摂して慰霊する慰霊碑に載せるのに「病死」や「靖国」が考慮の対象になるという考え方に、私は衝撃を受けました。
(連載「下」に続きます)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?