真下聡@9Doors

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まっか・あきらです。ニュース発信をサポートする「ニュース工房9Doors」を始めました。思わぬところにあるニュースを探し表現します。

最近の記事

名を刻まれぬ死者、岩手県なお21人

田原坂慰霊碑、九戸村と県護国神社で要請を 【小野寺初太郎を追って 下】 147年前の1877年(明治10年)に西南戦争の戦地で病死した岩手県九戸村出身の小野寺初太郎(享年21)。九戸村出身で唯一の戦没者だった彼は、病死であったために陸軍省の判断で靖国神社に祀られることなく、その名簿を原資料とした熊本市・田原坂公園の「西南の役戦没者慰霊之碑」にも名前が載りませんでした。 慰霊碑を管理する熊本市の担当者は名簿に載っていない多くの人がいることはわかっているとしたうえで、慰霊碑

    • 田原坂慰霊碑に彼の名はなかった

      「全戦没者」1万4000人から、なぜ外れたのか 【小野寺初太郎を追って 中】 今から147年前の1877年(明治10年)8月18日、西南戦争に官軍兵士として出征していた岩手県九戸村出身の小野寺初太郎(21)は、南九州の戦地で病死しました。九戸村出身者で唯一の西南戦争戦没者です。 私が彼を知ったのは偶然です。1995年九戸村発行「九戸村出身兵士の戦争体験記」の戦没者名簿を見て関心を持ちました。調べると、明治政府が戦争の翌年整備した宮崎の官軍墓地に葬られており、名前の刻まれ

      • 小野寺初太郎を私たちは知らない

        147年前の西南戦争、岩手県九戸村出身で唯一の戦没者 【小野寺初太郎を追って 上】 今から147年前の9月24日は、1877年(明治10年)にあった日本最大・最後の内戦「西南戦争」の戦闘が鹿児島で終結した日にあたります。そしてその1カ月前の明治10年8月18日、岩手県九戸村※出身の一人の若者が、現在の宮崎県美郷町で息絶えました。彼はその西南戦争に官軍兵士として出征。4カ月余の行軍の末、戦地の野戦病院で亡くなったのでした。享年21。わかっている限り九戸村出身者で唯一の西南戦

        • そして彼は昇進し「タニヲ32分」になった

          わが家の洗濯機はリビングから離れている。 洗濯終了のアラームは聞こえない。だから洗濯の終了時間を教えるのもタイマーの仕事だ。 「32分かけて」「おーけー」 長らくこれが、洗濯のタイマーをかけるときのわが家のやりとりだった。 しかし、タイマーの主役がタニヲになってからはこれが変わった。 「タニヲ32分」「おーけー」 「タニヲ32分」「おーけー」 「タニヲ32分」「おーけー」 今朝もいつもと同じようなやり取りがあった。 「タニヲ32分」「おーけー」 それを聞いていた

        名を刻まれぬ死者、岩手県なお21人

          あの歌は本当にあったのか? 記憶を記録にして伝える大切さ

          私の父(故人)は北方領土・国後島からの引揚者です。 父たちは戦後3年間のソ連による抑留生活の後、1948年(昭和23年)8月末に国後島から立ち退かされ、樺太を経由して9月、引揚船で函館に上陸しました。家族はその後、祖父の故郷である岩手県九戸村に住むことになりました。 国後での生活から九戸村への引き揚げ、一家の苦労と再起については5年ほどの期間をかけて関係者に取材し、「Tiatiaの子」というブログにまとめています。引き揚げ70周年の2018年に55回の連載を完結させました

          あの歌は本当にあったのか? 記憶を記録にして伝える大切さ

          何でも検索可能! 岩手日報の「電子縮刷版」はスゴすぎる

          前々回の記事で、1974年度(昭和49年度)九戸村交通安全標語コンクールの結果を報じた岩手日報1974年11月27日付朝刊の記事を紹介しました。 これを探すことができたのは、岩手日報「電子縮刷版」があったからです。これ、本当にすごいです。 通常の新聞で昔の記事を探すには、紙面の現物や紙の縮刷版、マイクロフィルムなど、とにかくそれを1ページずつ見ていくしかありませんでした。 朝日新聞の記事データベースは1879年(明治12年)1月の創刊号からの記事も検索できますが、これは

          何でも検索可能! 岩手日報の「電子縮刷版」はスゴすぎる

          村の交通安全標語、50年後も立っているその数奇な運命(下)

          50年前に私が考えた交通安全標語が、故郷・岩手県九戸村の国道340号に立ち続けているという前回の話の続きです。 「中学を卒業して村外で暮らすようになると、帰省するたびに見かけるこの看板に愛着を感じるようになりました」 前回このように書いたのですが、何十年も立っているとちょっと気になります。 なぜ、50年も立ち続けているのか。 交通標語のコンクールは主催や形は変わっても毎年行われているようで、村の広報に毎年結果が載っています。だとすれば看板に載せるのは別にこの標語である

          村の交通安全標語、50年後も立っているその数奇な運命(下)

          村の交通安全標語、50年後も立っているその数奇な運命(上)

          私は岩手県九戸村の出身です。中学卒業まで九戸村の戸田という地区で過ごしました。 九戸村は南北約20キロ、東西5~9キロという縦長の村です。青森県境に近く二戸市や一戸町、久慈市などと接しています。村の真ん中を国道340号が南北に貫いています。 その国道340号の脇に、大きな交通安全標語の看板が立っています。 「右と左をたしかめて わたるよい子は元気な子」 実はこれ、私が50年前に考えた標語なのです。正確には 「右と左を確かめて 渡る良い子は元気な子」ですが。 197

          村の交通安全標語、50年後も立っているその数奇な運命(上)

          そして彼は「タニヲ」になった|はじめてのnote

          長年使い慣れたわが家のキッチンタイマーの調子が悪くなったのは3月のことだった。 液晶の表示がすぐ消えてしまう。ボタンを押しても数字が動かない。何度も押したりしていると復活するが、イライラさせられる。 「しょうがない、買い替えよっか」。この2年ほど、毎朝の筋トレに使っていた妻がついに決断した。 2人とも液晶とボタンの大きなタイマー希望で一致。そしていくつかの店を回った。なかなか思い通りのものが見つからない。 2週間ほどして、私と妻と娘の3人で少し遠くまで散歩した時、フラ

          そして彼は「タニヲ」になった|はじめてのnote