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イヤホンの声

 「ねえ、お母さん。イヤホンって余ってたりする?」
 「この間、新しいやつを買ったって言ってなかった?」
 「なんか音がざらざらしてきて気持ち悪いの」

 私はイヤホンをつけるなら有線のものが好きだった。
 有線の方がなんとなく音が良い気がするし、落としてなくす可能性も少ないと思うのだ。スマートフォン会社の純製品ワイヤレスイヤホンを使っている人の気が知れない。ちょっと驚くほど高いのに、満員電車でうっかり外れでもしたら拾うなんて不可能だ。
 だから私は、イヤホンは有線だと決めている。
 とはいえ有線にも有線の弱味があり、ワイヤ部分が折れ曲がったりして傷つくと音質が悪くなっていく。私が使っていたイヤホンも、随分と質が悪くなっていた。

 「あるとしたらあそこの棚じゃない? ほら、電池とか、なんか色んな線とか入れてある」
 「ああ、あそこか」

 我が家には、とりあえず使わないコンセントやら電池やらを突っ込んでおく棚がある。
 例えば電化製品の本体は壊れたけれど、充電コードはまだ使えるからなんとなくとっておいたものだったり、何かの付属品についてきたケーブルをひとまず入れておいたりだとか、そんな雑多な置き場所だ。
 なにかコード類が欲しい時はその棚を探してみれば、見つかることも多かった。
 そして今回も、例にもれず私は、ぐちゃぐちゃになったコードの束から有線イヤホンを見つけ出した。
 ちょっと古くて、コードの色も煤けているけれど、とりあえず使えれば問題ない。私はありがたくそのイヤホンを使わせて貰うことにした。



 違和感に気が付いたのは、イヤホンを変えてからしばらく経ったあとのことだった。
 もともとイヤホンを使っていたのが通学中に地下鉄で移動している時だった。通勤ラッシュで込み合った車内、地下鉄ともなれば騒音だらけ。だから、イヤホンの音質が少しくらい悪かろうが気になることはなかったのだ。
 たまにノイズが走るとは思っていた。
 でもそれも、イヤホンからのノイズなのか、周囲の雑音のせいなのかはっきり分からなかったのだ。

 『……――れ、……』

 あれ、と思った。
 たまたま電車が時間調整でホームに止まっている時だった。
 遊んでいたリズムゲームもリザルト画面からの切り替わりで音声が途切れているタイミング。
 耳元で囁くようなその声に、私は首を傾けた。
 
 なんだろうか。それはざらついてノイズのようである癖にひどくリアルで、吐き出す息で鼓膜が震えるように感じたのだ。
 いぶかしげに眉を寄せ、イヤホンの上を手でおさえる。外の音を遮断してはっきり聞き取ろうとしたところで、ゲームの効果音が溢れ出した。
 気のせいだろうか。
 確かに今、音が途切れた瞬間に、誰かの声が聞こえたのだ。
 一番ありえるのは混線だ。電車内のように人が多くいる場所では、他の人の音声を拾ってしまうことがある。けれど、有線のイヤホンでもそんなことがあるだろうか。
 私は不思議に思いつつも、ひとまずは気にしないことにした。



 それからも時折、イヤホンから奇妙なノイズが聞こえてきた。
 けれど大抵は周囲の音ではっきり聞き取れなかったし、遊んでいるアプリの裏で別のアプリが動いてしまっているのだろうと、そんな風に思っていた。
 その日は友達の誕生日で、カラオケボックスでパーティをした帰りだった。
 通勤ラッシュはとっくに終わり、車内はガラガラではないにしろ、座れる程度には空いている。
 シートに座り、いつも通りにイヤホンをはめて、けれどその日の私は遊びすぎて疲れきっていたので、ゲームを起動するより前にうとうとと船をこいでいた。
 夢と現実の不確かなはざま。
 ガタンゴトンと鳴る電車の音を聞きながら、意識の半分は夢の中へ落ちている。
 それでももう半分はなんとか現実にしがみつき、降りるべき駅を間違えないようにアナウンスに耳を澄ませていた。

 『……――かわれッ!!!!!!』

 勢いよく私は飛び起きた。

 「え?」

 誰もいない。目の前には誰も立っていなかったし、隣の席もあいている。
 立ち上がった私を周囲の乗客はちらりと一瞥したものの、すぐに興味を失ってそれぞれスマホに視線を戻し、あるいはお喋りを再開する。
 寝ぼけたのだ。
 私は恥ずかしくなって、いそいそとシートに腰を沈めると何事もなかったかのように目を閉じる。
 だが、心臓はまだバクバクと騒いでいる。
 てっきり、おかしな乗客に絡まれたのかと思ったのだ。
 席を譲れと怒鳴ってくる老人はたまにいる。そういう輩は決まって若い女性を狙うのだ。
 最悪だ。今日は楽しく過ごしたのに、おかしな人に絡まれる夢を見るなんて、その上、寝ぼけて立ち上がってしまうなんて恥ずかしい。
 でもあの声は幻聴にしてはやけにはっきりと聞こえたのだ。
 まるで、そう、耳元で怒鳴りつけられたかのように。
 そこまで考えてふと私は、つけっぱなしだったイヤホンに気が付いた。ゲームも何も起動していないけれど、かすかなノイズが漏れている。
 いや、ノイズだけでなく、ひそひそと囁くようなそんな声も聞こえてくる。
 イヤホンの上から手で耳を覆い隠して外部の音を遮断する。そうして、音だけに集中した。

 『……れ、……かわれ、……かわれ、……かわれ』

 咄嗟にイヤホンをむしり取る。
 そこからは確かに人の声が聞こえていた。
 男か女か分からない。子供か老人かも分からない。たくさんの人間が一度に喋り出したような、まじりあった音声は、だが同じ言葉をずっと繰り返し唱えていた。

 「なにこれ、……気持ち悪い」

 混線なのか、イヤホンの故障なのかは分からない。
 分からないからこそ気持ち悪い。
 イヤホンのコードを束ねて鞄の中に押し込むと、それ以上は考えないことにした。



 「それって幽霊の声を拾ったんじゃない?」

 翌日。学校の休み時間。
 友人達に昨日の出来事を話してみれば、オカルト好きのユウコが食いついた。

 「え、まさか席かわって欲しくて化けて出たの?」
 「どんだけ座りたいんだよ!」

 げらげらと笑い声をあげても、ユウコの勢いは衰えない。

 「それってどこの駅だった?」
 「どこだっけ。確か、N駅を出た少しあとだった気がするけど」
 「N駅?」

 途端に皆が静まりかえる。

 「え? なに、怖いんだけど」
 「だってN駅って言ったら、ねぇ?」

 顔を見合わせある面々に、私は首を傾けた。

 「私たちが高校に入るより前だけど、あそこって飛び込み事故があったんだよ」
 「事故の瞬間を撮影した人がいたりしてけっこう話題になったりしてさ」
 「その後もN駅で終電待ってたら後ろから押されたとか、そういう話たまに聞くし」
 「私も、あの駅のホームで電話してたらおかしな声が聞こえたって話聞いたよ」

 口々に並べられていく怪談は、どれも使い古されたようなネタだった。だが、通学路が心霊スポットだったなんてゾッとしない。

 「ねぇ、試してみようよ。どっか出そうな場所に行ってイヤホンつけたらどうなるかって気にならない?」

 ユウコの提案に途端に皆が黙り込んだ。
 好奇心は十分にある。けれど、自らオカルトに足を突っ込みたいとは思わない。
 そういった現象は一歩離れて、あんなものは眉唾だと笑って眺める距離が丁度いい。
 だが、今この場でユウコの提案を断れば、今さっき笑い飛ばした現象を恐れているのだと公言してしまうことになる。

 「分かった。いいよ。やってみよう」
 「でも、幽霊の出そうな場所ってどこのこと?」
 「決まってるじゃん」ユウコは得意げに笑ってみせて「幽霊坂。あそこしかないでしょ!」



 幽霊坂は学校の比較的近くにある坂だ。
 なんでも、幽霊坂と呼ばれる坂は日本中に何か所もあるらしい。
 学校のそばにある幽霊坂は、なるほど、そう言われるのがよく分かるような場所だった。坂の片側は墓地になっており、高い壁からは卒塔婆がちらちらと見えている。
 反対側は桜の木が一定間隔で植えられており、花の咲く春だけはぱっと明るくなるのだが、それ以外の季節ともなれば葉が鬱蒼と生い茂り、ただでさえ薄暗い道により深い影を落としている。
 街灯が少なく夕方になればかなり暗く、坂はカーブを描いているため見通しが悪い。
 遅い時間には通りたくないような場所だった。

 「ここって確か、何年か前に女の人が刺されたんでしょ?」

 坂を前に立ち止まると、私はふと思い出したことを問いかけた。

 「うん、ストーカーにめった刺しにされたんだよね。よほど恨みがあったらしくて、顔を狙ってずたずたにされたんだって。それに、その女の人、赤ちゃんがいたらしくて、お腹も執拗に刺されたって。だからこの坂を通ると血塗れの女の人が出るんだけど、たまに赤ちゃんの声もするらしいよ」

 生まれていない赤ん坊でも恨みを抱いたりするのだろうか。ぼんやりと浮かんだ疑問符を、言葉にしないまま飲み下す。
 こういう話は尾ひれ背びれがつくものだ。ストーカーに殺されたという話自体もどこまでも本当かなんて分からない。
 学校が終わった後に来たために、幽霊坂に着くころには夕方の四時くらいになっていた。
 季節は五月だ。
 冬に比べて日が伸びて、ここまでの道は明るかった。だが、幽霊坂は墓地側が小高い丘になっているために、少しでも日が傾くと途端に薄暗くなってしまう。
 結局、幽霊坂までやって来たのは、私とユウコだけだった。
 他の友人達はバイトだの、塾だのと言いながらさっさと帰ってしまったのだ。
 薄情者。
 恨みたい気持ちでいっぱいだったが、私が彼女らの立場だったら、似たような理由をつけてさっさと逃げ出したに違いない。そう、つまり、怪談は誰かの口から聞くに限るのだ。

 「イヤホン、かたっぽだけ貸して?」

 ユウコの言葉に、私はしぶしぶイヤホンの片方を差し出した。
 本当はユウコだけに試して貰いたかったが、私自身も真偽を確かめたい思いはあった。
 イヤホンのジャックをスマートフォンに差し込んで、アプリはすべて落としておく。スピーカーを一つずつ耳にいれ、どちらともなしに掌を重ねて握り合った。

 「何かあっても、離さないでね?」

 ぎゅっと握った手を確かめながら、ユウコが不安そうに声を出す。ここまで来ようとせがんだ癖にいざとなると怯えているようだ。

 「分かってる。ほら、さっさと終わらせよう」

 そうして私たちは歩き出した。
 青々と生い茂った桜は、ほんの一か月前の花の盛りが嘘のように陰鬱な影になっている。
 薄暗い、ゆるく曲がった上り坂。
 一歩一歩進んでいくと、重ねあった掌がじわじわと汗ばんでいく。

 「ねぇ、なんか変な音しない?」

 坂を登り始めたところで、電子音に似た耳障りなノイズが聞こえてきた。

 「変な音?」
 「ジーーーー、って。電球でも壊れてるみたいな音」
 「ああ、これは虫の声だよ。たしか、クビキリギスとかいう虫。普通は夜に鳴くはずなんだけど、ここではもう鳴いてるね」
 「……暗いからかな」

 一歩先に進むたび、周囲が暗くなっていく。
 まるで夜に向かって歩いていくように、前に進めば進むほど、目に見えて闇が増している。

 「この時間って、こんなに暗かったっけ」
 「でもたまに、やけに暗くなるのが早い日ってあるし」

 多分、お互いでもう怖くて、逃げ出したくなっていたに違いない。
 それでも互いの手が枷になって、進む足を止められない。はやく登り切ってしまえばいい。そうして何もなかったと、明日の朝に笑って話せばいい。
 怖くて逃げ帰っただなんて言えっこない。
 だから、ぎゅっと握る手に力を籠め合って、また一歩先へ進んでいく。

 やがて、ジーっというノイズに混じって、ざわざわとした音がさざ波のように溢れ出す。
 ざらつくノイズ、断絶、そしてまた砂嵐。
 ざらざらと耳障りな囁きが、少しずつ大きくなっていく。

 「……誰かいる」
 「え?」

 ユウコが消え入りそうな声で囁いた。

 「うしろ。誰かついて来てる」

 本当だった。
 ノイズに混じって背後から足音が聞こえてくる。
 
 『…………れ、……か、われ、……かわれ、かわれ』

 不確かなノイズは少しずつ形を成していき、そうしてまたあの声が聞こえてきた。
 低く深く地を這うように。女でもなく男でもなく、一人でもなく大勢の。
 その声は次第に近づいて、どんどんと大きくなっていく。
 気が付けば周囲はすっかり暗くなっていた。闇があたりを支配して、街灯の光すら覆い隠してしまっている。
 暗い暗い坂道は、まるでどこまでも続くようで、うつむいてひたすらに登り続けても、なぜだか坂は終わらない。

 「……ごめんなさい、……」

 ユウコが唇を噛みしめて、震えながら微かな声を絞り出す。

 「ごめんなさい、ごめん、ごめん、ごめんなさい、かわる、……かわります、かわる、かわる、から」
 「駄目、ユウコッ」

 鋭く声を投げても、ユウコは俯いたまま、ごめんなさい、かわります、と繰り返す。
 私は気付いた。気付いてしまった。
 握り合った互いの手の間から、ぽたぽたと垂れているのは血液だ。
 そしてユウコの体も、いつの間にか血にまみれて赤く染まってしまっている。
 切りそろえた前髪の間から覗く顔は、ずたずたに引き裂かれた酷い有様になっていた。

 駄目だ。

 私はユウコの手を強く、強く握りしめる。
 本当は逃げ出したくて仕方ない。でももし、今、この手を振りほどいて逃げたなら、取り返しのつかないことになる。

 『かわれ、かわれ、かわれ、かわれッ…!』

 イヤホンの声は、もはや大合唱になっていた。
 暗闇の中で死者たちがたたずみ、私たちをじっと見詰めている。
 苦しみをかわれ。
 痛みをかわれ。
 光輝く生という場所を明け渡せと、耳元でがなりたてて来る。

 「かわらないッ!!!!!」

 私は叫んだ。そうしてユウコの手を握り、一歩一歩を踏みしめて、暗い坂道を登っていく。
 かわらない。
 ここは私たちの居場所だから。
 かわらない。
 だって結局、私はあなた達を救えない。

 「ユウコ、しっかりして!! ちゃんと歩いてッ!!!!」

 ずるずると足を引きずるように歩くユウコを叱咤する。
 代わらない。
 絶対に譲らない。
 歯を食いしばって、疲労する足に鞭打って、そうして私はなんとか坂を登り切った。



 ――……そこは、いつも通りの夕焼けだった。



 坂の上から見下ろす街は、オレンジの光に照らされて、微睡むようにそこにある。
 途端に様々な音が聞こえてくる。
 カラスの鳴く声、五時を知らせるチャイムに、どこかで自転車のベルを鳴らす音。
 すぐ隣でユウコがしゃがみこみ、そして声をあげて泣き出した。
 私もすっかり気がぬけて、ユウコの隣にへたりこむ。
 2人を繋ぐイヤホンは、今はなんのノイズもしなかった。



 あの後、私たちは、いつも通りの日常に戻っていった。
 ユウコはしばらく熱を出して寝込んだが、その後は何もなかったそうだ。
 唯一にして最大の謎は、あのイヤホンがどこから来たのかということだった。
 家に戻って聞いてみても、家族の誰も、イヤホンに見覚えがなかったし、しまった記憶もなかったのだ。
 それだけには留まらず、イヤホンにかかれた消えかけのメーカー名を検索しても、どこにもヒットしなかった。だから、あのイヤホンがどこで作られ、どんな経緯で私の家の棚に紛れ込んだのか分からない。
 不気味なそれは、ゴミの日に出して今は手元にないけれども、いつかどこかでふと戻ってくるのではなかろうか。そんな不安が付き纏う。
 だがあるいは、本当は。
 イヤホンなんてなくたって、彼らの声が耳に届くこともあるだろう。

 かわれ、かわれ、その場所を代われ、と。
 彼らは今も、叫び続けているのだから。

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