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N市某マンション

 これはつい先日、理学療法士のYさんから聞いた話です。
 YさんはかつてN市に住んでいました。N市は高いビルが少なく、とくにYさんが暮らしていた20年ほど前では、5階建てのマンションすら珍しかったそうです。

 「他に高いビルがないからなのか、飛び降り自殺の名所みたいになっちゃってたんですよ。そのお陰で家賃は安かったんですけどね。引っ越したその日から、ちょっとした騒動というか、あまり見ない光景を見たんです」

 引っ越し当日、Yさんが見たのは4階の部屋のベランダからどんどん投げ落とされる荷物だった。
 落とされる先にはトラックが止めてあり、ちょうど荷台に落ちるようになっている。
 引っ越しにしては乱暴すぎるし、大掃除にしてもダイナミックすぎる。あれは何だと首を傾げていれば、なんと4階の部屋で住民が亡くなり、その荷物を処分しているとのことだった。
 事故物件であることは知っていた。
 だが、まさか越してきた初日に住民の死にかかわる光景を見ることになるとは思わなかった。

 「まぁ自殺とかではなかったらしいんですよ。病死だって聞きました。ただちょっと発見が遅れてしまったそうで、それで家財を全て処分するしかなかったそうです」
 
 あまり良い気分でなかったのは確かだが、医療従事者を目指していたYさんは死に対して、特別に恐れてはいなかった。
 まぁそんなこともある。
 その程度で気分を切り替え、新生活をスタートさせたという。



 再び事件が起こったのは、引っ越してから数か月後のことだった。
 そろそろ梅雨明けという頃合いで、夜になっても蒸し暑い。だが窓を大きく開け、扇風機を回していれば何とか眠れるくらいの気温だった。
 だが、その夜はやたらと野良猫が騒がしかったそうだ。

 「夜中の2時頃だったかな。発情期みたいな声で鳴きだして、まぁたまにあることなんで気にしないで寝ていたんですけど、その夜はやけにしつこく鳴いていたんですよ。一晩中ずっと騒がしくて。朝起きても鳴き声が耳に染み付いてる。まだすぐそばで鳴いている幻聴が聞こえてきそうなほどでした」

 なんだか寝たりない。体がだるい。
 そう思いながらも洗濯をほすためにベランダに出た。
 そしてふと思って階下を覗いたYさんは、それを発見したのだった。

 「さすがにびっくりしました。飛び降り自殺した人がいたんです。植え込みの内側だったから、歩道側からは見えにくかったのかな。僕が見つけるまで誰も気付かなかったみたいで」

 飛び降り自殺をした人物は、どうも即死ではなかったらしい。
 芝生には必死に這っていった跡が残っており、後から聞いた話では深夜に飛び降り、明け方近くまで生きていたそうだ。

 「ああ、だから一晩中猫が騒がしかったんだって納得したんです。自殺者に驚いたのか、あるいは助けを呼ぼうとしてくれてたのか。
 でも、あれだけ猫が騒いでいたのに、マンションの誰一人として窓の外を見ようとしなかったんですよね。他の住人に聞いたら、僕と同じくやけに寝苦しくて、夜中に何度か目を覚ました時にも起き上がるのも辛かったって。翌朝もだるくてなかなかベッドから出られなかったって口を揃えて話していて。
 でも一人だけ、違うことを言っていた人もいました。
 その人は、あれは猫の声じゃなかったって言っていたんです。夜の間中ずっと、苦しみ藻掻く声が聞こえてきて、怖くて仕方なかったって」

 それでもやはり、誰も外を確認しようとは思わなかった。
 誰か1人でも確認していれば、その人は助かったのかもしれない。そう思いはしたものの、元々、死にに来たのだからと、深くは考えないようにしたそうだ。

 「それから数か月して、また飛び降りがあったんです。その日は、友達がたまたま部屋に遊びに来ていて。いわゆる部屋飲みをしていたんですけどね。僕は窓に背を向けて座っていて、友人は机を挟んで向かい側に座っていた。つまり、友人からは窓の外が見えていたんです。
 その友人がふいに『あッ』って大きな声をあげて。
 それからしばらく放心したように黙り込んでしまったんです。どうしたんだ、大丈夫か、って肩をゆすって話し掛けて。しばらくしてようやく顔をあげると『今、誰かが飛び降りた』って言うんです。
 慌ててベランダに出て確認してみたら、確かに人が倒れていて。……すぐに通報しました」

 その後、Yさんが階下に向かうと、飛び降り自殺をした人物はまだかろうじて生きていた。喉に血が絡んだ、ひしゃげた音を漏らしながらじりじりと地面を這っていた。
 その姿は、助かりたいというよりも、まるで何かから必死に逃げようとしているかのように見えたそうだ。

 「5階というのは、自殺するには微妙な高さなんですよ。だいたい1階分の高さが3メートルくらいで、5階だと15メートル。一説によれば、このくらいの高さで飛び降りた場合の生存率は50%ほどなんです。まぁ、頭から飛び降りれば別でしょうけれども、真っ逆さまに落ちるっていうのは死のうと思っている人間でもかなり勇気がいると思いますからね。
 それに僕の住んでいたマンションは周囲が植え込みで、地面もアスファルトじゃなく柔らかかった。
 自殺に向き不向きなんていうのは、医療従事者としてまずいかもしれませんが、あそこは不向きな場所だったと思います」
 「そんなマンションに住んでいて、他に心霊現象みたいなものはなかったんですか? 例えば、夜中に足音がするとか、人がいない筈の窓の外に誰か立ってたとか」

 私が尋ねると、Yさんは肩をすくめてみせた。

 「そういうのはなかったですね。でも、階段ですれ違った筈の人がいなかった、ってことはたびたびありました。
 僕は、運動をかねて部屋に戻る時はいつも階段を使っていたんです。そう広くない階段なんで、すれ違う時はちょっとこう、お互いで体を寄せて譲り合うようにする。それだけ距離が近いから会釈なんかもします。
 その時にも、「あれ?」って思うんですよ。見ない顔だな。新しく越してきた人かなって。
 やけに俯いていて、元気がなさそうだったなとか、ちょっと心配になって振り返ると消えてるんです。
 勢いよく駆け降りてでもいない限り、消えるようなタイミングじゃないんですよ。直前までは、げっそりとした顔で、足取りも重そうに降りてきていたのに、突然走り出すなんて考えにくい。
 そういう事は、たまにありましたね」

 そこまで聞いて、私は首を傾げた。
 なにかが腑に落ちない。どうしても引っ掛かりを覚えるのだ。

 「あの、……つまりそれって、幽霊が上の階から降りてきたってことですよね」
 「あれが幽霊だとしたら、まぁそういう事じゃないでしょうか」
 「なんで、降りて来るんでしょうか」

 そうだ。それが不思議に思ったのだ。
 実を言えば、怪談を好んで書いている癖に、私自身が怪奇現象にはとんと無縁に暮らしていたし、はっきり言えば幽霊などまったく信じていなかった。見たことがないのだから仕方ないし、あの世の存在も信じていない。どちらかと言えば、あの世などあっては困ると思っている。現世だけで十分に大変なのだから、その先がどんな幸せであろうとも、もうこれ以上のしがらみは全て遠慮しておきたい。
 さておき、怪談というものに長く触れていれば、幽霊の行動パターンのようなものも見えてくる。
 この場合では、私の考える幽霊の行動パターンとはいささか外れているように思えるのだ。

 「ええと、幽霊の目撃例って、その人が最後に強く願ったことや、脳裏に焼き付いた事が再現される形で現れるものが多いんですよ。だから、Yさんが見たものが幽霊だとしたら、その幽霊が一番願っていた、あるいは強烈に焼き付いたことが『階段を降りていく』って事になります。
 でもそれって不自然じゃないですか?
 だってほら、死にたかったわけじゃないですか。死にたくてマンションに訪れた人が『階段を下る』ことを強く投影するって、どうもおかしい気がして」

 私の言葉にYさんはしばらく黙り込んだ。
 それから、「ああ、そうか。あれはそういう事だったのか」と話し始めた。

 「もしかして本当に、階段を降りたかったのかもしれません」
 「え? どういうことですか?」
 「つまり、あそこから飛び降りた人の何割かは、そんなことを望んでいなかった。望んでいないのに飛び降りるしかなかった。
 あのマンションから飛び降りた人は、遺書を書いていなかった人が多かったそうなんです。靴を脱いだ人もほとんどいなかった。病院に運ばれて助かった人は『なんで死のうと思ったか分からない』と話していたそうです。
 それと、あのマンションの近辺って、口裂け女の目撃情報があったんですよ」
 「え? 口裂け女ですか?」

 突然、話が飛んだので私が戸惑っていると、Yさんは考えを纏めるようにゆっくり続きを語りだした。

 「正確には、『不審な女性』の目撃例だったと思います。怪しげな女からの連想で口裂け女だなんて言い出した奴がいるんじゃないかな。
 それを聞いた時に『妙な話だな』って思ったんです。不審者といえばだいたいが男性じゃないですか。女性の不審者が出たって、そう怖くない。むしろ、女性の方が危ないくらいです。
 僕の友人の中にも『美人だったら不審者でも声かけて欲しい』だなんて言ってる奴がいました」

 確かに女性の不審者というのはあまり聞かない。
 Yさんの言う通り、深夜に徘徊したり、声をかけて回ったりすれば、むしろ危険なのはその女性側だろう。

 「その時は、特に何とも思わなかったんですよ。でも、さっき話した、飛び降り自殺を目撃してしまった友人がいるじゃないですか。彼が、『マンションの入口におかしな女がいた』って話をしていたんです。その女性は『一緒に屋上に行きませんか?』って声をかけてきたそうで。
 普通、知らない女性に『屋上に行きませんか』なんて言われて着いて行ったりしないですけど、何故だかその時は『ちょっとくらいなら付き合ってやろうかな』って思ったそうなんです。それで、一緒に階段を登り始めたところで嫌な予感に襲われた。
 彼はいわゆる霊感があるタイプで、今までも嫌な予感がして途中下車したバスが事故にあったりとか、出かける予定だったけれど頭痛が酷くて諦めたら、行くはずだった場所で刃物を持った男が暴れただとか、そういう事があったらしいんですよ。
 だから、その時の彼も自分の予感を信じて慌てて逃げ出して僕の部屋に来たんです。もっとも彼も自分自身の霊感に関して半信半疑だったから、『突然逃げ出して悪かったな』とも思ってたらしいんですけどね。もしかして、マンションで飛び降り自殺した人の遺族で、一人で現場を見に行くのが寂しかったんじゃないか、とかね。
 その後も何度か同じ女性に声をかけられたらしいんです。
 僕は一度もそんな女性、見たことないんですよ。少なくともあのマンションに1年以上住んでいたのに、まったく知らないんです。
 でも、彼は何度も見たって話していて、そのうち『あのおかしな女が怖いから、お前のマンションには行きたくない』って言い出したんです。
 飛び降り自殺を目撃した後には、そんな事言わなかったのに、あいつにとっては飛び降り自殺よりもその女性の方が怖かったらしいんですよね。
 今、考えてみると、あの女性は一部の人にしか見えない特殊な存在で、そして屋上に連れて行こうとしてたんじゃないかって。もしかして僕の友人も、あの女性の言葉に頷いていたら連れて行かれてしまったんじゃないか、……そんな風に思えたんです」

 なるほど、と私は頷いた。
 今となっては、女性の正体は分からない。
 自殺した人の遺族だったのかも知れないし、あるいはそこで自殺をした女性の怨念が寂しさのあまり誰かを引きずりこもうとしていたのかもしれない。

 「それにしても、1年間で2度も飛び降り自殺を目撃したのに、よく住み続けてましたね」
 「目撃していないものを含めると、実際には5回あったんですよ。あのマンションの住人は、できるだけ窓の外を見ないようにしてましたからね。未だにその癖が抜けなくて、都会に引っ越してきたあとも、窓には背を向けて座るようにしてるんです。
 まぁそれで一度、『お前の後ろ、窓の外におかしな女が誰か立ってるぞ』って言われたこともありますけど。でもまぁ、今のところ見なければ大丈夫なんで、気にしないようにしています」

 そうですか、と私は静かに頷いた。
 私には霊感がないし、怪奇現象に遭遇したことは一度もない。
 でも彼が窓を背にしている時には、窓の外はできるだけ見ないようにしておいた方が良さそうだ。

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