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家鳴り

 念願のマイホームって、こんなのただの中古品じゃん。

 玄関のドアを潜りながら、ナツミはため息を吐き出した。
 都心で庭つきの一軒家を持つのがどんなに大変なことであるか。まだ高校生のナツミでも、それくらいは知っている。だとしても、この家は築30年はゆうに経っているだろう。
 誰かがかつて住んでいた家。
 そう考えると、なんだか気持ちが悪かった。
 両親は2人とも、子供の頃からアパート暮らしであったそうだ。結婚後はマンションに移り住んだが、『家』という存在に強い憧れを抱いていた。
 だから、ローンを組んで一軒家を手に入れた時にはそれはそれは浮かれていた。
 ナツミ自身も、昨日の晩は興奮で寝付けないほどだった。
 だがいざ訪れてみた家は、なんとも冴えない、住宅街の背景として埋もれてしまいそうな家だった。
 白であった筈の外壁は煤けた色になっていたし、青い屋根瓦も古臭い。庭は雑草が生い茂り、かつての住人が置いていったであろう物干し竿が錆びてぼろぼろになっていた。
 屋内はいくらかリノベーションが施されているようだった。
 キッチンや風呂場、トイレなどは最新式のものになっている。
 それでも、間取の古さは建築に関してド素人のナツミであっても分かってしまう。
 ため息ばかりのナツミだったが、2階の自室を開けてみれば、すぐさま気分が浮上した。

 「広いじゃん!」

 マンションの自室は4畳半で、ベッドと机でほとんど埋まってしまっていた。
 だが、新しい自室はおおよそ6畳はありそうだし、クローゼットもついている。それに、2面が窓になっているお陰で開放感に満ちていた。

 まぁ、これならいいかな。

 悪いところ探しをしたって仕方ない。
 これくらい部屋が広ければ出来ることも増えるだろうし、壁に画鋲を刺しちゃ駄目だとか、そんな心配もなくなるのだ。
 住めば都だなんて言葉もある。中古品の一軒家だって、住めば愛着も沸くだろう。

 「あ、お母さん。私の荷物って、……」

 部屋の外でギシっとかすかな音がした。てっきり母が来たのかと思ってふり返る。
 けれど、そこには誰もいなかった。
 なんだろう。今、確かに音が聞こえたのに。
 誰もいない廊下を見詰めて、ナツミは首を傾けた。




 「ああ、そりゃ家鳴りだよ」

 引っ越し1日目の夜は、段ボールだらけのダイニングでコンビニ弁当を食べていた。
 最低限、ベッドで眠ることは出来るように慌てて荷物は開けたものの、キッチンで料理を作るにはもう少し時間がかかりそうだ。

 「家鳴り?」

 ナツミが問い返すと、父はビールを飲みながら頷いた。

 「前のマンションは鉄筋だったし、比較的新しかったからあまり聞こえなかったけどな。この家は木造の部分も多いし、それに古いから聞こえるんだよ。ほら、木材って湿度によって膨らんだり縮んだりするだろう? その時にギシギシいったり、パキって微かに爆ぜるような音が聞こえることもある」
 「それって大丈夫なの?」
 「これくらいの一軒家じゃよくあることだよ。大丈夫。買う前に白アリとかがいないかちゃんと調べて貰ってるから心配ない」

 その時、タイミングを見計らったように二階でギシ、ギシっと音がした。

 「ほら、今も聞こえただろ? 木が軋んでるんだ」
 「誰かが歩いてるみたいな音だった」

 ナツミが口をへの字に曲げると、父は声をあげて笑ってみせる。

 「ナツミは怖がりだからな。もしかして本当に誰かが住んでるのかもしれないぞ?」
 「ちょっとやめてよ。もう子供じゃないんだから怖くないって」
 「でも」と、それまで黙っていた母が口を開いた。「確かに、誰かが歩いているような音に聞こえたわね」
 「なんだ、母さんまでそんなこと言って」
 「ほら、家鳴りってもっと、家のどこかで鳴っているような、もうちょっと曖昧な感じじゃない? でも今の音は、二階の廊下から聞こえたような気がしたから」

 ギシ、ギシっとまた音がして、3人はしばし押し黙る。

 「ねぇ、お父さん、この家ってまさか事故物件だったり、……」
 「そんな事は絶対にない。ここを紹介してくれたのは父さんの同級生なんだ。前から掘り出しものがあったら教えてくれって頼んでおいたんだよ。そいつが事故物件なんかじゃないって言ってたから間違いない」
 「ならいいけど」
 「ほら、あまり神経質になるのは良くないぞ。どうせすぐ慣れるさ。前の時は2つ隣の赤ん坊が一晩中泣いてたけど、しばらくしたら慣れただろう?」
 「慣れたっていえば慣れたけど、やっぱずっとうるさかったけどね」
 「赤ん坊に比べれば家鳴りなんて可愛いもんだ。家がちょっとグズってるって思えばいいんだよ」

 そんなものだろうか。
 ナツミは天井を見上げながら考える。でも恐らく、一週間も経たないうちに気にならなくなってしまうだろう。
 だからきっと大丈夫。
 ひとまず今は、そう思い込むことにした。




 「またお客さんが来てる」

 引っ越してきてから、おおよそ一ヶ月が経っていた。
 家鳴りは相変わらず続いており、いまだに馴染めないでいる。父は木材が軋む音だと言うけれど、どうしてもそうは思えなかった。ギシ、ギシっと時折響くその音は、もっとはっきりと意思を持った人の足音によく似ている。
 だからナツミと母が家鳴りの話しをする時は「お客さんが来た」と言っている。

 「昨日は夜中もけっこう歩いてたよね」
 「そうね」

 母は庭に面した和室で洗濯物をたたみながら、いささか上の空で頷いた。

 「母さん、どうかした?」

 気になって問いかけると、母は困った顔をする。

 「ねぇ、匂わない?」
 「匂う、って?」

 くんくんと嗅いでみても、気になる匂いはしなかった。
 母はどこか不安そうにぐるりと部屋を見回すと、ますます困り顔になる。

 「とくに感じないけど。何の匂いがするの?」
 「……お線香の匂い」

 その時、ふいに、白檀の香りがふわりと鼻孔を擽った。
 驚いて目を見開き、もう一度匂いを嗅いでみる。

 「本当だ。お線香の匂いがする」
 「良かった。あなたにも分かるのね。……なんだかね、この部屋のそばにいるとお線香の匂いがすることがあるのよ」
 「お隣さんがお線香をあげてて、その匂いが流れてきてるとか?」
 「だったらいいんだけどね」と、母はどこか歯切れが悪い。「でもね、窓を開けてない時も匂うことがあるのよ。そのせいか、一日中ずっとお線香の匂いが漂ってるような気がして。それでね、気が付いたんだけど、ここって多分、仏間じゃないかしらって」

 仏間。それは私にはまるで馴染みのないものだったが、どんな部屋であるかは知っている。
 仏壇を置いておく部屋だ。
 リビングと隣接した四畳半の和室は、仏間と言われれば納得できる。

 「父さんには話した?」
 「話してないわ。この家のことであまり不満を言いたくないのよ。あの人がどんなに頑張っているか分かるでしょ?」
 「うん」

 父はこのところ残業続きだ。ローンを返すために一生懸命に仕事をしているのだろう。
 だが、そのために帰宅が遅いことこそが、不安の一因にもなっている。

 「大丈夫よ。事故物件じゃないって言っていたし。住んでいればだんだんと私たちの家になっていく筈よ」
 「そうだね」

 ナツミは肩をすくめながら同意した。それ以外に選べる答えなどなかったのだ。
 線香の匂いは、ずっと鼻孔に染み付いて残っていた。




 真夜中に目を覚ましたナツミはうんざりとため息を吐き出した。
 スマホを開けば、まだ真夜中の3時だった。こんな時間に目が覚めるのは、御手洗に行きたくなったからだ。
 面倒臭い。
 ベッドから出たくない。
 真冬ほどは寒くはないが、それでも暖かな布団から外に出るのは億劫だ。
 だが、悩んでいても仕方ない。
 起き上がってスリッパを履くと、眠い目をこすりながら歩き出す。
 御手洗は廊下に出て、階段のすぐ横にある。この時間は階下は完全な暗闇だ。ぽっかりと穴が開いているようでゾッとしない。
 早くすませてベッドに戻ろう。
 手短に御手洗を済ませると、再び廊下を歩き出す。
 その時、ギシリっと大きな音がして、ナツミは肩をはねさせた。

 軋む音は、はっきりと階下から聞こえてきた。

 今までの家鳴りは人が歩いていると感じることはあったものの、もう少し距離が遠かった。例えばそれは、一階にいる時に二階から聞こえる物音や、部屋にいる時に廊下から聞こえるものだった。
 だが今は。
 すぐ目の前の闇の中、階段の下から聞こえたのだ。
 まるで階段を誰かが登ろうとしているような。ちょうどそんな音だった。 
 ギシっと、もう一度音が響いて、ナツミの心音が跳ね上がる。

 登ってきた。

 今の音は先ほどより少し近づいた。
 まさかそんな筈はない。両親も今の時間は2階の寝室で眠っている。もし用事があって1階に降りる事があったなら、必ず電気をつけるだろう。だが階段は、あまりにも闇が深いのだ。

 ギシィっとさらに音が鳴る。

 電気をつけて確認する? それとも部屋に逃げ帰る?
 ナツミはどちらも選べずに、闇を見詰めたまま凍り付く。

 ギシ、ギシ、ギシっと、響く音が心臓に突き刺さりそうだった。
 今にも闇の中からぬらりっと見知らぬ誰かが現れる。そんな幻想がはなれない。
 駄目、駄目、はやく部屋に戻らなきゃ。何もない。何も怖いことは起こらない。だから見ては駄目なのだ。音が聞こえただけならば、すべて気のせいにしておける。

 「ナツミ?」

 背後から聞こえたその声に、ナツミは今度こそ飛び上がる。
 ふり返れば、そこには部屋のドアから顔を出している母がいた。

 「お、かあ、さん……」

 びっくりした、と言いかけた所で、母が大きく目を見開く。

 「……だれ?」

 母の目は、はっきりとナツミの背後を見つめていた。




 「お母さんはね、昔っから霊感みたいなものがあったの」

 翌朝、父が会社に出掛けたあとに、母はぽつりぽつりと話し出した。
 あの後、ナツミも階段をふり返ったがそこには誰もいなかった。だがそれ以上に、恐怖に怯えた母の顔が怖かった。
 明日必ず話すから。
 母は絞りだすようにそう言うと、お互い部屋に戻って眠れない夜を過ごしていた。
 幸か不幸か、今は春休み中だった。夜にしっかり眠れなくても問題ないし、昼間はたっぷり時間がある。
 とはいえ、こんなにも心が弾まない休日は、今までで初めてだったけれど。

 「そんなに大したものじゃなかったのよ。少しだけ勘が鋭いとか、それくらい。そうね、例えば、誰かが帰って来る前に気配に気付いて玄関に迎えに行ったり、それくらいのものだった」

 そういえば、家に帰って来た時に、母が玄関で待っていることはよくあった。
 あまりにもよくある事だから、当たり前になっていたが、確かに不思議なことだった。

 「それで、この家に来てからはどうなの?」
 「そうね。……最初に来た時には、……誰かの家にお邪魔している気がしたわ。でもあまり気にしなかった。慣れない家だからそう感じると思ったの。
 でも、しばらく経っても、その感覚は消えなかった。自分の家じゃない。他人の家に入っていく感覚。うっかり間違えて隣の家の玄関を開けちゃったんじゃないかって、そんな風に感じるの」

 それはナツミにも覚えがあった。
 学校から帰ってきてドアを開けると、思わずギョッとしてしまうのだ。
 しまった。家を間違えた。
 そんな風に思えて取り乱す。けれど落ち着いてよく見てみれば、玄関のカーペットも並んでいる靴も、すべて見慣れたものだった。
 そんなことが、引っ越してから一ヶ月ほどの間に数度あった事を思い出す。

 「他にもね、さっき言った通り、私は誰かが家に帰ってくると少し前に分かることがあるんだけれど、最近はそれが外れることが多いのよ。玄関に行っても誰もいない。でも、それはただ、勘が鈍ったんだと思っていた」
 「そうじゃないって思うような、何かがあったんだよね?」

 ナツミが身を乗り出して尋ねると、母は暗い顔で頷いた。

 「お線香の匂いがするって話したでしょ? あの後もね、時々匂いが気になることがあったの。それである日、台所で洗い物をしている時だったわ。そうするとちょうど和室を背にすることになるでしょう? その時もふわっとお線香の匂いがしてきて。なんとなく肩越しにふり返ってみたの。そうしたら、和室にお婆さんが座ってたの」
 「お婆さんが?」
 「ええ。小さくて痩せた背中だった。髪は真っ白で。私には背を向けて、多分、手をあわせていたんじゃないかと思う。びっくりしたけど、近所のご老人がうっかり入りこんだんじゃないかって思ったの。それで、湯沸し器をとめて手をふいてふり返ったら、もう誰もいなかったのよ」

 私は思わず和室を見た。
 今、その部屋はぴたりと襖が閉じられている。
 ここに越してきた最初のころは、よく開いたままになっていたが、最近は閉められていることが多かった。それは、その老婆が原因だろうか。

 「それで、昨日の夜はなにが見えたの?」
 「分からないわ。多分、男の人だったと思う。あなたの後ろからふいに現れて。でも、現れたと同時に消えてしまった」

 私はしばらく黙り込んだ。
 お化けなんて信じていない。ホラー映画は怖いけれど、心霊スポットにいくドキュメンタリーなどは全部がやらせだと思っていた。
 だけれども、今、この家で起こっていることはおかしいのだ。
 気のせいだと思いこむのもそろそろ限界になっている。

 「ねぇ、お母さん。やっぱりこの家、おかしいよ。何もなかったなんて信じられない」
 「分かってるわ。でも、どうしようもないのよ。もう他に家を買う余裕なんて全然ないし、引っ越すのだって大変なの」
 「でも、何かあってからじゃ遅いでしょ? 本当になにか起こったら、お金がどうとか、そういうレベルの話じゃないじゃん」
 「簡単に言わないで。悲しいけど、お金がすべてだってこともあるのよ? お母さんも働ければいいけど、それが難しいのは分かってるでしょ? お父さんの仕事だけで家が買えたのは奇跡なのよ?」
 「それは、分かってるけど」

 母は、ナツミを出産してから大きく体調を崩したのだ。もともと身体があまり強くなかったのだと聞いている。
 今の母にフルタイムでの仕事は無理だろう。
 確かに母がいう通り、父の給料分だけでこんな暮らしが出来るのは、今の時代では奇跡なのかもしれなかった。

 「こんなこと、言いたい訳じゃないの。でも本当にどうしようもないのよ」

 本当にその通りなのだろう。私がため息をついて俯くと、母も重く息を吐く。

 「そうね。でも、本当に何もなかったのか、もう一度聞いて貰いましょうか。もし、何か隠していたのなら、それを理由に契約を破棄できるかもしれないし」
 「お父さん、嫌がりそうだね」
 「そうね。もしそうだったら、友達に嘘をつかれたことになるし、疑ってかかるのも嫌だろうし。でも、ナツミも知りたいでしょう?」
 「うん」

 ナツミが大きく頷くと、母もゆっくりと頷いた。




 「やはり、事故物件ではないそうだ」

 数日後。母とナツミの要望をうけて、父はあらためて不動産屋に確認をとってくれたらしい。
 予想よりもすんなりと話を聞いてくれたのは、父自身もこの家に関しておかしいと感じているからだろうか。

 「事故物件ではない。ただ、……」と父は言葉を続けた。「前の住人は交通事故で一家全員が死亡したらしい」

 ナツミも母も思わず息を飲みこんだ。
 ある日突然、一家が交通事故で死亡する。
 つまりこの家は、なにげない日常から一変して、ふいに人が消えたのだ。

 「でもそれじゃあ、事故物件にはならないわね」

 母の言葉に父は呻くように息をはく。

 「ああ、その通りだ。確かに事故物件じゃない。けど、訳アリなのは間違いないんだ。なのにアイツ、それを黙っているなんて」
 「悪気はないのかも知れないわよ?」
 「そう思いたいよ」

 父が頭を抱え込むのを横目に見ながら、ナツミはどうしればいいのか悩んでいた。
 それでも、もうこの家にはいたくない。一日でも早く出ていきたい。そう言うのは我儘になるだろうか。
 お金の問題。
 それはあまりにも大きいし、今のナツミではどうしようもない。
 たかがお金。されどお金。
 まるで目に見えないなにかによって、雁字搦めにされているかのようだった。

 「……売りに出そう」
 「え?」

 続く父の言葉に、ナツミは思わず声をあげた。

 「すぐに買い手が見つかるかなんて分からないし、金が全部戻ってきてくれる訳じゃない。この先、一軒家に住むのもきっと難しくなるだろう」
 「もしかして、お父さんも何か見たの?」

 問いかけると、父は渋い顔で頷いた。

 「この間、遅く帰って来た時に、玄関に座って靴を脱いでたんだ。なんとなく後ろを見たら足が見えた。てっきり、母さんの足だと思って、しばらく話し掛けてたんだが返事がない。おかしいと思ってもう一度振り返ったら、そこには誰もいなかった。
 あの時は疲労のせいだと思ったが、それ以降も何度か家に戻るたびに、誰かが玄関に迎えに出て来る気配がしたんだ。この家には確かに何かがいる」
 「うん」

 私は大きく頷いた。
 嬉しかった。てっきり父は心霊現象など認めてくれないと思っていた。でも今は、この不安を家族で共有出来ている。それだけでも随分と心が軽くなる。

 「次の週末にはしっかり相談をして来るよ。新しい家も出来るだけ早く見つけよう。けど、しばらくは外食なんて出来なくなるから、その辺は仕方ないからな?」
 「分かってる。私もバイト探して、少しでも協力できるようにするね」
 「馬鹿いうな。お前の本分は学生だろ? しっかりいい大学にいって就職する方がずっと大事だ」

 父の言葉に、母もうなずいて同意する。ナツミは少しばかり気恥ずかしい思いをしながらも「ありがとう」と小さく口にした。




 意外にも引っ越しの話はとんとん拍子に進んでいった。
 父の友人だという不動産関係者は、事故死のことを知らなかったそうなのだ。まさかそんな物件なら、あんなに薦めはしなかったと、随分嘆いていたらしい。
 今さら契約を覆すことは出来ないが、せめてもの罪滅ぼしに急いで物件を探してくれたそうだった。
 いまいち納得はいかないが、どうしようもない事なのだろう。
 あいにくと家はまだ買い手がついていなかったが、新しい住居は見つかった。
 今よりもずっと郊外で、今よりもずっと狭くなって、元通りのマンション暮らしに戻るのだ。だが、この家から抜け出せるならば構わない。
 家鳴りは引っ越しの前日まで、ずっと同じように続いていた。
 それでも私は、最後まで恐ろしいものを見ずに過ごすことが出来たのだから、幾分かましだったに違いない。

 「短い夢だったなぁ」

 荷物を詰め込んだ運送会社のトラックは少し前に出ていった。
 がらんとした家を見上げて父が寂しそうに言う。母はそんな父に寄り添うと黙って腕を組んでいた。

 「そろそろ行こう。あんまり遅くなったら運送会社の人も困っちゃうよ」
 「そうだな」

 私が声をかけると、父はふり返って頷いた。
 その顔は以前よりもはっきりと疲れが見えている。目の下の隈も濃くなったし、白髪も増えたようだった。
 きっと私や母よりも、父の方がダメージを負っているのだろう。

 「運転、私がしましょうか?」

 そんな父に気遣って、母が優しく尋ねたが、父は「大丈夫だ」と首を振る。
 そうして私たちは車に乗り込んで、ほんの一時だけの我が家だった場所を後にした。
 新しい家はここからはかなり遠いので、高速道路を使って移動する。久しぶりのドライブだったが、車内の空気は明るいとは言い難い。
 あの家から逃げられた開放感はあるものの、家探しや引っ越しで皆が疲れ切っていた。
 会話もろくに弾まない。
 ナツミはぼんやり車窓の外を眺めていた。

 「あの家の、事故にあったって人、家族で旅行にでも行ったのかな」

 ナツミは後部座席に座り、母が助手席に座っている。ぼんやりと思いついたことを尋ねると、父とミラー越しに目があった。

 「ああ。まだ若い夫婦だったらしいからな」
 「若い夫婦?」

 何となく引っ掛かって問い返す。

 「ああ。前の住人は30代後半の夫婦だったって聞いてるよ。新居を手に入れてこれから子供でもって時に事故にあってしまったらしい」
 「……お婆さんは?」
 「お婆さん?」
 「あの家にはお婆さんもいた筈だよ?」
 「いや、父さんが聞いた限りじゃ、2人家族だって話だったぞ?」

 なんだろう。何かが引っ掛かる。
 でもだって、母さんはお婆さんを見たと言っていた。前に住んでいたのが夫婦だけだと言うならば、あの老婆は一体ぜんたい誰なのか。

 「ねぇ、ちょっとあなた。スピードを出しすぎじゃない?」

 絡まる思考に母の声が入り込む。

 「ああ、そうだな。……いや、おかしいな。ブレーキが効かない」
 「冗談でしょ?」
 「おかしい、ハンドルも動かない。なんで、こんな……」
 「お父さんッ!!!! 前ッ!!!!!」

 ナツミは引き攣った悲鳴をあげる。
 目の前には、大型トラックが迫っている。それでもスピードは緩まない。父さんが必死にハンドルにしがみつき、母さんが何かを叫んでいる。
 クラクションと同時にガラスが粉々に砕け散る。
 それはまるでスローモーションのようだった。
 きらきら光る鋭い礫がナツミの顔を引き裂いて、次の瞬間、激しい衝撃に襲われた。
 そこで光は消え去って、すべての感覚がなくなった。




 結局、私たちは、あの家に戻ることにした。
 色々なことがあったけれど、住めば都だなんて言葉もある。中古品のこの家にも今では愛着が沸いてきた。
 最近では家鳴りも気にならなくなってきたし、新しいお客さんもやってきた。
 この家には、色々な人が住んでいる。
 新しく来たお客さんも、この家を気に入ってくれることだろう。
 玄関が開く音がして、誰かが家に入ってきた。
 迎えに行こう。歓迎しよう。
 新しい家族。楽しい我が家。
 みんなみんなこの場所で、ずっと幸せに暮らすのだ。

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