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山に潜る

 紅葉を見に低山へハイキングに行きませんか?

 八重子から届いた誘いに二つ返事で了承を返した。
 ハイキングは好きだ。軽い山登りも好きだったがいざ一人で計画してとなるとなかなか実行に至らない。
 だからこうして誘ってくれるのはありがたい。
 八重子は高校時代からの友人だ。
 もともと特別仲が良かった訳ではなかったが、学校行事のハイキングで歩くペースが同じだったためにお喋りをしたがきっかけだ。思えば、あのハイキングより前は挨拶程度にしか言葉をかわした事もない。
 けれど、ハイキングの間にお喋りをして、そうして卒業間近に再びハイキングに誘われた。
 その頃も、クラスの中ではあまり会話はなかったのだが、彼女とハイキングに行くのはとても良いアイデアに思えたのだ。
 それ以来、私たちは一年に数回、少ない時には二年あくこともあったけれど、定期的にハイキングに出かけている。
 大学も別だったし、社会人になった後もハイキングの約束以外では日常的にやりとりをしている事もなかったが、何故だかその関係はもうじき30歳にさしかかろうという今でも続いている。
 普段の私は女友達が沢山いて、空き時間にはせっせとSNSであれこれと連絡をとっている。
 恋人ができれば、毎晩のように電話をして、日中もしつこいほどに何度もメッセージを送ってしまう。
 こんな私が、八重子のように年に数度のやりとりしかしない友人がいるなんてとても珍しいことだろう。
 でも私は八重子との距離感が好きだった。
 もしかして私は、必死にみんなと繋がりあっていながらも、もっと自由に気ままに、孤独でありたかったのかもしれなかった。



 都会の秋はとても短い。
 夏がだらだらと居座っている間に、店頭に並ぶ商品ばかりが秋色に染まっていき、コンビニのスイーツも芋やかぼちゃになっていく。だが街路樹が色づくにはまだ遠く、ようやく暑さが和らだころには冬の足音が迫って来るのが聞こえるのだ。
 秋はいつも慌ただしく過ぎていく。
 紅葉がみたいだなんて思っても、計画をたてているといつの間にか過ぎ去ってしまうのだ。
 でもこうして、八重子に誘われて出かければ、色づく木々にゆっくりと癒される時間ができる。
 都会から電車を乗り継いで2時間弱。
 駅周辺こそ人が多かったが、山に入れば途端に静けさに囲まれる。

 「はぁあああ、生き返る~~~~」
 「千代ってば毎回それ言ってるね」

 私の言葉に八重子が呆れた顔をする。これは毎度のやりとりだ。

 「だって本当に生き返った気がするんだもん」

 秋の森は不思議だった。
 あちこちから木の実が落ちる音がする。
 折り重なった落ち葉の上へドングリに松ぼっくり名も知らぬ木の実が大きな雨粒のように降って来る。
 見上げればあせびが紫の実をつけており、木々の間を行き来するリスの姿も見つけられる。
 私と八重子は時折、なんてことない会話をしながらゆっくりと山を登っていった。
 低山と言えど、高低差は都会を歩いている時の比ではない。日ごろから運動をする習慣がある訳ではない私にはだらだらとした登り坂さえ息が切れ、途中で何度も立ち止まってはまた歩き出すの繰り返しだ。
 すぐに太腿が悲鳴をあげ、秋だというのに首筋にはびっしょりと汗をかいていく。
 それでもふと立ち止まった瞬間に、さあっと駆け抜ける風を浴びればまるで疲れが溶けていくようだから不思議だった。
 しばらく立ち止まって秋の風と山の匂いを堪能する。そして再びザクザクと落ち葉を踏んで歩き出す。
 頂上についたのは丁度お昼時だった。
 途中の道では時折、人とすれ違う程度だったのに、山頂の休憩所には20人か、あるいは30人ほどの人が休んでいる。あまり有名な山ではないので、見晴らしの良い場所にベンチが数台あるだけだ。多くの人は岩の上や倒木の上に腰かけて昼ごはんを食べて過ごしていた。
 私と八重子も程よく平な岩を見つけて腰をおろすとリュックサックからお弁当を取り出した。
 今日のお弁当はエキナカで買ったおにぎりだ。
 ふわっふわに握られたご飯の具は、一つは海老天でもう一つは鮭のハラスが入っている。普段、会社で食べる時にはもう少し低カロリーなものを選ぶのだが、ハイキングの時は無礼講だ。ハイカロリーなおにぎり二つに唐揚げセットまでオマケにつけても、胃も心もちっとも痛むことがない。

 「いただきま~っす。んんん~~~~~美味しいッ!!!!」

 いつもより美味しく感じるご飯を口いっぱいに頬張りながら、広がる風景を堪能する。
 低山ながら遮るものがないお陰で、山頂からは関東平野を一望できた。
 都会にいる時にはそこそこ緑が多いと思っても、こうして山の上から見てみれば、平野部は驚くほどに灰色だ。
 あんな中に閉じ込められて毎日あくせく働いているなんて、まるで牢獄ではなかろうか。
 そんな風に思えてくる。

 「そろそろ出発しようか」

 ぼんやりと思いを馳せていると、八重子が声をかけてきた。
 辺りを見れば昼ごはんをとっていた人たちも大分まばらになっている。

 「そうだね」

 私は頷くと手早く荷物を纏めて立ち上がった。




 ここからのルートは2つある。さらに奥に向かってもう一つ山を超えるコースと、尾根にそって少し進んでから行きに降りた隣駅に向かって降りていくコースだ。
 私たちが選んだのは当然、後者の方だった。
 それでもまだおおよそ一時間半はかかるのだから、運動不足の会社員のハイキングコースとしては十分過ぎる距離だろう。
 山頂から下ってなだらかな尾根を歩いていく。この山の尾根は道幅も広く、上り下りも少ないためにとても心地よい道のりだった。時折、木の根に足をとられそうになる事もあるけれど、単調になりがちな足運びにはちょうどいい刺激になっている。
 尾根道はやがて下り坂に差し掛かり、周囲の木々が深い影を作っていく。
 日はまだまだ高い時間だったが、こうして森の中に踏み込めばあっという間に暗くなる。そびえたつ木々と、青々と茂るシダ植物。上も下もどこを見ても濃い緑でいっぱいだ。

 「このあたりは紅葉してないね」
 「そうだね。常緑樹が多いんじゃないかな。陽当たりのせいかもしれないけど」

 ざくざくざくっと、落ち葉を踏んで歩いていく。
 お昼を過ぎた時間帯のせいか、すれ違う人はいなかった。皆、お昼前に登り始めて頂上で昼ごはんをとって帰るのだろう。こうしてずっと歩いていると、この山にいるのは自分と八重子だけではなかろうかと、そんな気持ちになってくる。
 話すことも尽きたせいか、疲れがたまってきたせいか、私たちはしばらく無言で歩いていた。

 「道がない」

 八重子が立ち止まったのは昼休憩から40分ほど過ぎたころのことだった。
 言われてみれば、行く先には熊笹が生い茂っており道らしき道が見当たらない。

 「おかしいな。どっかで間違えたっけ?」
 「でも確か少し前に立札があったよね」

 覚えている。おおよそ5分ほど前に「T駅方面」と描かれた木の看板が立っていた。
 あの場所では道ははっきりとしており、迷う余地などなかった筈だ。

 「取りあえず戻ってみよう」
 「そうだね」

 頷いて私たちは引き返した。幸いにもすぐに道は見つかった。けれども10分ほど歩いても立札の場所に戻れない。

 「見落としてないよね」
 「ないと思う。私もよく注意して見てたし」

 低山でも迷うことがあるのは知っている。
 でもここは地元の小学生が遠足に行くような山だった。今まで歩いてきた道もどれも分かりやすいものだった。
 だからまさか迷ったなんて。そんなことはない筈だ。

 「時間あるよね。一度止まって休憩しよう」

 私は黙って頷いた。
 八重子が言っているのは日暮れまでの時間だろう。時間はまだ15時にもなっていないだろう。念のために確認してみたが、やはりまだ昼休憩から一時間も経っていなかった。

 「マップアプリは?」
 「駄目。圏外みたい。……千代、念のために私のスマホはしばらく電源を落としておくね」
 「分かった」

 もし本当に道に迷ってしまったなら。
 その時はスマホ電池の残量がそのまま命綱になるだろう。今は圏外になっているが、歩いていればどこかで電波がある筈だ。その時に残量がなかったら、その結果を考えるのは恐ろしい。

 「じゃあ、もうちょっと進んでみようか」

 10分ほど休憩して再び道を歩き出す。
 高くそびえたつ針葉樹と足元には熊笹が生い茂った道が続き、視界が開ける場所がない。そうすると、どこもかしこも同じ場所に見えてくる。

 「あのさ、関係ないと思うけど、さっきの立札のあたりで森の中に人がいたんだよね」
 「森の中で? 山菜でも取ってたの?」

 私が問いかけると、八重子は少し間を置いてから慎重に言葉を選ぶように話しだした。

 「木の後ろに立ってじっとこっちを見詰めてたの。そこそこ若い男の人だったから山菜とってる人には見えなくて。それでちょっとおかしい人なんじゃないかって思って気付かないふりをしたの」
 「じっと見てるのは怖いかも」
 「うん、それでね、怖がらせるつもりはないんだけど、ちょっと前にもまたいたの」
 「え?」

 私は驚いて声をあげた。

 「だったら声かけて帰り道を教えて貰った方が良かったじゃん。今からでも大声で呼べば聞こえるかも」
 「違う人だったの。今度は女の人だった。その人も木の後ろに立ってじっとこっちを見詰めてたの」
 「でも……」
 「私も千代と同じことを考えた。ちょっと変だけど声をかけて助けて貰えるか聞いてみようって。でももう一度見た時にはいなくなってたの」
 「じゃあ次に見かけた時は声をかけてみようか」
 「……そうだね」

 私たちはまた20分ほど歩いて休憩をとった。
 相変わらず道は熊笹の中を進んでいる。同じ道を引き返しているならばとっくに尾根に出る筈だった。
 少しずつだが日が傾き、木々の間から差し込む日差しが弱くなる。じわり、じわりと不安が胸に湧き上がる。
 私たちは再び岩の上に腰を下ろして小休止をとった。どちらが何を言う訳でもなく、お互いリュックサックを開いて中に何が残っているかをチェックする。

 「水は、まだ500ミリのペットボトルが丸々一本残ってる。あとオヤツにって思って持ってきたお菓子もある」
 「私もペットボトルが一本残ってるのと、あとカロリーメイトと飴とチョコレートとポテトチップスもある」
 「千代ってば持ってきすぎ。だからリュックぱんぱんだったんだ」

 八重子が笑って、少しだけ空気が軽くなる。

 「悪いことばかり考えたくないけど、取りあえずそれだけあれば大丈夫だね」
 「そうだね」

 私は頷きながらも、もし遭難してしまったなら救助してしまうのに一体いくらくらいかかるだろうかと考えた。100万くらい軽く飛んでしまうだろうか。命あってこそだとは分かっても、大金が一気に消えるのもとても恐ろしい話だった。

 「八重子はここに来ることって誰かに話した?」
 「話してない。千代は?」
 「会社の同僚には話したけど、……」

 今は土曜日なのだ。会社の同僚が不審に思ってくれるのは、早くても月曜日になるだろう。

 「そっか、じゃあ問題は気温かな」
 「ここってそんなに寒くなるの?」
 「夜間は5度以下まで冷え込むみたい」
 「それはかなり寒いね」

 日中の気温は20度に届かないまでも、コートがいるほどの寒さではない。念のため上着をもってきているが、5度以下の冷え込みといえば都会なら真冬なみの寒さだろう。そんな中で朝まで過ごすのは難しい。山において低体温症がいかに恐ろしいかは、素人の私でも知っている。
 色々と考えを巡らせながらも、私も八重子も焦って怒鳴ったりなどはしなかった。
 私と八重子の共通点。それは親にあまり愛されてこなかったことだった。熱を出して寝込んでも看病をして貰った覚えはない。
 虐待をされた訳ではなかったが、愛された記憶が薄いのだ。
 だからこうして何か良くないことが起こっても、それをそのままに受け止める。嘆いたり騒いだりしたところで何の役にもたたないと骨身に染みているからだ。

 「かなり陽が傾いてきちゃったね」
 「そうだね。真っ暗になる前にちょっとでも休めそうな場所を探した方がいいかな」

 下山出来ずに山中で夜を明かすことをビバークと言った筈だが、言葉を知っているだけで何を準備すればいいのか分からない。
 どこかに小さな洞窟のような場所があれば良かったがそんな場所はなさそうだ。
 じっと周囲に目を凝らしていた私は、ふと木々の間にやけに人工的な色があることに気が付いた。

 「ねぇ、あれって、……テントじゃない?」
 「本当だ。誰かいるのかな」

 安堵感と不安が半々だった。
 助けて欲しいと訴えれば、無碍にされることはないだろう。
 だが恐らくテントをはっているのは男性だ。見ず知らずの男の人に泊まらせて欲しいと助けを求めるのは気が引ける。
 かといってそれ以外に選択肢などある筈もなく、私たちは警戒しながらそっとテントへと近づいた。

 「誰もいないみたい」

 テントの外から声をかけても返事はない。恐る恐る中を覗いてみたもののそこには誰もいなかった。
 辺りを見回してみてもそれらしき人影は見当たらない。

 「どうしようか」
 「中で待たせて貰うしかないんじゃない?」

 時間は5時を回っており、周囲はかなり暗くなっている。木々の間はほとんど見通せなくなっていた。
 その上、寒さも増しており外で待つのも難しい。
 怒られないといいね、そんなことを話しながらテントの中にお邪魔する。
 幸いにもテントは2、3人は入れるほどの大きさだった。
 大きなリュックサックが置いてあり、寝袋も一つ置かれている。恐らくは男一人のキャンパーだろう。
 私たちはテントの中で寄り添って座ると、疲労感からしばし眠ってしまっていたらしい。どちらともなく起きたころにはテントの外はすっかり真っ暗になっていた。

 「息が白い。それに、ほんとに何も見えない」

 テントの外に顔を出せば、そこは凍えるような寒さだった。あたりは闇が包み込み、振り仰いでも木々ばかりで月明りもここまでは届かない。

 「帰ってこないね」

 ひとまず、自分のリュックからカロリーメイトを取り出して、2人で半分づつ口にする。
 不安のせいか日中ずっと動いていた割りにお腹は減っていなかった。それに、明日もまた歩くことになるならば、食料は温存しておきたい。
 それにしても、何故テントの主は戻ってこないのか。こんな時間まで外をうろついているのは、いくら山慣れていたところで難しいのではなかろうか。
 どうしようか2人で話しあい、一人ずつ寝袋を使って交代で眠るということに決定した。
 寝袋を使う側は上着を出来るだけ脱いでから、もう一人にそれを着てもらう。そうすれば少しは寒さをしのぐことも出来るだろう。
 人様のものを勝手に使うのは気が引けるが、八重子が言うにはこういう場合は「緊急避難」というものが適用されるらしかった。つまり、命に関わる事態の場合はある程度は仕方ないということだ。

 「それじゃ、2時間たったら交代ね」

 そう言ってまずは八重子が寝袋の中に入り込んだ。




 スマホでアラームをセットして時間が来たら交代する。
 それまでは何も出来ず退屈な時間だったが、アプリゲームをすることも出来ないのだから、ひたすら耐える以外にない。
 そうして、ふと私は気が付いた。
 もし山で泊まるつもりでいるならば、充電器をもってきているのではなかろうか。それに、恐らく食料や防寒具もあるだろう。
 テントを使って、寝袋まで借りた上にリュックを漁るのは褒められた行為ではないだろう。だがそれも、「緊急避難」に含まれるのではなかろうか。
 多分そうだ。そうであって欲しい。
 祈る気持ちで大きなリュックを引き寄せると、中身をこそこそ探りはじめた。スマホの充電を消費したくはなかったが、何も見えないのだから仕方ない。
 一つ一つ取り出して、目の前に分かりやすいよう並べていく。
 すぐに懐中電灯が見つかった。ありがたい、と手を合わせてスイッチをオンにすればテントは一気に明るくなる。眩しさからか八重子がかすかに呻いたが、私は構わずリュックをさらに調べていく。
 その結果に、私は首を傾げることになる。
 充電器が見つからなかったのは仕方ない。問題は出て来た食料だ。
 賞味期限があまりにも古いのだ。
 おおよそ5年ほど過ぎている。
 カロリーメイトなどは賞味期限が比較的長く設定されている筈だが、それが大きく過ぎている。よほどズボラな人であっても、ここまで大幅に期限切れのものを持ち歩くのは不自然だ。
 他にもインスタントの味噌汁などが見つかったが、どれも期限が切れていた。
 一体どういうことだろうか。
 食料と一緒に出てきた防寒具を上から着込んで悩んでいると、少しずつ瞼が重くなる。
 よほど疲れていたのだろう。ピピピピっとアラームが鳴ったのは、体感的にはまだ10分もたっていないかのようだった。
 八重子がうめきながら起き上がり、私ももぞもぞ凝り固まった身体を動かした。

 「……懐中電灯?」
 
 不思議そうに目を細める八重子に、何を見つけたかを説明する。

 「もしかしてこのテントってずっと前から放置されていたのかな」
 「でも流石に、5年は無理じゃない? やぶけたり、落ち葉に埋もれたりすると思うんだけど」
 「そうだよね」

 それでは一体、ここで何が起こってのか。やはり答えは見つからない。

 「取りあえず千代も寝て。私も調べてみるから」
 「分かった」

 八重子の体温であったまった寝袋に潜り込むとすぐさま睡魔が押し寄せた。




 「千代、起きて」

 肩を揺すられ目を覚ますと、テントは真っ暗になっていた。

 「もう時間?」
 「そうじゃなくて、……」

 八重子は声を潜めている。異常を察知して身を起こすと、すぐにその音に気が付いた。
 足音だ。
 テントの周囲を歩き回っている音がする。

 「戻ってきたの?」

 ヒソヒソと話し掛けると、八重子は首を横に振る。

 「だったら入ってくる筈よ」
 「まさか、……熊とか?」
 「よく聞いて、……一人じゃないの」

 驚いて耳を澄ませば、確かに足音は1人のものではないようだ。
 ざっざっと落ち葉を踏んで歩く音は、少なくとも2人以上はいるだろう。
 いや、耳を澄ませている間に、足音がさらに増えていく。5人、6人、もっと数が多いだろうか。
 私たちと同じように道に迷ったのだとしても、同じ場所をずっと回っているのは不自然だ。
 ぞわりっと怖気が背筋を這い上がる。
 おかしい。絶対におかしい。
 まともな人間ならばあり得ない。

 「どうしよう」
 「どうしようもないよ。静かにしてるしか、……」

 ざっざ、ざっざと足音はただ黙々とテントの周りを歩いている。
 怯えながらも、ゆっくりと寝袋から抜け出して八重子に預けていた上着を半分返してもらう。
 ここに入って来られたら、抵抗したとて多勢に無勢になるだろう。だとしても、寝袋に入ったままよりはましな筈だ。
 怖い。
 怖くて仕方ない。
 上着のボタンを閉める指が、震えていてうまく動かない。
 静かに。息を潜めて。とにかくが夜が明けるのを、ただただ待っているしかない。
 その時だった。
 ピピピピピピっとアラームの音が鳴り響く。
 心臓が破裂しそうなほど驚いて、慌ててアラームをオフにする。
 痛いほどの沈黙に、私は泣き出しそうだった。
 音がしない。外を歩き回る足音が消えている。
 立ち止まった。気付かれたのだ。

 「……行かなくちゃ」

 八重子が言った。

 「最初っから駄目だったんだ。目があった時から駄目だった。だから行かなくちゃ!」
 「何言ってるの!?」
 「駄目なの。だって見つかった! 彼らが私たちを見つけたの! だからずっと見てたのよ!」
 「八重子、しっかりして!」

 八重子は今までに見たこともないほど取り乱し、テントから這い出そうと動き出す。
 私は慌てて八重子の身体に覆いかぶさって引き留めた。
 行っちゃ駄目だ。今、出て行ったら絶対に二度と戻れない。
 体重をかけて押しつぶし、八重子が暴れても必死になってしがみつく。

 「行かなくちゃ! 行かなくちゃ! 行かなくちゃ!!!!」
 「やめて、八重子!!!! やめ、……――、……」

 ぶわんっとテントの布が大きくゆがんで、私は息をのみこんだ。
 顔だ。
 たくさんの顔。
 テントの外にいる何かが、いっせいに布地に顔を押し付けて、お面のように沢山の顔が浮き上がる。
 悲鳴すらも出なかった。
 私はただ、八重子にずっとしがみつき、ぎゅうぎゅうと力を籠めていた。
 駄目、駄目、駄目。
 いなくなって。お願い。もうやめて。
 頭の中では悲鳴をあげるように祈り続け、八重子を全力で抱きしめる。
 いつまでそうしていたかは分からない。
 私はきっと途中で気を失ったのだろう。
 次に目を覚ましたのは、その翌朝のことだった。
 テントの隙間から太陽の光が差し込んで、夜が明けたことを告げている。
 安堵して私が泣き出すと、八重子は「重いからどいて」と小さく呻くように呟いた。




 テントから外に出てみれば、昨晩は見えなかったものが見えてくる。
 周囲にはたくさんの荷物が落ちていた。
 誰かのリュックサック。誰かの帽子。誰かのダウンジャケット。誰かの水筒。
 それは10人やそこらのものではないだろう。
 何があったのかは分からない。
 ただ恐らく、彼らはここで行方不明になったのだ。
 私と八重子は急いでその場から立ち去った。
 そうして幸いにも登山道を見つけ出し、無事に下山することができたのだ。
 あの夜の出来事は、誰にも語らないことにした。
 警察に通報する気にもなれず、記憶の底に閉じ込めてしまうことに決めたのだ。
 あんな恐ろしい目にあったけれど、私たちはその後も山に登りに出かけている。
 いやむしろ、以前よりものめり込み、より難易度の高いコースにも挑むようになっていた。

 もっと高く、もっと深く。
 山へ、山へ、山奥へ。
 いつの日か彼ら自身になれるまで。
 私たちはより高く、より深く、山の奥へと潜るのだ。

 

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