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「自分は特別」を諦める

「自分は特別である」、「特別でありたい」というような思考を幼少期から持っていた。物語の主人公のような際立った個性というか、ある種のデフォルメされたアイデンティティみたいなものが自分にもないのか、と。自己分析に通じるものがあるけれど、結局のところ、何のこともない、どこにでもいるような普通の人間であることを強く認識するばかりだった。

例えば、ミュージシャンが音楽で、イラストレーターが絵で、お笑い芸人がネタで表現するようなアイデンティティが羨ましかった。

しかし、そんな私も「自分は特別」になりかけたエピソードがある。
10年以上前のことになるが、とあるインターネット上のコミュニティで、自分の投稿した内容がバズった。(当時はまだ「バズる」なんてあまり言ってなかった気がするけれど)
それによって、そのコミュニティの中では結構名を知られた状態になった。その結果、Twitterのフォロワーが急増し、妻と出会うきっかけにもなっているので、ある意味、このエピソードが人生を変えたとも言えなくもない。
そのコミュニティのオフラインイベントがあった際には、列に並んでいる自分の目の前の人達が私のハンドルネームを口にしていて、現実では自分のことを知らない人達がインターネット上の自分のことを話しているという状況を目の当たりにし、現実とインターネットの境界を強く感じた。
紆余曲折あり、今はそのコミュニティから少し距離が離れてしまったが、この経験は1つのエポックメイキングな出来事だったと捉えている。

ただまぁ、結局、それをきっかけにどうこうしたっていうのはある程度のところで線引きをしてしまったので、最終的に「自分は特別」にはなりきれなかった。

では逆に「自分は普通」なのだろうか?
もし、人間に関わる全てのものに平均値が存在しているとしたら、おそらく、どれを選択しても正規分布の40〜60%の間にいるだろうと思う。
でも、それを「普通」と表現してしまうのは何となく違和感を覚える。
他人と比較しての「普通」は、自分の中に存在する「普通」とは乖離があるように思う。
結局のところ、自分が思う「普通」とは、自分の中でこれまで育んできた価値観に縛られてしまうものだから、それにどれほどの信憑性があるのかは疑問が残る。
ある意味、多少の浮き沈みがあるとは言え、うつ症状が1年以上も続けば、自分の中でそれが当たり前になろうとしているし、うつ症状を発症する前の自分がどうだったのかも、薄らとしてきたようにも感じる。
うつ症状を患うことが成長だとは言いがたいけれど、少なくとも経験であることには違いない。
症状自体に苦しさやもどかしさなどは感じるが、それでもこうやってその時々の思考をnoteに文章として残すことで、経験を見える形で残そうとしている。
そうした成果物が、現実として直視しなければならないことがありながらもそこから目を逸らすための気休めだったとしても、少なくとも自分の中では無価値ではない。

「自分は特別」にはなれないけれど、「自分の特別」を作ることはできる。

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