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休職日記 #31:我慢の継承

家庭を持ちながらも仕事を休職している私にとって、平日よりも土日祝日の方が心がせわしなくなる。
原因はもちろん子供たちが家にいるからに他ならない。平日であれば、学校なり保育園なりによって子供たちが家におらず、妻がテレワークしているかどうか次第で一人かどうかが決まる。
ただまぁ、妻がテレワークをしていたとしても、結局のところは仕事をしているわけで、私に構うことはあまりなく、ある意味で一人だとも言えなくもない。

翻って、土日祝日は、日中ずっと子供たちがいるわけで、必然的に子供たち優先の生活になりがちだ。上の子は学校や公文の宿題をダラダラと何時間もかけてやるし、下の子はあれでもないこれでもないと騒ぎ出す。何事も家族が揃った上でやらなくてはいけないわけではないが、それでも家族とは共同生活を営んでいる一つの組織であることには違いなくて、それぞれの気分などが組織全体の雰囲気に直結する感じがあるのは否めない。
朝からそんな状況に付き合っているとストレスがどんどん溜まっていって、家族全体がイライラし始める空気になっていく。
ガス抜きというか、もはや早く昼寝して欲しいがために、下の子を外に連れ出して、近所を散歩したりもする。それでも、私の心に溜まったイライラやモヤモヤはあまり解消されない。
なぜこんなにも心に余裕がないのか?と自問するが、明確な答えは出てこない。

上の子は親の私から見ても、物分かりが良いというか良過ぎるきらいがある。おそらく、上の子なりに物事を観察していて、正解か不正解かはさておきいろいろな事情を察して、行動しているように見えることがある。
そして、それが何となく、自分が幼い頃と重なるように感じるのだ。そんな姿を見て、少し同族嫌悪みたいな感情を抱くこともあるし、そうさせてしまっていることに対しての申し訳なさのようなものもある。

私は長男だということもあり、しかも両親は共働きだったので、幼い頃から兄弟の面倒を見ることが多かった。男兄弟だったから、些細なことで喧嘩もしたし、最終的に感情の持って行きどころがなく、そういった場合は部屋に閉じこもったりもした。
大抵の場合、そうするのは私の方で、自分の部屋で音楽を大音量でかけてやり過ごした。この辺りのやり口は今と大して変わっていない。三つ子の魂なんとやら、というやつだろうか。

大人になった今では、一応、心を鎮めるためのコーピングリストみたいなものもあるが、やはり一番上にくるのは「音楽を大音量で聴く」なのだ。iOSのヘルスケアアプリに音量を下げるようにアラートを出されようが関係ない。

最近は、下の子を散歩に連れ出すときにBOSEのOpen Earbudsを付けて出かける。
我が家の周りにある公園や車などが立ち入れない散歩スポットなどで、目の届く範囲で自由にさせている間、私は音楽を聴きながら過ごしている。
Open Earbudsのおかげで、我が子に話しかけられても、音楽が流れたままで何の問題もなく会話することができる。さながら、自分にだけBGMが付いてくるような感じだ。
音楽を聴きながら子供と過ごすことについて、子供に対する教育的な影響がどうとかを考える余裕はあまりない。それ以上に今は私がストレスに耐えられないから。
何なら、抑うつや倦怠感を抱えていること自体が、子供に対してどのような影響を与えてしまっているのか?ということも考えればキリがない。
考えたところで、そもそも抑うつや倦怠感がよくなるわけでもないし、何ならそちらの問題を早く片付けるべきなのは間違いないのだけれど、そちらはそちらで問題の根が深いような気もしている。

私の両親もこんな風に感じていたのだろうか。
少なくとも、私のようにメンタルクリニックなどには通ってはいなかったと思うが、兄弟揃ってそれなりに苦労をかけていた気はする。
私の両親もいろいろと我慢していたのだろうか。
私自身が親という立場になってから、ようやく自分の両親の苦労に思いを馳せるようになった気がする。

こうやって親の思いや、自分の幼少期の思いが我が子に継承されていくのだろうか?とふと思った。

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