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休職日記 #40:「育児」の葛藤

私は現在、『適応障害』という診断名で休職している。つまり、何かしらのストレス因子が原因で、それに適応することが出来ずに心身の不調に繋がっている、ということになる。
私にとって、適応障害に至ったストレス因子は「仕事上での立場による振る舞い」や「それに対してのサポートの欠如」が大きいと思っている。
でも、自信を持ってそう言いきれないのは、やはり、どこかで「育児」や「家族」もストレス因子であるということを薄らと把握していながらも、それを認めたくない自分がいるからである。
2ヶ月も休職して仕事から離れていながらも、大して回復している実感が湧かない、という事実が深く鋭く自分自身を切り込んでくる。
でも、それを認めてしまうと、親だったり夫だったりというペルソナが持っているプライドが崩れ去って、私が私でいられなくなってしまいそうなのだ。

もちろん「家族を大切に想う気持ち」と「育児自体の大変さ」は別物であり、それらは切り離すことが可能で、私の現状にとしての最適解はそうすることだと考えている。
どこからどう考えても育児は大変で、思い通りにならないことがたくさんある。日々、子供達に翻弄されていると言っても過言ではない。そんなストレス因子としか言いようがない状況があっても、少しずつ成長していく子供達の姿を見るのは、私の親というペルソナを満たしてくれる面も大いにあるわけで、それは何者にも代え難い。

別に、ことさら熱心に育児をしているというわけではないが、妻や子供のためであれば自分を投げ打ってしまってもいいとすら思ったりもする。
言わば、家族は私を構成する一部であり、それは「利他的でありながらも利己的になり得る唯一のもの」という気がしている。これが私なりの「家族への愛情」と言ってもいいかもしれない。

しかしながら、私自身も人間という生き物である以上、社会的な部分もどうしたって切り離すことはできない。
私が子供と一緒にいる場合、子供が他人に迷惑をかけていないかを常に気にしていて、ともすれば、出来るだけスペースが広くて他人への干渉度が低い場所か、我が子の存在感が薄まるように他に子供が多くいるような場所を選びがちだったりもする。正直言って、それは子供のためにそうしているとは言えない。
「育児の大変さ」を避けるために、「家族を大切に想う気持ち」をないがしろにしてしまっているな、と感じることもある。
私のそんな「親としてのプライド」のために、家族を巻き込んでしまっているような気がする。でも、そんなちっぽけなプライドがどうであれ、少なくとも私としては、私の思う「親としての責務」として「家族を大切に想う気持ち」を全うしなくてはいけない。
それこそが「親としてのプライド」の最後の鍵なのかもしれない。

「まず親が健康でないと、育児なんてままならない」という言説も理解できる。というか、それを実感している。
夫として、親として、私が今、適応障害を患っている状況をとても申し訳なく思っている。
でもきっと、そういったペルソナを建前にしているだけでは、何も解決しないのだろうな、とも思う。
ペルソナではなく、しっかりと「私自身」に向き合っていく必要があると思う。
今はまだ純粋にそれができていない。

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