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15年前に他界した祖父と私の「Canon フィルムカメラ」

2022年、12月。
祖母が施設に移り住むため、住んでいた家を引き払うことになった。祖母の息子である私の父と一緒に、家具や家電、どこにそんなにしまい込んでいたんだ?と不思議なほど大量の雑貨類などを処分していたら、大きな焦げ茶色のタンスの引き出しから薄汚れた1台のカメラが出土した。

Canonの「Autoboy TELE QUARTZ DATE」という、the 昭和のフィルムカメラだ。父は「おやじ(私の祖父)が昔買ったやつじゃないかな、使ってるの見たことないけど」と言って捨てようとしたが、私が「これ使えるかな?一回持って帰りたい」と貰い手に名乗り出た。
大学生のころからフィルムカメラに興味があったし、もし使えたら超ラッキー。一銭も稼げない超大掃除という肉体労働の対価としては申し分ないだろう。


あれだけモノに溢れた祖母の家は半日ほどでもぬけの殻になった。祖母が数か月前までここで生活を送っていた痕跡は微塵もなくなり、師走の冷たい風が余計に、というか思いのほか喪失感を増幅させた。思いがけない掘り出し物に出会えたことが、唯一の救いだ。

この日を境に、私は祖父のことをよく考えるようになった。
あのカメラの最初の持ち主である私の「おじいちゃん」。
まあまあ、破天荒な人だったと思う。

◆◆◆

おじいちゃんは会社を経営していた。タイル屋さんだ。顔はいかついけど優しい職人さんたちと一緒に、祖父母宅に隣接した事務所でおじいちゃんもいかつい顔をしながら仕事をしていた。
ある日の夜、母と父と一緒に祖父母宅に向かうと「あまり声を出さないように、静かにね」と母は私に伝え、祖父母と両親はいそいそと最低限の服や貴重品を車に詰め込み、人目を避けるように車を走らせた。見ず知らずの土地まで高速で向かう道中は、冒険みたいでワクワクしたけど、私以外の家族の表情は晴れなかったので、なんとなくこれはダメなことなんだなと察した。これがかの有名な「夜逃げ」である。

そんなおじいちゃんには、長年愛人がいた。スナックのママをしていた人らしい。お金の援助までしていたことを小学生の私でさえ知っていた。孫ぐらいには隠してよ。
私が小学6年生だった15年前に、おじいちゃんはガンで死んだのだけど、お通夜に例の愛人さんがやってきて、葬儀場は昼ドラのような修羅場となった。死んでもなおエンタメを提供してくれるなんて、なんてサービス精神豊富な祖父でしょう。12歳の私は「将来結婚するなら浮気しない人がいい」と心に決めた夜だった。

そんなクソじ……おじいちゃんは、夜逃げするし浮気するしギャンブラーだったけど、私のことを、心底可愛がってくれていた。

おじいちゃんは最初、私が生まれることに大反対だったらしい。「産むなら絶縁だ!」とまで父に言ったそうな。ドラマみたいだね。
でも生まれてきたのが、色白でまあまあ顔が整った(当時はね)、祖父母念願の女の子だったので、おじいちゃんは手のひら返しで私の誕生を喜んだらしい。調子いいな。

両親が共働きだったので、幼稚園生~小学校低学年のときはよく祖父母宅に預けられていた。当時の私は極度の男性恐怖症で、父でさえ怖くて近寄れず話せなかった。おじいちゃんも論外ではない。そんな怖がる私を面白がってか、おじいちゃんは「モー娘。を踊れ」だの「歌ってみろ」だの、ダル絡みをしてきた。そんなおじいちゃんに対して、段々恐怖心よりも「おじいちゃんうぜーな」の気持ちが強くなり、いつしか普通に接することができるようになった。「ほら!モー娘。踊れ!」「きゃはは!やーだよー!」とじゃれ合う感じ。思えば、父とも会話ができるようになったのはこの頃からだった。

15年前におじいちゃんのガンが見つかった時は、すでにステージ4の末期。60代だったので比較的進行が速い。手術はできないため、緩和ケアという選択を取るしかなかった。別人のように日に日に弱っていくおじいちゃんだったが、一瞬覇気を取り戻した瞬間があった。
私は小学校6年生のとき、跳び箱3段を飛ぼうとして左ひじを骨折して手術し(私の名誉にかかわるので言わせてください。普段は8段飛べるんです。低すぎて飛びすぎちゃったんです!本当に!!)(と言えば言うほど嘘に聞こえるのが常)、ギプスをはめて三角巾で腕を吊った姿でおじいちゃんの病室を訪ねたことがある。そのときおじいちゃんは目を見開いて、元気だった時のように「おいお前!どうしたんだそれ!!」とびっくりしていた。久しぶりに声に力のこもったおじいちゃんを見た瞬間だった。ある意味ショック療法(※良い子はマネしないでね)。

それからは、
下り坂を転げ落ちるように病態は悪化し、
おじいちゃんは、
死んでしまった。

おじいちゃんと一緒に写った写真は一枚もない。おじいちゃんを映した動画もないから、声ももう、思い出せない。どんな声で私の名前を呼んでくれたっけ。私のこと、なんて呼んでたっけ。目尻に皴をいっぱい作りながら私にむけてくれた笑顔さえ、もうおぼろげだ。覚えているのは、おじいちゃんが社長だった頃に、事務所にアイスコーヒーを持って行くととても喜んで私を膝の上に乗せてくれたことぐらい。おじいちゃんは手足が細いのにお腹だけ出てたなとか、いつも白い肌着にクリーム色のももひき履いていたなとか、毎朝バニラヨーグルトとフルーツ入りのサラダを食べていたなとか、それぐらい。きっとこれも、いつか忘れちゃう。

もっとたくさん話したかった。
一緒にお出かけして思い出を残したかった。
ゴルフだって一緒にしてみたかった。
麻雀も教えてほしかったな。
制服姿や振袖も見てほしかった。きっとまた、目尻を下げて笑いかけてくれただろうな。

おじいちゃんが亡くなってから15年。
あのカメラに出会った今、気付くのは遅すぎたけど、私はおじいちゃんが好きだったんだなと、自覚した。思えば、夜逃げのときに結構大事なものを沢山置いて行っちゃったのに、あのカメラはどうして持ってきたんだろう。
おじいちゃんが覗いていたかもしれないカメラのファインダーを、私も覗きたい。このカメラを通して、おじいちゃんに「私はこんな日々を大切にして、今生きているんだよ」と伝えられたらな、なんて、思ったり思わなかったりラジバンダリ。

◆◆◆

2023年、5月。
地元の個人経営のカメラ屋さんにカメラを持ち込むと、修理が必要ですとのこと。なお「中の電池が膨張していて、もう少しで爆発して出火するところでしたよ」とも言われた。危ない、家を燃やすところだった。修理代は約1万7千円で、正直安くはないのだけど、思い出には代えられない。修理をお願いすることにした。

2023年、11月@台湾。
36枚撮り終えたカラーネガが、音を立てて巻き終わった。
カメラの修理が完了していざ撮ろう!とすると、「このシャッターは本当に必要か……?スマホでもよくないか……?」と雑念が邪魔して全く撮影できず、36枚撮り終えるまでに2年はかかると見込んでいた。しかし、2023年の夏はとても色濃く、順調にシャッターを切り、念願の台湾旅行で無意識に撮り終えていた。それほど私にとって良い時間が過ごせたのだろう。ちなみにこれも無意識だが、私は台湾でタイルに目がなかった。おじいちゃんはタイル屋さんの元社長。血は争えないみたい。

これからフィルムはカメラ屋さんで現像してもらう。
もしかしたら全部失敗してるかもしれないし、思った風に撮れてない写真が大半だろう。それもまた楽しみだ。あのカメラを連れて、これからもいろんな風景を見に行こう。

◆◆◆

そうだ、ヘッダーの写真に触れていなかった。
海パン一丁で何とも言えないキュートなポージングをしております男性が、若かりし頃の私のおじいちゃんです。祖母の家を掃除してたら出てきたからお持ち帰りしました。

ただ、最近思うのです。

おじいちゃんってこんな顔だったけ……これおじいちゃんじゃなくて親戚の誰かという説ないか……?と。

追記 : 家族に確認取れました。「大丈夫、この顔はおやじだよ」とのこと。よかった。


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