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シメククリ

 まだ何となしに、意識がぼーっとしているが、ここらで一度、これまでの人生そのものを締めくくっておきたいと思う。
 兎にも角にも、永かった……。永遠に終わらないのではないかと思った。でも、やはりちゃんと終わりはあった。何とうれしき事だろう!ちゃんと終わりが来たのだ。重い重い、ズルズルと変わらない現実に終わりが来たのだ!!まずは、これが何よりも嬉しい。

 20年ほど前、学校教育という名の奴隷小屋をやっと卒業できたと思いきや、更に暗く、頑丈な鉄格子へとぶち込まれた。それが賃労働だった。だが初期の頃、いかに辛酸を舐めようとも、私はそこから脱出しようなどとは、何故か考えつきもしなかった。「その中で面白く生きる方法を考えてやる!」真っ直ぐにそう思っていた。思い返すだけで、感心してしまう。そして、そのような苦痛を体験することすら、何かが私に許してくれており、それは完全に、その何かに守られながらやっていたことのようだった。無論、今思えばだ。
 ぐったぐたに疲れて、気付けば、一瞬眠りこけて逆車線を走っていた時だって、上りにも下りにも、私の他に走っている車はいなかった。同じように眠りこけて、自動車専用道路でアクセルから完全に足を離していた時だって、後ろから車は一台も来てはいなかった。多分、いっそ死んだ方が楽だったのではないかとも思うが、未知の存在が「守る」或いは、「護る」といった場合に、それはどういう意味でそうするのかと、ずっと考えていた。どうやらそれは、苦痛も含めて、経験することそのものを保障してくれていたらしい。ーーいや、今この時もずっとその筈である。そもそも、そういう人生を歩むと決めて生まれてきたのは自分である筈なのだから、それを保障してくれるというのはこの上なくありがたいことであるのだな。
 自分の人生は自分でしか決められない。もし、いま思い通りの人生になっていないと思うのであれば、まず、そうなる現実を知りたかった自分が奥深くにいたのだということに驚いてみよう。「こうすれば、現実はどうなる?」と、その結果を強く知りたがっていた自分がいたからこそ、その現実は起きたのに違いないのだから。
 そして次に、本当に自分が知りたい現実が何なのかということを、自分の奥深くにいる本物の自分自身に尋ねてみよう。次はきっとそれが現実化するはずだ。他でもない。だてに40余年生きてきたわけではない。そのくらいは確信している。

 賃労働を含む、支配の鉄格子は緩み始めている。隙をついて自由に吹きまわろう。風のように。

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