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アンコールすること

 内的体験はそれ自身がひとつの権威だ

G.バタイユ『内的体験』

体験の意味

 凡庸なことではある。それは誰にだって起きうることであるし、いや寧ろ避けようのない事態だと言ってもいい。私には2つの価値体系の崩壊体験があった。一つは政治的な、そしてもう一つは愛においての、そのいずれが決定的であったのか、それはわからない、しかし今の私はその二つの瓦礫の上に築いた、一個の主体である。

 思えばあの体験以後、新しい意味を求めて様々な本を読み漁った。現在の自分を肯定できる体系的な意味づけを求めて、あの体験がもたらした実存的な不安を、意味の欠如を埋めるために。そして私はそれをなんとか成し遂げた。

 私がそれを成し遂げたのは、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』や東浩紀さんの『存在論的、郵便的』、さらにはそこを経由したフランス現代思想の読書体験によってだった。彼らの議論は、「大きな物語」が失われた以後の現代の欲望のあり方、主体のあり方を肯定するもののように私には思われた。

 数年来、彼らの議論に基づいて世界を捉えてきたし、それでなんとかやってこれたのは間違い無いだろう。しかしその一方で、私には釈然としない思いが滞留し続けていたこともまた事実であった。あるいはそれは私の見識の浅さによる所もあるのだろう。しかし私にはどうしても、彼らの議論はあの爆心地を埋め立てて、何食わぬ顔で膨張し続ける都市の如きグロテスクさを帯びたものとして立ち現れてきたのだ。

 もちろんそんなグロテスクさを感じぬ人も多かろう、初めから彼らの論じるような動物的な欲望システムの中に生きてきた人にとっては、「大きな物語」の喪失というグランドゼロは単に歴史上の、抽象的な事態に過ぎず、そんなものは意識せずに生きることが出来るのだから。しかし、私にはそれはできない。なぜといって、私はあの体験以前はあの物語の、体系立てられた意味の世界に生きており、あの体験によってそれらが崩壊してしまったのだから。あの体験は埋め立てることは出来ない、私にとっては実存的な危機として、現実的な問題だったのだから。それを回避して、動物的な欲望の中を泳ぐことなど到底できない。

 だからこそ私は叫ぶ。「アンコール!」。陳腐な回答かもしれない。これは数年来、どっぷり浸かってきた世界に対しての真っ向からの対立になってしまうかもしれない。しかし、私は叫ばずにはいられない。グランドゼロに立ち続けながら、「私の価値を基づける、あの崇高な権威をもう一度!」と。

欲望のシステム論

 論じるにあたって、まず欲望について整理しておく必要があると思う。

 だが、なぜ欲望なのか。端的に言って、人の行動様式の根本には欲望があるからだ。ここには様々なレベルでの反論があるかもしれない。例えば、私たちはダイエットをする人の場合、自分の食欲を抑えなければならず、欲望に反して行動しているではないかとかとか。しかし結局はそれは、痩せて人によくみられたいという別の欲望と天秤にかけて、結果的に食欲を抑えているだけで、欲望に基づいて行動するという点では変わらないとも言える。まだまだ反論の余地はあるかもしれないが、ひとまずは「人は欲望にもと規定された行動をとる」と言い切ってしまおう。

 しかし、その欲望とはいったいなんだろうか、といざ問われてみるとうまく説明出来るだろうか。「それに基づいて人が行動するもの」というのでは単なるトートロジーだ。もっと上手い説明が必要になってくる。ここで登場するのが精神分析だ。

 精神分析というと、疑似科学に過ぎないというイメージを抱いている人も少なく無いとは思う。しかしこの精神分析は、欲望のシステムの説明にかけては、極めて精緻に理論立てを行なっている。

 では精神分析における欲望とは一体どんなものだろうか。簡単にいうと、「他者の欲望の対象を欲望する」という性質のものだ。欲望の説明に「欲望」を使うのでは説明になっていないと感じられるだろうが、しかしここに欲望の本質があるのだ。

 私は何を欲望するのだろうか、それは他者、もっというと母の欲望の対象を、つまり父のペニスを得ることを欲する。これは人間に欲望のシステムが植え付けられる、幼年期の最も原初的な体験だ。もちろん男の子にはペニスはある。ある意味では女の子にも。しかしそのペニスは、父のそれとは画然と異なっている。だからこそ、自分には欠如した、父の、隆起したペニスを得ることを、愛する母の欲望の対象となることを求める、これが欲望の原初的なメカニズムなのである。

 このペニスは、愛する他者の欲望の対象は、原理的には把握不可能である。ペニスとは単に記号であり、それに基づいて世界が価値づけられる超越論的な対象Xだ。しかしその対象Xには、厳然として父の法が、ペニスという単一の塔が打ち立てられているのだ。

 この対象Xは主体にとって権威という塔としても、謎という穴としても機能する。母はある単一の対象を求めている。しかしそれが何かは明瞭にはわからない。だからこそ人はひとまずある対象aで埋め合わせを行うが、それは母の欲望の対象そのものではない。そのため主体はまた別の対象aを求める。こうして愛する他者(母)の欲望の対象である(父の)超越的なペニスへの羨望をめぐって展開するものこそが精神分析における欲望のメカニズムなのである。

70年代の危機と欲望

 こうした欲望は古代はプラトン『饗宴』から始まって、上記理論の整理を行なった1960年代のジャック・ラカンまで広く通用する欲望論だった。しかし第二次世界大戦が終わり、全世界的に従来の権威主義に対して自由を叫ぶ学生運動が吹き荒れた、リオタールの言うところの「大きな物語の終焉」以後、こうした欲望論は端的に通用し難いところがある。もはや超越的な秩序を前提とすることはできない。1970年代にはこうした欲望論は修正が迫られたのだ。

 実存的危機以降の私が認識の基礎づけとしたのは、こうした時代のフランス現代思想だった。上に挙げた二つの著作『動きすぎてはいけない』と『存在論的、郵便的』ではそれぞれ、ジル・ドゥルーズとジャック・デリダを中心として、この時期のフランス思想の断絶について論じている。

 例えば『存在論的、郵便的』では、デリダの脱構築を70年代以前のゲーテル的、存在論的脱構築と70年代以後のデリダ的、郵便的脱構築にへと展開していることを論じている。(前者はラカンの理論と類似したものであり、著者は後者の立場から、ラカンを1人の仮想敵として議論を展開している。)一般的には、脱構築というと前者の立場が想起されるが、前者は否定神学的なもの、つまり欠如の単一性を超越化してその周りを否定し続けるものであり、なんら積極的なものを論じることができないという難点があった。そうした理論的限界に直面した70年代以降のデリダは、『ユリシーズ』をはじめとする具体的なテクスト読解に移行し、テクストの別文脈への接木可能性、エクリチュールの戯れを実践し、単一の欠如を介さない、あらゆる場所でズタズタになったコミュニケーションの可能性を追究したのだ。

 そして『動きすぎてはいけない』で論じられたドゥルーズは、精神分析家のフェリックス・ガタリと共に『アンチ・オイディプス』『千プラトー』を通じて、60年代までのラカンの単一の欠如を通じた欲望とは別の仕方で機能する、対象aの横滑りだけを追い続けるかたちの資本主義社会の欲望のあり方を提示した。そしてそうした批判に晒されたラカン自身もまたドゥルーズ+ガタリと類似した新しい欲望理論を提示しているというのだ。

 どういうことだろうか。それは『アンコール』と呼ばれる後期ラカンのセミネールで論じられた「女の享楽」についてだ。「女の享楽」と言っても、それは必ずしも生物学上の女性に限定されたものではない。それは既述のファルス享楽とは別の、つまり欠如を介さない享楽である。通常それまでの理論では対象aはペニスという欠如(謎の穴)に対しての現実的な埋め合わせに過ぎなかった。しかし「女の享楽」においてはそうではない、彼女は「対象a」という現実の肉体そのものを次々に愛するのだ。

 こうした形で、70年代以降の欲望は決定的に切断されてしまったかのように思われる。70年代以降のこうした欲望が齎したのは、もはや超越を必要としない横滑りだ。あらゆる欲望は肯定されるようになるのだ。

アウグスティヌスの回心

 しかしこうした2つの欲望の間の切断は決定的だったのだろうか。私にはそうは思われない。2つの欲望は欠如した対象Xの前で、それでもなお対象の欠如を否認して超越的なものを求め続けるか、あるいは欠如を引き受けて目の前の対象aを即物的に享受するか、その態度の違いでしかない。その差異を根本的なものとして受け入れるか否かの姿勢はともかくとしても、このアプローチは欲望に対するあまりに理知的な態度であるといわざるを得ない。

 というのはこうした理解はあくまでも、外部から見て欠如の存在を前提としているからである。実際には主体からでは、超越的な存在の有無はわからないからである。それをあるとする根拠が、足掛かりすら全くないものを、無いとして前提として議論するのはある程度理智的な態度と言っていいだろう。しかし主体にとってはそうではない。ここで問題となるのはやはり、体験である。

 やや唐突かもしれないが、アウグスティヌスの『告白』を見てみよう。なぜアウグスティヌスか?それは東氏によって否定神学として切り捨てら、ラカン自身も放棄した旧来的な欲望システムの中にいる哲学者の回心までの経験を通して、欲望についての新しい展望が見えてくるように思えるからだ。

 アウグスティヌスは4世紀の神学者で『神の国』や『三位一体論』など重要なテクストを残し、のちの西欧社会に色こく影響を残した西ローマ最大の教父だ。しかし、そんな彼も初めから敬虔なキリスト教徒だったわけではなかった。彼はもともとマニ教徒であったし、小さい頃には盗みも働いたし、妻帯もしていた。そんな彼がいかにしてキリスト教徒になったか、神に懺悔し告白する形で記した回心記こそ『告白』というテクストであった。

 若き日の哲学者を捕えたのは、なぜ人は悪きものを欲望してしまうのか、という問題だった。彼は盗みを犯したり、妻帯をしたり(彼の言葉だと「放蕩」したり)したわけだが、彼自身そのことに罪悪感を覚えてはいた。「これらは私が『本当に』欲したものではない。それでは一体私はこれらのものを通して、『本当は』何を欲していたのか」、これがアウグスティヌスの問いであった。これは善悪二つの原理の並立した世界観であるマニ教では説明がつかない。なぜなら彼は悪きものを求めて悪きことを成したのではなく、紛れもなく善きものを求めて、悪きことをなしてしまったのだから。

 こうしたアウグスティヌスの問いは、まさしくラカンの欲望システムに対する問いだ。諸々の欲望の対象aの彼方に、超越論的な欠如への純粋欲望を見てとったのだ。

 カルタゴという欲望の大鍋(サルタゴ)の中で、彼は矛盾を抱えながら生きていた。善きものを求めて、悪をなしながら。そして彼がこうした欲望の問題に答えを見出したのが、新プラトニズムの思想とキリスト教であったのだ。つまり我々は諸々の可滅的なものをそのものを善きものとして、偶像崇拝的に愛してしまっている。しかし真に愛すべきなのはそれらのものがそこから創造され、流出した当のもの、時間的にも空間的にも不変のものつまり神を通して愛さなければならなかったのだ。

 こうして曲がりなりにもキリスト教的思考に到達したわけだが、だがまだこの時点では彼は回心はしていなかった。決定的なものが欠けていたのである。詰まるところそれは召命体験である。どうしようもなく神を愛したいのにも関わらず、どうしようもなく肉を愛してしまうことに思い悩むアウグスティヌス。そんな時窓の外から、童の「とれ、よめ。」と歌う声が聞こえてくる。これを神の命令と解した彼は手元にあった聖世を開いた。そこにはこうあった。「行って、汝の有する全てのものを売り、貧者に施せ。さらば汝は天に宝を得るであろう。そして、来たり、われに従え」。こうしてアウグスティヌスは可変的なものへの愛を放棄し、神への愛の道へと歩み出したのである。

神を待ち望む

 アウグスティヌスは結局のところ、70年代の「大きな物語の終焉」という危機の中で批判された否定神学に過ぎないのではないか?もちろん端にそう捉えて切り捨てることもできるだろう。しかし彼の回心と否定神学との間には決定的な差異がある。

 それは何か?体験である。否定神学とはあくまで、否定に否定を重ね、残った言説不可能なものに超越性を与える、神学に対する理智的なアプローチに過ぎない。

 しかし体験は違う。そこには実存体験に基づく、積極的な打ち立てがある。アウグスティヌスの回心は、かの神秘的な召命体験無くしてはありえなかった。そしてアウグスティヌスの見出した神の姿は、決して欠如それ自体ではなかった。

 人間は全一者ではない。そうであれば、超越論的なものは語りえないというべきなのかもしれない。「神は死んだ」と言って、超越論的なものを否定して、元に手元にあるものを享楽しつつうまくやる道もあるかもしれない。しかしそれは私の体験が許さない。

 かの価値喪失体験はそれ自体同時に一つの権威となる。超越的な存在は決して、我々の眼前に開示されることはないだろう。私は純粋欲望を抱きながら、繰り返し権威の塔を打ち立てる。そして、きっと欠如へと直面し、その塔は最も容易く崩れ去ってしまうだろう。しかし去勢されてなお、私は叫ぶだろう。「私は不能ではない」と。崩壊体験を権威として、再び塔を打ち立てながら。

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