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イスラームの寛容さについて

 イスラームと聞くと、その暴力性がしばしば取り沙汰され、危険な宗教だというイメージが付きまとう。それは2001年に起きたアメリカ同時多発テロ以降のハンチントンの「文明の衝突」論に顕著に表れているところだろう。最近でもフランスで表現の自由を謳ってイスラームの使徒たるムハンマドのカリカチュアをツイッターに投稿した男性教諭がムスリムの青年によって刺殺された事件が記憶に新しいだろう。そしてこうしたイスラーム=危険というイメージは、キリスト教世界の「片手にコーラン、片手に剣」という言説にみられるようにずっと昔から存在している。

 そう考えると「イスラーム」と「寛容さ」という二つは結びつきがたいものだと思われるかもしれない。しかし本当にそうだろうか。たしかに9.11やいわゆる「イスラム国」のような過激派が存在していることは否めない。しかしだからと言って、イスラームの本質に暴力性を見るのはあまりに短絡的でありはしないか?実際に『クルアーン』(『コーラン』)を読んでみると、「片手にコーラン、片手に剣」という暴力によって改宗を迫るイスラームのイメージとは真逆の、ある種の寛容性が見て取れる。本稿では井筒俊彦訳の『コーラン』の文をみながら、イスラームに関するステレオタイプを排し、そのある種の寛容さを見ていきたい。

そもそも『クルアーン』とは何か

 イスラームについて確認する上では、『クルアーン』を見ていくことが一番確かで、手っ取り早いだろう。なぜなら『クルアーン』こそムスリムの生き方を規定するイスラームの原テクストだからだ。しかし「原テクスト」といういい方には若干ミスリーディングなところがある。本稿の目的とは少しずれるが、イスラームについて理解するうえで重要なので、ひとまず『クルアーン』とは何なのかについて見ていきたい。

 まず確認しておく必要があることは、『クルアーン』はテクストではない、ということだ。どういうことか。つまり『クルアーン』とは書物として編纂されたものというよりは、7世紀前半にアッラー(神)がムハンマドに断続的に下した114の啓示そのものである、ということである。ここには二つの含意がある。ひとつはこれが人間によって作り出されたものではないということである。たとえば第26章「詩人たち」では『クルアーン』が人の手によるものではなく神の言葉であることが強く主張されている。そしてもうひとつに『クルアーン』が朗誦されるその調べの麗しさが神の現れ(神兆)であるというふうに考えられているということだ。興味がある方にはこちらの『クルアーン』の朗誦をぜひ聞いていただきたい。これは人間業ではない麗しき調べであり、これ自体が神の存在を示しているのである。だからこそ『クルアーン』というとアラビア語のものであり、それが声に出して読まれてはじめて『クルアーン』なのである。(そういう意味で、翻訳されたテクストはその調べの麗しさを伝えきれず、あくまで『クルアーン』の解説書とされている)これはイスラームの理解のために極めて重要であるがひとまず置いておこう。

『クルアーン』の意味内容

 では『クルアーン』ではどのようなことがうたわれているのだろうか。その意味内容は相互に交わりあってはいるものの、大きく分けて三つである。一つはムスリムに対する生活一般の戒律である。有名なところで言えば女性が布をまとわなくてはならないとしたり、男性が髭を剃ってはならないとするタブーや、豚肉やアルコールを飲み食いしてはいけないというような食のタブーがあげられるだろう。『クルアーン』のなかではなぜそうした戒律が設けられているのかは説明されないが、全体を見てこれは感染症や食中毒、泥酔による乱闘などの危険を避けさせようとしているのではないかと指摘されている。またこうした戒律はキリスト教的に聖の場面だけを規定しているわけではなく、俗的な場面も含む生活全般の戒律である。つまりイスラームとは聖俗を分離しない、生き方の問題なのである。

 第二に『クルアーン』が『旧約聖書』『新約聖書』につづく啓示であるという主張である。実際に『クルアーン』の中では、『旧約聖書』や『新約聖書』の物語がおおく引かれており、アーダム(アダム)やイブラーヒム(アブラハム)、ヌース(ノア)、ムーサ―(モーセ)、ユースフ(ヨセフ)、イーサー(イエス)らに引き続く使徒として、ムハンマドを位置づけている。

 そして第三に、ユダヤ教やキリスト教も含んだ異教徒に対する批判である。この点がイスラームの寛容さを見ていく上で重要となってくるだろう。

異教徒への批判

 『クルアーン』の中では異教徒への批判がさまざまになされている。たとえば『旧約聖書』や『新約聖書』の物語を見ていく中で、人々が使徒たちの語る言葉を嘘であると断じて、神の裁きによって滅ぼされてきたことを語り、それに引き続く啓示を受けたムハンマドの言葉をどうして信じないのかという批判である。これはムスリムを除くすべての人々に対する批判であった。

 また偶像崇拝に対する批判も向けている。当時は偶像崇拝が盛んであり、今ではイスラームの聖地であるマッカ(メッカ)のカアバ神殿にもさまざまな偶像が供えられていた。しかし『出エジプト記』で神がムーサ―(モーセ)に偶像崇拝を禁じる十戒を下したのと同じように、イスラームでも偶像崇拝を禁じている。神は唯一アッラーのみであるのに、人の手でつくられた、損にも益にもならない偶像をあがめることなどあってはならないとしたのである。

  そしてキリスト教に対しては特に厳しい批判をなしている。7世紀にもなるとキリスト教勢力は地上を支配する絶大な権力をすでに有していた。その背景には、325年のニカイア公会議において神・天使・子(イエス)の三位一体論が正統とされたことがある。このようなイエス=神とする神秘的な教説は、神の世界と地上の世界を引き結ぶ重要な意義があった。(中期プラトンにおいて主張されたイデア論では、イデア界と現象界とにどのようなつながりがあるのかというのが問題とされた。こうした精神的な世界と地上の世界を結合する議論は哲学史上でもきわめて重要な問題だったのである)しかしながら、こうした神の受肉の議論は、イエスから指示を受けた教会が神を代理して地上を支配する権力構造に繋がってしまった。

 そこで『クルアーン』ではイーサー(イエス)が神であることを否定した。第19章「マルヤム」では次のように述べられている。

もともとアッラーにお子ができたりするわけがない。ああ、恐れ多い。何事でも、こうとお決めになったら、「在れ」と仰しゃるだけで、そうなるほどのお方ではないか。

こうしてイーサー(イエス)が神の子であることを否定したうえで、第21章「預言者」では、

汝より前に我らが遣した人々もみなただの人間で、それがただ啓示を受けただけのこと。

としてイーサー(イエス)が人間であることを主張する。このように人々を支配する権力構造を認めず、使徒も含めてすべての人間が神の御前では平等であるとするのがイスラームの協議なのである。

イスラームにおける神の審判の全体性

  このように『クルアーン』ではユダヤ教徒やキリスト教徒、多神教徒などに批判を加えているわけではあるが、ではなぜ「片手にコーラン、片手に剣」というような武力によって他宗教の人々に強制的に改宗を迫るイメージで語られてしまうのだろうか。それは『クルアーン』の中には、『ローマの信徒への手紙』において

ユダヤ人もギリシア人も皆、罪に支配されているのです。

いわれるような、信仰していようといまいと、あらゆる人々に神の審判を下るという全体性への志向が読み取ることができるためであろう。それは『クルアーン』のなかで繰り返し述べられてはいるが、例えば第67章「主権」では、

己が主を信仰しようとせぬ者どもにもジャハナムの罰を蒙らせよう

というふうに述べている。

また『クルアーン』の中では、アッラーを信仰しない者たちが敵対した場合には徹底的に戦うようにとの言葉もある。第4章「女」では

もし彼らが背を向けるようなら、つかまえて、どこでも手当たりしだい殺してしまうがよい。
彼らがあくまで退かず手を引いて和平を申し出て来ないようならば、つかまえて、どこでも手当たり次第に殺してしまうがよい。そのような徒に対しては、我らが汝らに(討伐の)歴々たる権能を与えてつかわすぞ。

といっている。

 おそらくはこのような全体性への志向と、敵対した者との闘いの奨励が、西洋世界がイスラーム世界に対して「片手にコーラン、片手に剣」というイメージを持つこととなった原因であろう。

イスラームの寛容さについて

 しかしながら仔細に『クルアーン』を検討してみると、そのようなイメージとは正反対に、イスラームには他の宗教に対してある種の寛容さがみられるのである。それはどういうことであろうか。たしかに既に見たようにイスラームは他宗教に対して多くの批判を加え、アッラーを信じなかったものには罰が下るというふうな全体性への志向が見られる。しかしそれはキリスト教における『ローマの信徒への手紙』のように他宗教の信者に対して改宗を迫る文脈で言われるものではないのである。

 もちろん間違いなく異教徒への警告としての意味は含まれてはいるが、第81章「巻きつける」に

お前がたのうち正しい道を歩みたいと願うものへの(お諭し)であるぞ。

とあるようにイスラームの人々への諭しとしての側面がより大きいだろう。『クルアーン』の中では異教徒たちは盲聾の徒として論じられている。例えば第7章「胸壁」では

あのような徒はいくら正道に呼んでやったとて、どうせ聞こえるわけもない。見るがいい、彼らはお前の方を眺めているが、あれで何にも見えはしない。

というふうに言われている。そうしてそのうえで、第109章「無信仰者」においては

お前らにはお前らの宗教、わしにはわしの宗教

というふうに言われているのである。こうしてみるとイスラームは他宗教に対して「片手にコーラン、片手に剣」というふうに改宗を押し迫るというよりは、異教徒はイスラームの教義を聞く耳を持たないためその信仰はひとまず認め、どちらが正しいかは審判の日にアッラーに任せるという、ある種の寛容さを持っているのである。

まとめ

 ここまでで見てきた通り『クルアーン』を実際に読んでみると、「片手にコーラン、片手に剣」というような暴力性はけしてイスラームの本質ではない。異教徒に対して暴力的手段に訴えるいわゆるイスラーム過激派は、裁きを神によってではなく自らの手で下そうとしているという意味では、本来的なイスラームからの逸脱といってもよいだろう。単に一部の事例から全体へのステレオタイプを強化するのではなく、わたしたちは今一度イスラーム世界を正面から見つめてみる必要があるのではなかろうか。

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