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その日は雪が降っていた。

4話


5限の終わりを告げるチャイムが鳴り、廊下が俄(にわか)に騒がしくなる。
目を擦らないように持っていたハンカチで覆っていた顔を上げて、あたしはすん、とひとつ鼻を啜って立ち上がる。
誰かに見つかる前にトイレに引っ込んで、人が引いてから職員室に行こう。
そう思ったのに。
「うおっ萩原、何してんの」
サブちゃん先生カチキレてたよ。(苗字が北島のちょっとキツい現国の女の先生である。演歌は好きではないらしい。)
そう言って、ひょこっと顔を出したのは早川で、あたしは深々とため息をついた。
「別に何もしてないし」
「いや明らかに泣いてんじゃん。情緒不安定じゃん」
「……だって、」
だって、と子供っぽい言い方までして言葉は出てこなかった。
2時間も泣いたのにまだ気持ちが定まらない。ただ惨めな気持ちで胸がいっぱいだった。
そのまま押し黙ったあたしを困ったように早川は見つめ、高い位置で結んだポニーテールを手遊びする。
そうして彼女はおもむろにあたしの頭にぽん、と軽く手を置いた。
「んー…もしかしてだけどさあ、」
言いかけて、ほんの少し気まずそうに早川は視線を逸らす。
唇を尖らせて、言いよどみ、覚悟を決めたようにあたしの顔を覗き込んだ。
「リップ。似合わない〜って悲しくなった?」
悲しい。その単語がするりと胸の内に落ちてくる感触だった。
目を丸くしたまま、何も言わないでうつむくと、早川はしゃがみ込んで、そっとあたしの肩を抱いてくれた。
普段大して仲良くつるんではいないので、その仕草はどこかぎこちなく、遠慮がちではあったけれど、優しかった。
「萩原ってさあ、あんまり女子トーク混ざらないし、群れない?ていうか避けるじゃん?
でもあたしがメイクしたらすぐ気づいて似合うって褒めてくれるから、もしかしてホントはしたいのかなーって思ってた」
そう言われてみると、確かにと気づく。
クラスで化粧をするのは早川が属しているグループだけで、よく担任や生活指導に怒られてはいたけれど、休憩時間や放課後に机の上に散らばる化粧品たちはどれもキラキラと眩しく見えた。
また滲んでくる涙を必死にこらえて、早川を見る。
いつもは軽口を叩きあう程度の相手が心配そうにあたしを見かえしてくる。
その顔がなんだかとても可笑しくて、あたしは気づいたらへらっと顔がゆるんでいた。
「…そうかも。」
「いや普通に似合ってたよ! 萩原もすればいいんだよ!」
早川が熱を込めて力説する。というか勢いあまって頭突きをされそうになった。落ち着け。
「…やー、今さら恥ずかしいし…」
「えーっなんで。どうせ大人になったらマナーとしてしなきゃなんでしょ? なら今からしたっていいじゃん」
うちの1番上のお姉が死ぬほどダルいって顔しながら顔面作ってる時に言ってたよ。
最後に至極どうでもいいが、多分数年後には自分も思うんだろうなというプチ情報にちょっと鼻で笑いそうになるのを堪えて、あたしはさっき一瞬だけ見た鏡の中の自分を思い出す。
赤やピンクなんて到底似合わないと思っていた。ましてや化粧なんて、うちの兄が聞けばいよいよ女装かと腹を抱えて笑うに違いない。
けれども先ほどの鏡の中の自分は、どこか不安そうで、けれども赤く紅潮した頬は確かに年頃の少女だった。
それからーーーどうしてだろうか。ふっ、とアンジュの少し困った、寂しい笑顔が脳裏を過った。
「ねえ早川…アンジュってもう帰ってた?」
そう聞くと、早川は一瞬おろ?みたいな顔のあと、何故か勝手にはいはいなるほどねえ、という顔になる。
なんだかさっきは絆されかけたが、こいつは割とノリで生きているタイプだった。なんかむかつく。
「吉良さんね! 笹部に呼ばれてたから職員室寄って帰るっぽいよ〜」
「今なんか思わなかった?ちょいムカつく顔してんな」
「いや、なんだかんだ萩原って世話焼くよね。今度から瀬那って呼ぶわ」
「別に構わんけど、ムカつくからやっぱダメ」
あたしの返しにケタケタ早川が笑って、あっそういえばとぽんと手を叩いた。
「笹部のウワサ知ってる?」
早川にしては珍しく声を細めて、辺りをちらっと見渡す。
ドアの向こうの廊下からは放課後の喧騒が遠く聞こえていた。
「知らんけど」
「なんかね…ちょっと瀬那気をつけたほうがいいかもよ。笹部の家にみんなで遊びに行った子が言ってたらしいけど、あの先生奥の部屋にいっぱい瀬那っぽい感じの人形飾ってたって」
あたしっぽいとは?と少し首を傾げる。すると早川はちょっともどかしそうに足をバタバタさせる。
しかし声を細めることは忘れずにそれにね、と続けた。
「瀬那は自覚ないかもだけど、瀬那って笹部のお気に入りだよ。授業中とかめっちゃ見られてるよ」
本当に気をつけなよ、と念押ししてから早川は部活へ向かった。
あたしは何となく嫌〜な気持ちになりつつも、鞄をとって職員室に向かう。
気をつけろと警告されたあとにその危険人物のところへ行かないといけないのはミステリー小説くらいのものだろう。
それにしたってあたしっぽい人形とはなんだろう。人形というなら、それこそアンジュのような子のことを人形と呼ぶのではないだろうか。
特にあの薄青色の瞳は色も相まってか、本当に硝子玉のようだ。
そんなことをつらつらと考えながら、職員室の引き戸に手を掛けた時、勝手にがららっと勢いよく開いた。
「うわっ」
「ん? ああ、萩原か。驚かせたな、悪い」
ごく近くから降ってきた声にあたしは人知れずぎくりとする。
ちょうど笹部とアンジュが出てきたところに出くわしたらしく、背後からアンジュがひょっこりと顔を見せ、あたしを見つけると嬉しそうににっこり微笑んだ。
「瀬那ちゃん! 一緒に帰りましょう?」
言葉と共に右手を掴まれる。いささか強引にあたしを方向転換させるアンジュに慌ててあたしは踏みとどまった。
「ちょっと…あたし笹部に話が、」
「ああ、5限腹壊してトイレにいたんだろう? 吉良から聞いたぞ」
北島先生には伝えておくからなー、と笹部はあっさり去っていって、あたしは身構えていた自分が少しアホらしくなる。
遠のく笹部を見送って、まだあたしの手を掴んで離さないアンジュをそっと振り返る。
彼女はあたしと目が合うと、にっこり嬉しそうに笑った。
薄青の硝子玉が、宝石みたいに輝くのを見た。
「一緒に帰りましょ、瀬那ちゃん」



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