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その日は雪が降っていた。

5話

蝉の声がやたらとうるさい帰り道。
あたしは何を話せばいいのか、何を話したかったのか、解らなくなって思考停止状態だった。
一緒に帰ろうと誘ったアンジュも特に何も喋ろうとはせず、にこにこの笑顔のまま、あたしの隣を歩いている。
繋がっていた手は校門を出ると同時にアンジュがそっと離した。
狭い田舎で今朝のことはとっくに校内中に知れ渡っているとは思ったけれど、アンジュのよく解らない気遣いにあたしは内心ほっとしてしまった。
陽射しが強くて、少し先の道には逃げ水がゆらゆらと揺らめいている。
米神からつぅ‥‥っと汗が一筋流れた時、アンジュの歩みが止まった。
釣られて立ち止まると、アンジュの視線は前ではなく、道端の自販機の方を向いていて、視線を辿るとそこにはラムネのみを販売する自販機が3台ほど連なって鎮座していた。
「なに見て‥‥ラムネ? 飲みたいの?」
何も言わないで、不思議そうな顔をして立ち止まっているアンジュにそっと尋ねてみる。
あたしの問いにアンジュはびっくりした顔でこちらを向いた。
「これ飲み物なの?」
「えっ」
アンジュの発言に思わず声が出た。あたしの驚いた顔を見た途端、アンジュも自分の応答のおかしさに気づいたのか、一瞬まごつく。
しかしそれは一瞬のことで、アンジュは穏やかな顔をして肩を竦めてみせた。
「過保護な家庭だったの。学校は母が送迎して‥‥こんな風に誰かと帰ったりするの初めてなの」
ふふっと微笑んで、ビスクドールがただの幼い女の子になる。
なんとなく、あたしはこの数時間で目の前の人形みたいな女の子が何かから逃げてきたことを察した。
ポケットを探ると、シンプルなベージュの財布が手に触れる。
あたしはそれを引っ張りだして、自販機に二本分の金額を入れて購入ボタンを押す。
ガタンガタン!とやたらに派手な音を立てて、二本のラムネが取り出し口に落ちた。
「あの、瀬那ちゃん?」
「‥‥今日、変な態度とったお詫び。飲みなよ」
キンキンに冷えて、汗をかいたラムネの瓶をアンジュにひとつ差し出すと、戸惑っていた表情がほんのりと嬉しそうに綻ぶ。
ぶっきらぼうなあたしの台詞がおかしかったのか、アンジュはくすくす声を立てて笑いながら、ラムネの瓶を受け取った。
「ありがとう、瀬那ちゃん」
アンジュはラムネ瓶の開け方すら知らなかった。
「ねえ、どうやって飲むの?」
栗色の巻き毛が首の動きに釣られて汗ばんだ首筋をなぞって揺れる。
その首筋は血が通っているのかと不安になるほど色がなかった。
あたしはなるべくそれを視界に映さないように目を伏せつつ、自分のラムネ瓶の飲み口のラベルを剥がす。
付属の部品を飲み口に押し込むとかこん!と軽い音をたてて、ビー玉が沈んだ。
ほいと無言で差し出すと、アンジュはおずおずと瓶を受け取り、あたしが一口飲むのを見てから、そっと飲み口に口をつけた。
薄い桜色の唇に、細かな炭酸が弾ける。
「ひゃ、」
そう小さな悲鳴をあげて、びっくりした顔であたしとラムネを交互に見る。
やがて少し照れたみたいな顔をして、ふふっと小さく笑った。
「なあに、これ。酸っぱい」
「‥‥何その感想。不味いの?」
あたしが不機嫌に訊ねると、ますます可笑しそうにくすくす笑って首を横に振る。
その仕草がなんだかやたらと人間臭く見えて、あたしは目を逸らして、また一口ラムネを喉へ流し込む。
「とっても美味しい。ありがとう、瀬那ちゃん」
とぼとぼと帰路を辿る。あたしとアンジュの間に言葉はなく、けれど不思議と居心地は悪くない。
そうしてふと、アンジュが持っていた真っ赤なリップを思い出す。
やたらと綺麗な彫刻の入ったケースだった。
アンジュの背中と同じ蓮の花の、そういえば構図もよく似ていたような気もする。
気づかれないようにそっと横目でアンジュを窺うと、ぱちっと大きな薄青色と目が合った。
驚いて少しまごつくと、アンジュの柳眉が困ったように下がった。
「私ね、人の視線に敏感なのよ」
この顔でしょう? と言って、繊細なティースプーンのような指先で自分の頬に触れた。
その言葉に納得し、同情する。人はとにかく、自分と違うものが嫌いだ。
大抵は無視すればいいものを、わざわざ貶めたり、傷つけたりして、面白おかしく過ごそうとしたりする輩ばかりいる。
ばっかみたいだ。あたしは内心で吐き捨てるように呟く。
そしてそんなばっかみたいな輩を馬鹿にしながら恐れているあたし自身も馬鹿みたいだった。
「‥‥背中のとリップケースのやつ、」
囁くように言えば、ああ、とアンジュは笑って頷く。
「リップケースはね、母から貰ったの。とっても小さい頃に。母は祖母から。
 祖母は彫り師の祖父にプレゼントしてもらったって」
もう随分前に亡くなったのだけどね、と首をすくめてみせる。
さすがに背中の刺青のことは話してくれないか、と思った時、アンジュは遠い目をして立ち止まった。
「‥‥‥背中の花はね、祖父の‥‥おじいさんの罪滅ぼしなの」
あとは、内緒、ね。
伏せられていた睫毛がふわ、と花が咲くように綻ぶ。
アンジュの見せたのその顔は、笑っているのにどこか泣いているように見えた。
「‥‥‥わかっ、た」
「ねえ、瀬那ちゃん。中のビー玉、とれないの?」
先程の表情とはうってかわって、アンジュは無邪気に笑ってラムネの瓶を揺らす。
カラカラカラ‥‥と綺麗な音をたてて、ビー玉が夏の陽射しを反射した。
「取れるやつもあるけど、基本割らないと無理かも。ガラスだし」
そう言うとアンジュはふむ、といった体でラムネ瓶を一瞥し、おもむろに残っていたラムネを一気に飲み始める。
上向いた顎の下で嚥下する度に、真っ白な喉仏がごくりと上下する。
それがやたらと艶めかしく見えてしまって、けれどあたしはその一点から目を離せずにいると、飲み終えたアンジュがニコッと笑った。
なんだか悪い顔である。あたしは夏の暑さだけではごまかせない顔の赤さを隠そうと口元を手で隠す。
次の瞬間、パリン、と何とも軽い何かの割れる音がした。
「なっ、あんたどこで割ってんの!」
「だって欲しいんだもの。買い食いはおじいさん怒るの。バレるじゃない」
思わず怒鳴ると、ケロッとした顔でにこやかに言い放つアンジュに呆れた。
細い指先でビー玉を拾おうとするアンジュを止めて拾ってやる。
アンジュと同じ薄青色のそれは、夏の陽射しを反射し、キラキラと輝いて見えた。
「綺麗ね、素敵」
手渡されたそれをまるで宝石か何かのように大切に推し抱くアンジュを見て、あたしは気づくとラムネ瓶を手放していた。


パリン。


「瀬那ちゃん?」
「‥‥手が、すべった」


ひび割れたアスファルトの上に割れたラムネ瓶がふたつ並ぶ。
粉々になった硝子片の中からビー玉を拾い上げて、ぽかんとこちらを見ていたアンジュに押し付けた。た。
「‥‥ふふっ、なあに瀬那ちゃん。かわいいのね」
「うるさい、調子乗んな」
押し付けられたビー玉をまじまじと見つめたあと、可笑しそうにアンジュが笑う。
あたしは気恥ずかしくてたまらず、アンジュのやたらと細い足を軽く蹴飛ばしておいた。
アンジュの手のひらでビー玉がきらきら光る。
それを幸せそうに見つめる彼女が、あたしにはどうしようもなく美しく見えた。
その時だった。
「アンジュ」
低い、穏やかな声がアンジュを呼んだ。
アンジュの顔が微かに曇る。声をした方をみると、この暑いのに長袖シャツを着て、がっしりとした体格の大柄な男性がアンジュを厳しい顔で見つめていた。
「おじいさん」
「友達が出来たのか」
少し意外そうに彼女の祖父は片眉をあげた。アンジュはふふっと声を立てて、祖父の手を躊躇いなくとる。
その様子はまるで幼い子供が母親にまとわりつくようで、あたし達の歳頃にしては幼い行動だった。
「ええ、瀬那ちゃんよ。綺麗な子でしょう?」
「‥‥そうだな」
「あの‥‥初めまして。萩原瀬那です」
アンジュに紹介されて、ひとまず頭を下げる。
アンジュの祖父は厳しかった表情を少し和らげて、ひとつ頷く。
「吉良 馨(かおる)だ。うちはすぐそこだから、またおいで」
そう言って彼はアンジュの手を引いて、あたしに背を向ける。
アンジュはあたしを振り返って、口パクで「またね」と囁いて手を振って去っていった。
1人残されたあたしは遠のいていくふたつの背中をぼんやりと見つめる。
過保護な家庭だったというアンジュ。
それは今も変わらないのだろうか、しかし彼女の祖父を見て思ったのはただただ孫可愛さだけではないような気がした。
生温い夏の湿った風が頬を撫でた。なんとなく、胸がざわつく。
「帰ろ‥‥」
夏休みまでは、あと1週間。


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