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その日は雪が降っていた。

8話 ※暴行シーンがあります。軽いものですが注意


7時半を周り、もうすぐ花火が上がる時刻が近づいてきた。
周囲も賑やかさがピークを迎えており、半ば押し流されるようにして道を進む。
そんな中、なんだかんだと屋台を周り、お面やらヨーヨーやらですっかりThe祭りを楽しんでます!という風貌になった早川が不意に立ち止まった。
「早川? どした?」
「‥‥あら、もしかして靴擦れかしら」
アンジュがあらあら、と言いながら、早川の足元にかがみ込む。
「我慢してたけどもう無理痛い~」
半泣きで呻く早川は格好も相まって、もはや5歳児である。
アンジュの背後からあたしも覗いてみると、まあまあ酷い状態の爪先が見えて思わず眉をひそめた。
「あたし、スリッパ持ってきたの。貸してあげる」
アンジュがそう言って、手に持っていた籠から折りたたみスリッパが現れる。
あたしと早川は予想外のものが現れて、思わず固まってしまう。
絆創膏が出てくると思いきや、スリッパ。どういうことだろうか、というか用意が良すぎて逆に理解が追いつかない。
『‥‥‥‥』
多分早川も同じ思考なのだろう。何も言わないで固まっているのは珍しい。
固まるあたしたちにアンジュはあら?と心底不思議そうな顔をした。不思議なのはあたしたちの方である。
「靴下も一応あるわ。‥‥待ってなんでそんな顔をするのよ。何か言ってちょうだい早川さん」
「吉良さんって本当に変わってるよね、ありがとう」
「個性的と言ってちょうだいな」
スリッパを受け取って、いそいそと履く早川にアンジュはしれっと言い放つ。
道の端に寄って、草履からスリッパに履き替えた途端に早川はまるで水を得た魚のように元気になった。あれだけブーブー文句を言っておいて、現金な奴である。
「ねえねえ! もうすぐ花火の時間だけど瀬那と吉良さんは門限とか大丈夫? 見て帰れそう?」
「あたしは別に大丈夫だけど、アンジュは?」
「9時に祖父が迎えに来るから、それまでは平気よ」
アンジュがにっこり微笑んだ拍子に頬へ後れ毛がかかる。それをティースプーンのように美しい指先が掬い取る様がやたらと絵になる。
というか周囲の目線がやたらと気になる。声をかけられたのも多かった。(早川が未成年なので行きませーんと全力で騒いだため、相手が逃げた。良い奴である。)
同じ15歳の子供のはずなのに、これでは確かに過保護になるのは当たり前だと思った。
「吉良さんのおじいちゃんってめっちゃダンディそうだよね! 誰に似てる? 渡辺謙とか?」
瀬那は会ったんでしょ? と問いかけられてあたしは思わず顎に手をやって考えるポーズになった。
確かにダンディと言われれば、ダンディではあったけれど、どちらかと言えば紳士というよりは、武士っぽいイメージである。
「なんか誰に似てるって言われても思いつかないかも。雰囲気はあるよね」
アンジュに問いかけると、彼女は不思議そうな顔でこちらを見返してくる。
家にいる時よりも、今の方がリラックスして見えるのは何故だろうか。
「そうなのかしら? あたし、よく解らないわ」
でも、すごく優しいのは本当よ。
そう言って嬉しそうに頬を緩めるアンジュは年相応の少女に見えた。
不意にひゅー、と音がした。
パンッ‥‥という轟音と共に赤やオレンジの光が夜空へ散っていく。
「花火始まったね!」
嬉しそうに早川がはしゃいだ声を上げた。
次々と夜空へ昇っていく花火を見上げながら、アンジュも嬉しそうににこにこ笑っている。
この数時間で色んなアンジュの表情を見た気がする。
なんだか胸の奥がぎゅっとして、足元がふわふわしていた。
現実感が、消えていく。
「ねえ、アンジューーー」
何かを口にしようとした時だった。ぱしゃ、という水の跳ねる音がしたと思ったら、胸元に強いアルコールの匂いが漂ってきた。
「えっ」
「やだ、瀬那大丈夫?! 最低、誰よビール投げたの!!」
ビールをかけられたと気づいたのは、早川の咎めるような声を聞いてからだった。
濃い緑の浴衣の胸元は濡れてますます濃い色に変わっていてーーーそこであたしは、この浴衣がアンジュのお祖母さんの形見であることに気がついた。
「あ‥‥アンジュごめ、これ大事なものなの、に」
「いいのよ、クリーニング出せば済むもの。それより瀬那ちゃんこれ使って」
巾着からハンカチを取りだして、アンジュはあたしの肌に触れないようにしながら、ビールをそっと拭いてくれる。
しかしアルコールの匂いまではとれず、ビールがかかった場所はベタついて気持ち悪い。
「あたし、トイレで少し洗ってくるよ。 ‥‥アンジュ、本当にごめんね」
「いいのよ、気にしないでね」
「なんかあったら火事だーって叫んでねー」
にっこり笑うアンジュと少し心配そうな早川に見送られて、あたしはすぐ近くのトイレへと走った。
神社の境内の片隅にあるトイレは薄暗く、祭り会場から少し離れているせいか、とても静かだった。
花火が上がる度にぱっ‥と周囲は明るくなるが、数秒のことで遠くで聴こえるお囃子が少し怖い。
あたしは外の手洗い場にしゃがみこむと、浴衣の合わせをゆるめ、アンジュの貸してくれたハンカチでベタつく胸元を拭い、アルコールの含んだ浴衣を申し訳程度に染み抜きする。
とんとん、と地道に染み抜きしながら過ぎるのは、人様に迷惑をかけるなが信条の母のことである。
帰宅したら、とんでもない雷が落ちるであろうと、想像するだけで溜息も出たし、実際落ち込む。
「アンジュのなのに‥‥」
身の丈に合わないものを着てしまって、バチが当たったのかもしれなかった。
きっとそう言えば、アンジュはまた綺麗な顔をプンスカさせて「あなたは、綺麗よ」というのかもしれないーーと、何故かそこまで考えてしまったあたしは1人であわあわしてしまった。
その時だった。
ふっ‥‥と頭上に影がよぎった。
「むぐっ‥‥」
えっ、と思うよりも前に口を手で塞がれる。
湿った生暖かい掌は大きく、明らかに男性のもので、振り返ろうと暴れてもびくともしない。
そのまま壁に押し付けられて、流しっぱなしの水が身体を濡らした。
「むーーーっ!むぅう〜ー〜!」
コンクリートの壁が頬にめり込んで痛い。
何より怖い。花火が上がる音で、誰にもあたしの声なんか届かない。
大きな手が浴衣の胸元をグイッと引っ張って、肌着があらわになる。
相手が興奮して、息がどんどん荒くなるのがわかった。
そうして首筋に生暖かく、ぬるりとしたものが這ったのが解った。ーーーもう無理だ、と思った。
生理的嫌悪で涙がこぼれた。ぎゅっと固く目をつぶった時だった。
「誰か!火事よ!!!」
鈴の鳴るような細い声が、悲鳴のように響いた。
「すみません!誰か!警察を呼んで!誰か!」
ちょうど近くにいたのだろうか、アンジュの声の後に男の人の声が聞こえた。
あたしに覆いかぶさっていたものは、アンジュの声がしたと同時にバタバタと慌ただしく逃げていった。
呆然とへたりこんだままのあたしをアンジュと、消防団の服を着た、ああ嫌だ、兄貴じゃんか。
そんな悪態をつく余裕もなかった。
「瀬那!」
「瀬那ちゃん」
駆け寄ってきた兄が羽織っていた消防団のジャケットをあたしに掛けてそのまま包みこむ。
「もう大丈夫だぞ! 今警察が来るから、そのままでいろ、な! 母さんもすぐ来るぞ!」
兄の声が遠く聞こえる。先程の生暖かく気持ち悪い手のひらじゃない、筋張った手があたしの背中を支えてくる。
大丈夫だよ、と言ってあげたかった。
心配しないで、間に合ったから、セーフだったから、大丈夫だから。
そう、声を上げて言ってあげたかった。
でも声が出ない。身体も、動かない。
辛うじて、目線だけは動かせて、アンジュのいる方を見る。
アンジュは心配そうにあたしを見つめ、そうして何も言わずに、自分が濡れることも厭わずに、あたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
「瀬那ちゃん。大丈夫、もう大丈夫だわ。あたしがあなたを守るわ。だから大丈夫なのよ」
あたしをその華奢な身体からは想像がつかないほど強い力で抱きしめて、何度も大丈夫と繰り返しアンジュは囁いた。
その手は何故か震えていて、アンジュも怖かったのだと思い知る。
その瞬間、フッと全身から力が抜けて、今度は栓が壊れたかのようにボロボロと涙が溢れた。
「‥‥こ、怖かったぁあ‥‥」
「もう大丈夫よ。あたしが守るわ、瀬那ちゃん」
瀬那ちゃん、と優しく名前を呼ばれる。
それだけで安心した。わあわあ泣き始めたあたしをアンジュはずっと優しく抱きしめていた。
あたしはこの時、気づくべきだった。
どうしてアンジュが、何度も守ると言ったのか。
本当に、気づくべきだったのだ。





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