閲覧注意

ぼくが彼女に感じた怒りと、愛の話。

年末年始にかけて遊びにくる予定だった彼女が、とつぜん「やっぱり行かない」と言ってきた。がっかりして、それから怒りが湧き上がる。と同時に、自分ではどうすることもできない切なさと、さみしさを感じた。

一度に多くの感情のスコールを浴びたぼくは、身体が重く、だるくなってしまった。こころの調子は朝からあまり良くなかったが、絶不調という感じでもなかった。しかし、こう雨に打たれては、そこから這い上がる気力など、もはやありはしない。

こころの調子が悪く、風邪も長引いているなか、なんとか机に向かったのだが、いまはもう布団のうえに横たわっている。

あとに書いて批判が殺到するのが嫌なので、先に書いてしまうが、彼女が遊びに「来る」予定だったのだ。ぼくが行くのではない。

ぼくはひきこもりで、っと、もちろんそんなことが言い訳になるとは思っていないが、ひとりで外に出るのが困難であることは事実だ。二十六にもなり、ひとりで電車やバスに乗ったことさえない。

だから、我々が会うといえば、それはいつもきまって彼女が「来て」くれる。世間的には、男が女のもとへ行くのが筋だろうという意見があるらしい。しかし、それは我々には当たらない。

ぼくはいつも近所のバス停まで彼女を迎えに行くが、これも、ぼく自身の感覚としては「けっこう頑張っている」のだ。

ブログからの収益が少しあるばかりで、ろくに働いてもいないぼくは、当然のごとくお金を持っていないので、彼女が遊びに来てくれても、その長旅の疲れを取ってあげられるようなおもてなしをすることもままならない。

そんな人間のために、電車とバスに四時間もゆられてはるばる遊びに来てくれるのだから、ぼくは彼女にこころを込めて感謝をしなければならないと、つくづく思う。

しかし、予定していたものを突然に「やっぱやめる」と言われてしまうことは、なんとも憎らしく、言われたほうは滑稽じゃないか。

肩透かしを食らった気分になり、落胆し、それから裏切られたという怒りと、切なさと、さみしさを感じることくらい、ぼくにも許してほしい。

彼女はきのう、母親と一緒に東京へ出てきたらしい。くわしい動静はプライベートなことなのでここでは語らないが、少なくともきのうの晩に電話をしたときには、彼女は「まあまあ楽しかった」と言っていた。

ぼくと同じように、彼女もあまり雑踏を好まない。しかし彼女は「好まない」というだけで、きのうの東京小旅行しかり、どこかへ行きたいと思えば、そこへ出向く人間だ。

根本からして「そもそも外に出たくない」と言っているぼくとは、やっぱり違う。

きょうになり、前日の小旅行による疲れが遅れて出てきたのだろう。彼女は「きのうはしんどかった。だから年末年始もきっとしんどいだろう」という気持ちになってしまったようなのだ。

こうして、ぼくのスマホに「やっぱり行かない」というメッセージが送られてくる運びとなった。

ぼくは彼女のことをよく知っている(と勘違いしているだけかもしれないが)ので、やっぱり行かないというメッセージを見て、ひとしきり感情のスコールを浴びたあと、気になっていたことを指摘した。

それは「いまの気分に流されていやしないか?」ということだ。

彼女には、ぼくと同じように「うつの虫」が付いている。その虫は非常に厄介だ。知らぬ間にひとにとりつき、いつの間にか、そのひとをコントロールする権限を奪ってしまう。

うつの虫に主導権をにぎられると、ひとは「自分の思考は自分がコントロールしている」と思い込んだまま、皆一様に「ある方向」へと歩き出す。それがうつ病だ。

冬は「うつ」が助長されるものだし、小旅行をした結果として彼女のこころがぐっと疲れてしまったというのも、うなずける。

ただ、ぼくが言いたいのは「いまの気持ちに流されて決断してしまうのはどうなのかしら?」ということだけだ。

彼女の心中を察し、心配でもんもんとしていると、電話をしようとのメッセージが。正午ごろまでグーグル・ハングアウトをつかったテレビ電話をした。

言いたいことは言ったつもりだが、ちゃんと伝わったかは、分からないなあ。ぼく自身にも口を酸っぱくして言いたい。

自分で気づくしかないのだ、と。

知ったふうな口ぶりだが、ぼく自身、自分の外のことには敏感すぎるほどに敏感で、彼女や母には「どうしてそんなことに気がつくの?」と驚かれてしまうこともある。

おそらく、自分の外にあるものすべてを、ぼくが恐れているからだろう。恐れ、怯えているからこそ、ふつうは気がつかないようなことに気がつく。恐怖によりかえって鋭くなる、草食動物的感性だ。

でも、自分のなかにあるものについては、盲目とは言わないが、見えなくなってしまうこともある。

ぼくも、自分で気づくしかないのだ。

くしくも、今回の出来事でぼくが気づき、再確認したことは、彼女の身に何かが起こると、ぼくはそれを自分のことのように心配し、考えてしまうということだ。

これは反射的な思考、自動的な思考なのであって、自分ではどうすることもできない。ひょっとすると、それが「ひとを愛する」ということなのかもしれない。


Twitter:黒井@ガチひきこもりブロガー
ブログ:たのぶろ
お供え:黒井の欲しいものリスト


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?