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「生きる意味」についての誤謬

僕は近場の喫茶店で毎週開催される哲学カフェに、たまーに顔を出す リアルで開催される哲学カフェなんていうものは、だいたい常連でコミュニティが出来上がっていて、僕が参加しているものも例に漏れず なかでも必ずと言っていいほど会うのが、スノッブ趣味のオーラの漂う、カミュやショーペンハウアーを偏愛する読書家の彼である 彼がいつものシニカルな口ぶりで「生きる意味なんてものは存在しない。なぜなら…」と続けるのを聞く 毎度似たような話をしているようで、他の参加者のなかにはウンザリして

    • 言葉について

      言葉というものについて自分はずっと思うところがある 言葉はどれだけ文脈を記述し表現する努力を尽くそうとも、言葉が表現しようとした原イメージ、すなわち無数の文脈のもとにその瞬間に湧き起こったあるイメージというひとつの現象に対して、限定的かつ「ある観点から」の説明をするに過ぎない ある瞬間、またある瞬間と「あなた」が体験する感情やそこから湧き上がるイメージには、 あなたが居合わせる相手、あなたの今の気分、幼少期の親や兄弟との関係性、これまで出会ってきた人たちとの間のできごと

      • 自分はなぜ卒業論文を書けなかったのか

        自分は社会学系の学部に所属していたが、「社会調査」というものに、拭いきれない違和感を覚え続けていた。 たしかに、データを使って過去の学説や素朴理論を批判し、そのものの見方を覆したり部分的に訂正し、それが「知識」として流通することで臆見の皮が1枚ずつ剥がれていくというのは言うまでもなく重要であるし、それは社会学の重要な役割であって、ある視点→批判→ある視点→批判…と漸近していくという意味で真理探究の営みをしていると言って差し支えないものだろうと思う。 当たり前だけれど一度の

        • 分析はやめました

          大学卒業して早1年近く、過去記事に続く近況というか最近の頭の中の概要をサラリと綴っておく いろんな枠組みを使って「分析」することは大事なことである 自分の素朴な視点とは異なる視点から、「この現象はなぜ起きているのか」「なぜ自分(又はアイツ)はこう思う/感じるのか」「自分(又はアイツ)は何者なのか」などと言った疑問への回答を与えてくれるからこそ、心理的に安心できたり、そこを足がかりに「じゃあ、どうするか」と考えることができたりする ただ、「分析」とは言葉より前にある未決定

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          ギデンズの嗜癖論に思うこと

          アンソニー・ギデンズはイギリスかどこかの国の大物社会学者です 自分の卒業論文は「依存症」について、もとい最近の専門用語で言うところの「嗜癖」「アディクション」について、病気やら犯罪やらの色眼鏡を外してみたときに如何にそれが広範に当てはまりうるものなのか、その前提に立てばなぜ一部の人だけが社会的に「依存症」の人だとされるのか、ということについて、ギデンズの嗜癖論を援用して書きました。 当時は卒業「論文」という縛りや時間的制約があり、思っていたことは当然フルに自由には書けなか

          ギデンズの嗜癖論に思うこと

          相対主義につける薬

          10代の頃の3分の1くらいか、自分は他人が怖くて仕方がなく、部屋に引きこもっていた時期があった。 リアルな状況で何かを経験して理解することからも、他人から直接自分に向けられた話を聞くことからも永らく離れており、頭だけで理解した気になることに慣れた後遺症か今でも「何の意味があるのか」よく分からなくなってうつろになってしまうことがある。 他人がやっていることも自分がやっていることも、そこに何らかの意味は見出されているのだけれど、そんなものはいくらでも疑いようのあるものであって

          相対主義につける薬

          『空洞です』はスゴい

          自分は主に「現実感のない」音楽が好きです 個人的なイメージの話なんですが、サウンドだったり歌詞の世界観が脱社会的というか現実とちょっと別位相にあるようなものだったり(嘘つきバービー、Ruins(吉田達也)とか、ちょっとベクトル違うけどミドリ) リフ中心で、聴いていると没入感があって、ちょっと現実からひっぺがされる感じの60s〜70sのいわゆるサイケデリック・ロック(13th floor elevators、Fifty Foot Hose、ジミヘン、The Freak Sc

          『空洞です』はスゴい

          明日目が覚めたら、10年前に戻っていてくれ

          とたまに思います、寝る前に 中学校で1年間、高校を半年で辞めて2年間くらい引きこもっていた間は、時間だけは無限にありました 別に学校に行く必要はないけども、何か楽しいことをしておけば良かったなぁと悔いが残っています 病気もあったからかもしれませんが、自分の場合は引きこもっていた時期の記憶というのは、ほとんどボヤけていて思い出せません 焦燥感の中、自己治療的にインターネットサーフィンを延々と繰り返していた感覚だけは残っていますが、見ていたアニメも、遊んでいたゲームも、読

          明日目が覚めたら、10年前に戻っていてくれ

          社会学という思想

          この春で大学(社会学科)を卒業しました 3年くらい半端に社会学をやってきたけれど、自分は遅筆も遅筆だった 大学の紀要で論文の一部を書かせてもらったときも、コラムを書く機会をもらった時にも、卒業論文にしても なんなら昔やっていたブログやら今こうして書いているnoteの記事も、自分は遅筆が過ぎる それが嫌なあまり興味があるのに断ったり書けなかったりということもあった 記述している内容が正確なものなのかというところに、哲学的なところまで執着する良くない癖が出ていた 例え

          社会学という思想

          「上方排除」について

          「上方排除」という社会学のことばについて、度々日常生活で思い出すことがある 確かこの本 誰かが誰かを権力者だとみなして振る舞うことで、「権力者」にされている人は、否が応でも「権力者」として見られてしまうという現象である たとえば、ひとりの人間として怒ったり意見をしたつもりでも被害的に捉えられてしまったり、関係性の中にパワーゲームを持ち込まれることで、権力者として過剰に美化されたり、命令のように話を聞かれたり、その場で反論をもらえなくなったりして、水平関係で話したくてもも

          「上方排除」について