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言葉について

言葉というものについて自分はずっと思うところがある

言葉はどれだけ文脈を記述し表現する努力を尽くそうとも、言葉が表現しようとした原イメージ、すなわち無数の文脈のもとにその瞬間に湧き起こったあるイメージというひとつの現象に対して、限定的かつ「ある観点から」の説明をするに過ぎない

ある瞬間、またある瞬間と「あなた」が体験する感情やそこから湧き上がるイメージには、

あなたが居合わせる相手、あなたの今の気分、幼少期の親や兄弟との関係性、これまで出会ってきた人たちとの間のできごと、その瞬間に至るまでにあなたが過ごしてきた今日、あなたが所属している集団の文化とあなたの関係性、あなたが暮らす共同体の社会構造、あなたの生得的な感覚のクセ、保持している記憶、あなたは知らないが他の人は知っていること、他の人は知らないがあなたは知っていること、あなたがこれまで経験してきたこと、言表できないスピリチュアルな領域…

列挙しきることが不可能なほどに、いまとなっては不可知となってしまったであろう領域に至るまで、無数の文脈が張り巡らされている

そしてそれらのバックグラウンドにも同じように、それぞれ時間的・空間的なコンテクストを持っている

つまり、原理的に「似た感覚」はあっても「同じ感覚」はありえないのである

しかし誰かと会話をしているとき、またある本に記述された内容などに対する「共感」

これは「同じ感覚」が共有されることではないのだろうか

この点に関しては、自分は次のように説明できると思う

誰かと複数のコンテクストが相似する、ある瞬間に体験する似たような感覚や湧き上がるイメージは存在するために「共感」は可能であるが、それは同じものを感じているわけではない

ある瞬間、またある瞬間の「感覚」は没文脈的に存在することはできず、同一視されるような体験や感覚は、言葉によって没文脈的に、自他の境界が曖昧にされるのである

クオリアの問題がもしも実証を伴って科学的に明らかになることがあれば、手のひらを目にもとまらぬ速さで裏返し、考えを改めるだろうけれど、多分自分が生きている間は、自分はこのように考え続けるのではないかと思う

いかなる感覚も体験も、そこに存在する微小な差異を見極めればその人に固有のものであることがはっきりとしてくる

それは共感可能なレベルに相似した感覚同士にも「まったく関係がない」という解釈を与えることさえできるほどに、異なっている

この前提に立って、「一般化」という営みについて考えてみる

たとえば社会調査における質的調査ならば数件、または数十件の研究対象についてのインタビューから通有点を見出して一般化し、結論を出す

統計・量的調査ならば、質的調査よりも追える文脈の数は限定されるけれど数百件、数千件はくだらない数の質問紙調査やアンケート、データを元にした一般化→結論が可能だろう

また、個人が経験則から一般化して「〇〇は〇〇である」という命題を信念体系のなかにもつことはしばしばある

いずれも、「似たような感覚の間にも固有性があること」を前提とすれば、研究者の自己投影や他者化、文字と対面させて聞き出すだけの没文脈的な感覚のデータ収集…と、「似たような感覚」同士の差異はまるで有耶無耶にするように無視されて結論に辿り着くことになるのである

大学卒業時に書いた記事にも同じようなことを書いた気がするが、一般化によって生成される「知識」は、どの一般化が最もらしいかのパワーゲームに過ぎず、素朴理論よりもそれが科学的手法に則っているというだけで、現象が運動であることや感覚の固有性を無視しなければ成り立たないのだから、客観的真理のようなものとは何ら関係がないのである

どうでもいいけれど畢竟自分が関心を寄せていたのは、『「いま、ここで何が起きているのか」ということを理解しきったり記述しきること自体難しいのに、なぜアカデミズムはでかい顔をして現象についてつらつらと記述して「客観的知識」とやらを提示するのか』ということだった

一般化という営みがどこかに孕んでいる不誠実さ、客観的さを謳うのにどこか曖昧にしている部分が気になって気になって仕方がなかった

また、言葉の扱い方について考えてみる

自分が生きてきて、今も所属している「社会」は「似たような感覚」の差異の方よりも、相似を大事にしているというか、一旦目の前の相手と「似たような感覚」だと気付けば差異のことなど歯牙にも掛けないだろう

実際そうして人は親近感をおぼえたり、友達になったり、愛情をもったり、連帯して大きな力になったりできるし、わざわざその雰囲気を醒めさせるようなことは言わない方がいいと思うし、自分だってしばしば戦略的にそのようにするけれど、どこか醒めていないと時間が経ってゆくうちに愛も友情も連帯もおかしくなる

直ちにおかしくならないとしても、価値判断を留保しておくことにした上で、それはどこかに誤りを含んでいるのである

言葉は境界線を曖昧にして経験と経験とをつなげてくれるけれど、つなげてしまうのである

とくに、無批判に「知識」から演繹したり他人の言葉に自己を回収させることは自分で自分のことを偽装していくようなものであって、「あなた」は常に、とてもよく似ているとしても「既にあるもの」ではないと思う

自分の感覚や体験を説明したり表現したり出力するということは、「知識」から演繹するということではない、反復可能なものではない、散々曖昧にされてきてしまった無限の差異に目を凝らしてチューニングしていくことであって、本質的に独白以外の形式を取ることはできないはずなのだ

在学中は医療化・犯罪化をとっぱらったときの「アディクション」の概念についての研究をしていた

そこに繋げるとするならば、先にも述べた通り誰でも言葉の手前に無数のコンテクスト、もしかしたらコンテクストも超越する「なにか」による宇宙が広がっていて、どんなに親しくともほかの人がいるのは別の銀河で、そういう圧倒的な孤独のなかで正気でいられることがおそらく醒めているということなのだろうと思う

だから自分は、みんな基本的には、他人の宇宙とわたしの宇宙がこんがらがって、何と関係があって何と関係ないかを最早自分決められなくなった狂気のなかを暮らしていると思うのである

電車のなかで暇だったので推敲もせずバーっと勢いで書いたため、筋が見えない話になっているかもしれないけれど、自分はこういう風に考えているし、この「知識」に対する自分の信仰はそれなりに固い

まとめると多分、言葉よりもそれによって出力せんとする象徴の精査が重要だけれど、言葉はしばしばそれに水を差して、安心感と引き換えに身体感覚を反復させ続けるということである 

そして誰もわざわざ言表とその手前の不一致を疑うことに時間を使わないし、それによる葛藤やイザコザを回避するから構築される現実もそのようになり、そんな社会から産出される知識も、そのような暗黙の前提を再帰的に強化するという構造を取っているんじゃないかなと

そう思うから自分だけでも逃げ切りたいし、まだ草の根から破壊される余地はあると思うけど、その多くは少なくとも「真っ当なアカデミズム」の中で達成されるものではないだろうと思う

そういうことです

3000字まであと少しなので、文字数稼ぎをしておきたいと思います 

3000字になりました

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