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自分はなぜ卒業論文を書けなかったのか

自分は社会学系の学部に所属していたが、「社会調査」というものに、拭いきれない違和感を覚え続けていた。

たしかに、データを使って過去の学説や素朴理論を批判し、そのものの見方を覆したり部分的に訂正し、それが「知識」として流通することで臆見の皮が1枚ずつ剥がれていくというのは言うまでもなく重要であるし、それは社会学の重要な役割であって、ある視点→批判→ある視点→批判…と漸近していくという意味で真理探究の営みをしていると言って差し支えないものだろうと思う。

当たり前だけれど一度の研究ですべてが明らかにされたり、普遍的な「正解」が生まれたり、「完璧」な手法で極めて客観的で抜け目のない研究がなされることなどないことは分かっている。

でも、専門性(アカデミズム)という権威を帯びて日夜「知識」が産出されるその過程自体が意図せざる結果としてもたらしうるものが恐ろしくて、自分は「社会調査」ができなかった。

(結局、ある理論が既に援用されている形よりもずっと敷衍可能なものなのではないか、というようなことを突散らかして書き殴ったものでなんとか卒業したが、これでさえ遅筆を極め、「書く」ということが嫌だった。)

まず、「社会調査」は先述の通り常識や思い込み、過去の理論に待ったをかけたり、反証をして余白を作ることはできるけれど、「客観的現実」なるものを明らかにすることはできない。

例えば量的調査(アンケートや統計をデータとして扱い、それを分析する手法)において、

アンケート調査であれば同じ質問紙のテクストに触れても、そこから受け取るものは人それぞれ異なるし、ある人がクオリアを数値化した「6」という数字は、他の人の「6」とは異なるし、気を遣ってくれる人であればわざわざ自分をテクストに寄せてくれるということもあるだろう。

統計であれば事象の個別性はあるカテゴリーや言葉によって断片化され、ある部分は捨象されて分析されてしまうだろうし、そこに現れた数字以上のものを語ることができるものなのだろうかと思う。

じゃあ、質的調査(インタビューや会話の分析や、研究者自分自身の分析等)はどうなのか。

サンプルは少なくなるけれど、個別の出来事をディテールまで眺めることで、よりミクロな分析ができるので、量的調査とは別の切り口で一般化したり抽象化可能な理論を作ることができるかもしれない。

でも、先験的なカテゴリーや理論枠組みなしにはデータを分析することはできない上で、研究者が何者であり、どう生きてきたのかということはその選択に密接に関わっているはずなのにその説明は十分条件ではなく、質的調査とは「研究者自身が直接その場で被調査者と関わる」という状況定義・関係性のなか行われるそれであるのにも関わらず、その舞台装置がどのように語りに影響しているのかの分析もまたしばしば捨象されている。

インタビューの場、それまで/その後の関係性、もっと言えば「研究者」であることの外にも当たり前に存在していた、生きている身体はなぜかここでは透明になり、まるで物理実験を観察する観察者のように、対象化するだけの存在としてテクストの多くは編まれている。

「その場で起きていること」の全体性ですら、捉えきることは難しい。

そうした前提に立つと明らかになるのは、研究という営みはある現象を(ある観点から)説明することは可能でも、現象をありのままに記述したり、それを分析するなどということはできないということである。

ただ、現状「研究」が明らかにすることがそのように、その領分と限界を前提に、一歩引いた「知識」として扱われているのかといえば、そうは思わない。

概念装置やその更新、分析を通して何かを明かにすることとは「ものの見方」を作ることであり、「ものの見方」を作るということはその材料の揃っている誰かにとっての現実(解釈への納得感や自明性の感覚)を作り出すということでもあると思う。

そういった前提があり、自分は反証可能で暫定的なパースペクティブに過ぎない「知識」を生み出して、そのプロットに誰かを巻き込みかねないということが、どうしても怖かった。

もちろん学部生の卒論なんて誰も読みやしないし、社会的になんの影響もないし自意識過剰もいいところだと思うけれど、自分は「言葉」というものに対して神経質な警戒心がある。

「その人」の生の諸側面や全体性、そして日常的体験のなかの言葉の手前にある「原イメージ」的な物よりも、言葉が優越し、発話や思考によって言語化されて、「その人」の形そのものだったはずのものの形が無自覚のうちに整えられてしまうということは往々にしてあるし、

自分というものの複雑性やわけのわからなさから「余計なもの」を切り取って、既にある言葉やカテゴリーに自分を寄せてみたり、外側にあるはずの言葉に自分を発見したり、自分自身を自覚なしに変形させて社会的期待に答えてみたり、それ自体は心理的な安心感をはじめとして生きる上ですごく重要なことだと思うけれど、

「自分」はどこまで行っても「自分」でしかないことを忘れさせかねないのが「言葉」であって、言葉の手前にあるものや自然と湧いてくるものは大事にしないと、気づいたら誰かが書いた筋書きが、自分よりいつの間にか先立つようになった言葉が、それを否定し始めたりするんじゃないかなあと思っている。

そういうこだわりがあって、胸のつっかえを無視できなかったので「社会調査」をして「書く」ということはできなかった。

「社会の心理学化」という現象があるけれども、社会学が人間のミクロな日常に食指を動かし、特に現象学的研究が現れはじめたときから、似たように「社会の社会学化」も起きているんじゃないかと思う。

社会学の概念が流通することで、名前のなかった「わたしの経験」に名前がついたり、「自覚」の契機が生まれたり、経験を捉え直したりと、そうして孤独が和らいだり、連帯できたり、社会をズラしはじめたりといいことは山ほどあるのだろうけれど、

他人に説明をする時はともかく、自分というのは言葉を扱う主体にもなり得るのだから言葉に扱われる客体である必要はないし、「表現」の方法は言葉だけではないから言語化だけを頼りにする必要もない。

最後に、専門性を以って「知識」を産出するということは、それを「信じる」人が現れる可能性があるわけだけれど、特に自分自身を説明するような事柄に関して「知識」を「信じる」ときに生じる自分自身のトリミングは受け取り手に無批判に帰責していいのだろうかと疑問に思う。

勿論、それが良いのか悪いのかは自分には分からないけれど、今日もどこかで混乱は生まれているのではないかと思うし、「ひとつのパースペクティブに過ぎない」という文章をポンと置いておくことでどうにかなるものでもないと思う。

何かが分析を通じて「明らかになった」「示された」ということは本当に必要なのだろうかと思うし、ある視点を批判・反証して余白を拡げたら、新たな理解を生み出すのではなくて「わからない」という混沌状態に戻してそっとしておくのが、現象というものが変化や可能性のその最中にあって「書く」という固定化では捉えきれないということや、「多様性」への誠意あるやり方なのではないかと、自分はそのように思っている。

多分気にしすぎで書けなくて書けなくて、書けなさすぎて、自分が表現したものにほかの人が勝手にカタルシスを得たり何かを発見したり、その逆も然りそれくらいが自分にはちょうどいいのかなぁと感じた。

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