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社会学という思想
この春で大学(社会学科)を卒業しました
3年くらい半端に社会学をやってきたけれど、自分は遅筆も遅筆だった
大学の紀要で論文の一部を書かせてもらったときも、コラムを書く機会をもらった時にも、卒業論文にしても
なんなら昔やっていたブログやら今こうして書いているnoteの記事も、自分は遅筆が過ぎる
それが嫌なあまり興味があるのに断ったり書けなかったりということもあった
記述している内容が正確なものなのかというところに、哲学的なところまで執着する良くない癖が出ていた
例えば今こうして自分の思うところについて書いていても、回想の内容は本当に当時のことを正確に思い起こしているものではなくて、現在の自分が過去の自分について意味づけている内容であるし、たとえ同じテーマについて同じエピソードを使って記述しようとしても、自分が別の状況や立場に置かれている時には内容は変わってしまうから等々…
じゃあ自分は一体何を書いているんだろうかと色々飛んできてやる気を失ってしまう
フィールドワークに何週間も入っても、その後の時期に読んでいたものは現象学や知識社会学の流れの哲学寄りの理論書ばかりだった
好きで執着しているわけではなくて、書きたいことは色々なのに、その執着のせいで全く筆が進まない
それに、自分が厳密に書こうとしているだけに、他の論文を読んでも裁くことに意識が向かいがちで、たしかに批判のタネにはなったこともあるし、悪いことばかりではないのかもしれないけれど、明らかに自分が何かを書くことを、この悪癖は過剰に邪魔をしている
前置きが長くなったけれど、とにかく今後は論文を書いていくことへのスタートラインを切りたいから、自分の3年間を経ての「社会学」、とくにアイデンティティ研究についての、厳密性に執着する自分を許せる考え方を書き残しておく
たまに社会学という学問に対して飛んでいる批判なのか、野次なのか、クレームなのか、社会学なんて「思想」だと攻撃的なカンジで言っている人がいる
多分、科学的じゃないし、客観的じゃないという批判的なニュアンスを含んでいるのだと思う
自分は、社会学は確かに「思想」だと思う
ただ、「人間」に関する研究、つまり無限の不確定性、偶然性、複層性を有する、継時変化し続ける研究対象に関して、実証、論証、分析を通じて、「客観性」に漸近する、そして同じような手法・試みをしてきた数々の研究をもとに組み立てられる
「思想」だと思う
科学的な方法を選択したり、データや資料を可能な限り集め、解釈していって、論を組み立てていくのはとても重要なことだけども、「客観性」なんてものは漸近していく以上のことはできないのである
なぜなら、研究対象も、研究者も、解釈するのは無数の社会的コンテクストを持つ人間であり特定のパースペクティブに立つことからは逃れられないし、客観的な観察者として研究者が存在すると言うような状況は実現し得ない
事実は「事実」であって、そういう「主観性」の楔を、誰でも、必ず打たれるのである
だからこそ、社会学は普遍的な知識を提供できず、特定のパースペクティブを提示するに留まるというその「思想」的側面は、特に自然科学と比較すると色濃く感じられるのだろう
社会学/社会科学という分類を積極的にしようとは自分は思わない
自分の立場としては、科学的な手続きを踏むことは重要であると思うけども、なにかを論述するために多様な科学的な手続きを踏んで論を補強して、ある現象に関する「正しい」「普遍的な説明」を与えようとすることは第一に優先されることではなく
道具的に社会学そのものを解釈しておくことが重要だと思う
社会学にはパワーがある
出版されるものはもちろん、「研究者」が存在し、日々相互行為が行われ社会に再帰的に影響を与えていく過程そのものが、それが誰かにとっての「知識」や「事実」を産出し、言語を通じて人間の精神に影響を与えていくこと、つまり研究という営みそれ自体が構造化していくこと
また、研究によって「明らかになる」ことが具体的な制度設計に影響を与えたり、社会運動などの現象に繋がっていったりと、まだまだ例を挙げるとすればいくらでもあるが、そういうパワーが社会学にはあるのである
だとすれば、日常世界がカオスであることや、人間の可能性の無限性という、元来普遍的なものを担保する方向にそのパワーは使う必要があると自分は考える
もちろん、その逆が要請される場合もあるだろうけども、何かを記述し定義することよりも、記述し定義することで、定義されていたはずのものを解体するようなことが社会学の役割のひとつだと思うし、そういうスタンスで自分はしばらく色々書いたり障壁にぶち当たったりしてみようかなと思う
あとそれで行ったら、研究者は、研究者自身が自分自身を観察対象にしていた方がいいと思う、そんなもん研究者に限った話ではないと思うけど
人間科学の知は客観性に漸近する努力がなされた上で、客観的な知として提供されるのではなく、記述し、観察していた「わたし」は何者であるのかという、「わたし」の認識枠組みはどこからやってきているのか、合理的理由やアカデミズム仕草の中ではなく、なぜ「わたし」があるアプローチを選択するのかという自問はなされなければならないし、可能ならばそれは開示されたほうが良いものだと思う
よく社会学の導入で言われるような「当たり前を疑う」という胡散臭い決まり文句は、その方法的懐疑が社会の余白を増やしてきた今日があるからこそ、耳タコなほどに繰り返されるのだろう
自分はすぐに頭でっかちになるので、もしかしたらこんなことは実践的には「当たり前」になっている人がほとんどなのかもしれないが、とりあえず、自分を書ける状態にするための覚書でした
わかったか
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