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ギデンズの嗜癖論に思うこと

アンソニー・ギデンズはイギリスかどこかの国の大物社会学者です

自分の卒業論文は「依存症」について、もとい最近の専門用語で言うところの「嗜癖」「アディクション」について、病気やら犯罪やらの色眼鏡を外してみたときに如何にそれが広範に当てはまりうるものなのか、その前提に立てばなぜ一部の人だけが社会的に「依存症」の人だとされるのか、ということについて、ギデンズの嗜癖論を援用して書きました。

当時は卒業「論文」という縛りや時間的制約があり、思っていたことは当然フルに自由には書けなかったので、この記事ではそういう書けなかったところについて書き留めようとおもいます。

『親密性の変容 : 近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』

『再帰的近代化 : 近現代における政治、伝統、美的原理』

以上2冊が、ギデンズが「嗜癖」という概念について直接言及している著作になります。

なおギデンズの理論の中には「伝統社会」「抽象的システム」という概念があるのですが、その辺は話が煩雑になりすぎるので端折ります。

以下ギデンズによれば「嗜癖」とは…

1、「衝動強迫的に没頭する様式化された習慣であり、中断した場合手に負えない不安感を生じさせるもの」(『親密性の変容』:109)

ギデンズはここである臨床家の「習慣」「衝動強迫」等の概念を援用しているんですが、そこは端折って要約すると

「自分の精神的緊張(ストレス)を解放してくれる反復行動であって、それはやめたいと思うだけではやめられず、無理に中断しようとすれば不安感が生じてしまうもの」

です。

2、高揚感→執着→抑うつ感のサイクルがある(『親密性の変容』: 113あたり?忘れました)

その習慣のなかでは、ある種の高揚感(非日常感)が得られて、だからこそストレス解消に一役買うのですが、その習慣を続けていくうちに、早くそれに没頭したいと他のものをあまり顧みずにそれに執着していくようになります。そのうち抑うつ感や虚脱感、その習慣をまた行なってしまったことに対する自己嫌悪を感じるようにもなっていきます。

3、「自分ではうまく対処できない嗜癖以外の欲求や願望を鈍化させてしまうような、長期に及ぶ麻酔性のある経験」」(『親密性の変容』116: 太字部改編)

本だと嗜癖対象である「仕事」になってますが、仕事に対する嗜癖に限定して話している文脈ではないため一般化して「嗜癖」に置き換えました。

「嗜癖」以外にも自分がやりたい、やらなければならないことから逃れるためにまた「嗜癖」に向かい、そうしていくうちに欲求・願望に対する感覚自体が鈍化していきます「わかってはいるけど…」状態から各種各様の防衛機制が働いていって「そもそも自分のなかにあったはずのそれが認識できない」状態になってしまうことだと僕は解釈してます。

そのように自分の気持ちの否認、それからの逃避という防衛をしてきたことをハッキリと認識できるのは、もっぱらそれをやめざるを得ない状況(仮に仕事であれば、失職などの大きな挫折)に直面した時だとここでは論じています。

この点に関係しうる内容なのですが、「毎日の生活のほとんどすべての側面が適切な形で見ていった場合に提供する数多くの可能性と、折り合いをつけるための方式」(親密性の変容)とも論じていて、嗜癖は自分の可能性への折り合いの付け方の一手段ともなりうると論じています。

たとえば「本当はもっとみんなから認められたい、彼(彼女)から愛されたい、いい母(父)でありたい、スポーツが上手になりたい、勉強ができるようになりたい、でもなかなかできない(踏み出せない)、そんな葛藤を和らげるように無意識に嗜癖対象へ」という感じでしょうかね。

4、「嘘をつかなければならない」ものである(『親密性の変容』: 134)

ここの説明が面倒なので前置きの通り端折りますが、ギデンズは昔(伝統社会)においてはある種の反復行動は、そうする理由や動機について、いかなる批判も許さないような「確実なもの」に求められたけれども(宗教的なものとか)、現代(ポスト伝統社会)においてはそんな「確実なもの」はなく、自分もすっかり信じ込んでいるような「正しさ」の裏付けはなくて、嘘をつかなければ反復行動を続けることはできないし、嗜癖の発端は本人もよくわからないといった具合に論じています。

ある反復行動、習慣について批判がくわえられたり問題化された時、まあ昔だったら共同体の成員のほとんどから認められるような絶対的な「正しさ」のもとほとんど動じなかったところが、今ではどんな信条も既に相対的なものになっていて、何らかの防衛機制を働かせないといけないといったところでしょうか。

5、試行錯誤ができなくなっていく(『再帰的近代化』: 170)

たとえば、風邪を引けば状況に応じて信頼できるサイトで調べて薬を買ったり、病院を受診してみたり、医療関係の知り合いに相談してみて、ダメそうだったら他をあたってみるといった風に、日常生活のなかでは何かを選択し、それを信頼し、それで失敗しても(落ち込みつつも)次にまた何かを選択、信頼し…とやっていくわけですが

嗜癖の場合は、信頼の対象は空洞化しています
つまり、何かを能動的に信頼・選択して…と対象を持って進んでいくのではなく、多くの時間を嗜癖対象への没頭に過ごし、問題解決や余暇の楽しみ方等、「色々なものを試す」ことではなく、ただ先述したようなやめられなさの中、いろいろなものに対して別の方法に踏み込んでみるのではなく、お決まりの習慣を続けていきます。

また、嗜癖は「人によっては、ある嗜癖から抜け出そうと努力するが、結局また別の嗜癖に屈してしまい、新たな衝動強迫的行動様式のなかに閉じ込められていく場合もある」(親密性の変容:112)ものであり、ある嗜癖から別の嗜癖に移行するようなこともあると論じています。

6、あらゆるものが嗜癖化しうる

ギデンズは臨床家の引用が多いので「依存症」のイメージに引っ張られるかもしれませんが、別に薬物やらギャンブルやらスマホ等、◯◯依存症の枠組みの話ではなく、スポーツ仕事読書通俗的な善し悪し抜きにどんな「習慣」も嗜癖化しうると論じてます。

「依存症」のような一部の嗜癖の犯罪化・病理化が嗜癖はある社会的カテゴリーの人々がもつものであるという認識の構築、「嗜癖」という現象が実際はありふれたものであることを隠しているそうです。

共依存についても論じていて、家族や友人をはじめ関係性も嗜癖化し得ます。

ここまでがギデンズの嗜癖論の(相当圧縮した)要約です。

ここからが僕が考えることなのですが、

カンツィアンの自己治療仮説 (物質や行為への依存は快楽主義的なものではなく、苦痛を和らげるためのもの)というものがありますが、ギデンズの理論でも精神的緊張(ストレス)の解放のための反復行動とされていた通り、嗜癖の背景には心理的苦痛があるという事実があり、それはドーパミンから嗜癖(依存症)を説明する立場とも特に矛盾せず並列できると思います。

また、恐怖・怒り・悲しみ・緊張感・孤独感・無力感・虚無感エトセトラと、心理的苦痛は同じ状況に置かれても感じる人と感じない人がいるように(周囲が感じ方が似ている人ばかりで気づかないこともあるでしょうが)、「その人」の過去(生育環境、家族関係)にルーツを持ち、特定の場面で反復される、感情のパターンです。(この辺の考え方の基盤はフロイト、ホーナイ、ミード、ギデンズ、フロム辺りから拝借していて、生きていて確かに書いてある通りの部分があるなぁと思っています、諺でも「三つ子の魂百まで」とかありますよね)

僕が理論を概観して思うのは、外的な基準による評価によって自尊心を保とうとする在り方、至って普通の人間としての在り方もこれに当てはまってしまうんじゃないかということです。

当たり前ですが誰かに何かを、特に自分にとって重要な人から評価されたらとても喜ぶだろうし、評価されればそれを求めて頑張ります。自分の「能力」が高いという事実が証明、確認できたときも喜ぶと思いますし(感情表出が下手な人はよくいますが)もっと伸ばそうと試みると思います。自分に課されていると感じる社会的期待(一般化された他者)や、家族、恋人、親友(重要な他者)との関係をベースに生きていきます。

一方で評価されている以上、その基準に沿った行動様式を中断しようとすれば不安になりますし、その癖もはや陳腐に感じるようなこともあるでしょう。でもリスクは取れない。そうした行動様式を長く続けているうちにそれ以外に何をしたかったのか、自分が本当は何をしたかったのかを忘れていったり、それを過去のことにしたりします。

近しいことは野口さんが1996年に書いた『アルコホリズムの社会学』でも論じられているんですが、それは共依存の文脈で、ワーカーホリックは評価に依存し、社会はそれを供給するイネイブラー(共依存で言うところの、依存し続けることを可能にする存在)であるというものでした。

バブル崩壊から数年経った1996年、イケイケだった日本社会を生きて、一転、それを冷静に見つめることが可能になるような社会の変化も生きたうえでの分析だと思っています。

僕はまだ産まれてもいませんが、今と比較すればまだ「大きな物語」が辛うじて生き残っていた時代であったからこそ、マクロな視座としての社会ー個人という構図も事実とのずれが小さかったのかもしれません。

Z世代の僕が思うのは、一般化可能な社会的期待だけでなく、ある人が生きるある共同体で称揚されている価値や信念と、そこから供給される「社会的期待」との関係ばかりを生きることも嗜癖化しうるということです。(「応答」じゃなくて「関係」としているのは、カウンター・アイデンティティも真逆のようで、ここでは同じだからです。)

当然、ライフステージの移行に伴う様々な社会的役割の獲得もここに交差的に関係すると思います。

繰り返しになりますが「嗜癖」に善し悪しはありません、なぜなら「当たり前」のことだからです。嗜癖的な生き方をしていても社会的に問題なく生きていくことはできると思いますし、「依存症か、そうじゃないか」というゼロイチの話でもありません。

ただ、嗜癖的であり続けるということは、自分自身の反復的な心理的苦痛そのものと向き合うこととも、未知の方向へ進み続けた結果解決するということとも距離があります。対症療法なので。(だからこそ嗜癖も大切だと思いますし、おかしいくらいの執着が凄いものを産むこともあると思います。)

決定的に破綻したり問題化することはなくても、その歪さは折り合いのつかぬまま温存されていきます。いま現在「社会生活」を送る上では問題がなくとも、どこかで知らぬうちに、或いは人生のどこかのタイミングで何かを引き起こすかもしれません。(人間関係、特に生殖家族との関係とかでしょうか)或いは周囲の優しさもあって、自覚ないままに、自覚があってもなんだかんだ折り合いのつかぬまま穏やかに人生を終えることもできるかもしれません。

逆に「嗜癖的じゃない」ものとは何なのか、ギデンズは「感情的自立」「抽象的システムへの再参加」「嗜癖的プログラムの克服(自分はダメだとかアイツが悪いとか思わず自分の知らないことに挑戦すること)」とかそのような感じですが、僕は今のところ、個人による価値の「創出」であり、内面探求であり、「遊び」であり、「反復行為のズラし」であり、「他者性(自分の可能性)を志向した選択」を重ねることであると思います。

「嗜癖的プログラミングの克服」、つまり自己ラベリングや過度な外在化を留保して「異質なもの」に踏み出すというのは、ギデンズの言う通りだなあと思います。

ここはまだうまく言明できるほどに理解できていないと思うし、頭では分かってるかもなんですが自分で実践、実験中なので箇条書きに留めておきます。

ほかにも色々触発されてたと思うんですが、ひとつの事について書いてたら忘れちゃったので、また思い出したら書いてみます。

研究というかもう僕の基本的な人間観も、自分に対する目の向け方も今こんな感じです。

この曲もめっちゃ良いです↓







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