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辞めるという選択について

この夏、通っていた学生街にある人気の飲食店が閉店すると聞いた。急いで食べにいくと、お客様の声にお応えして閉店を延期することになったとの張り紙が。しかもその後数ヶ月に渡って現在に至るまで延期を繰り返すのをその時はまだ知らなかった。

なくならないといいのにね、なんで閉めちゃうんだろうね、延期できるくらいなら閉めなきゃいいのに等と様々な声が聞こえてきそうだが、お店の事情はさておき、辞めるのを惜しまれて辞められなくなるのはなんだかちょっと愉快な話である。始めた時は終わりを考えてもいないはずだから、辞めるという選択の背景には相当な決断力を要している。辞める側は取り残された人たちには想像できないくらい色々な荷物を持って帰らないといけない。

一個人に置き換えても、何かを辞めるか続けるかという判断には人間らしい葛藤が見られてよい。子どもの頃は良くも悪くも自我が強く、自分でやりたいと思って始め、なんとなく辞めたいからという理由で辞めたことがないのは我ながらすごい気がする。いま思うと、何も辞めたいと思わなかったのは結構幸せかもしれない。

大きくなってからは自分の意思で軽率に辞められるという切り札を手にしたことで逆説的に、自分の人生を主体的に作るという意識が芽生えたのは確かだ。責任をもって引き受けた分大きなやり甲斐を味わえるのは、ここまで生きてこられた醍醐味である。辞める時たとえ消極的な理由だとしても、次のステージに行けるチャンスとして捉えられる。

問題の所在が他人にあるのに辞めたことを後悔したことも多いが、しがらみから出て楽になりたかった当時を思い返すとそれ以外の余地がなかったと感じる。総じて何が言いたいかというと、過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられるということである。居心地がよければ続くし、差し支えなければいつ辞めてもいいというスタンスでこれからもいきたい。

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