私自身の安楽死制度実現への思い。

私自身は、いい看取りを経験したことがありません。多くの親族が、自殺やガンなどの闘病で苦しみながら亡くなっています。どうしてこんな死に方をしなければならないのだろうと感じました。なので、小さい頃からのこのような経験が、現在の安楽死制度を求める活動に繋がっていると思っていました。

しかし、活動を継続するうちに、その考えに疑問を感じるようになりました。多くの人々が、病院で闘病生活を送る人々や、寝たきり老人の介護など、私と同様の経験や、それ以上の経験をしているにも関らず、その経験が、安楽死制度の必要性に結びついていないのです。

私は、私自身が幼少期に経験した別の体験が、今の安楽死制度を求める活動に繋がっていると考えるようになりました。

小学3年制の時に、クラスのみんなが走って教室の外に逃げ出した事がありました。
見ると教卓の近くでカッターを振り回している子がいました。
明らかに錯乱して振り回しているだけで、人を傷つける意図がないことがすぐに解りました。
私には、どうしてみんなが逃げていったのかが解りませんでした。

イジメが発覚したのは、そのすぐ後のことだったと思います。

私は、休み時間のたびに4〜5人に囲まれ、酷いいじめにあっていました。
しかし自分では気付くことができず、担任の先生に介入してもらってはじめて、それがイジメであり、クラスの中の大きな問題になっていることに気付くことが出来ました。

イジメに気付くことが出来なかった理由があります。それが、家庭内での母親の振る舞いでした。

私には3つ下の妹がいました。母は、何か不都合があると必ず私を悪者にして理不尽な体罰を繰り返していました。私には、家庭内での問題の方が、学校でのイジメよりも大きな問題でした。

さらに母には、ヒステリーの問題がありました。時々ヒステリーを起こして刃物を振り回すことがありました。
母は、「親に不満を持つ子供の気持ちはよく分かる。しかし、お前に子を思う親の気持ちはわからない。妹とは違い、お前には私の老後を任せなければいけない。大切な息子なのだ」と言っていました。

しかし私は、年令を重ねるごとに、母親のことを邪悪な存在と考えるようになり、母親から受けた理不尽な仕打ちが、学校での人間関係にも悪影響を与えていると考えるようになりました。

いつ殺されるかわからない中で生活していた自分、苦しくても何も出来なかった自分、大切なものを捨てられ、笑いものにされた自分、惨めな自分、自分の気持を少しでも理解してもらうために、母に簡単に死なれては困ると考えていました。私の中には、母への復讐を考える自分がいました。

良好な人間関係を築いて、人目のないところで母をイジメる。母が私のことを悪く言っても、誰にも信じてもらえない。いくら辛いと訴えても逃げ道がないと思わせる。

「実の息子に介護してもらえて幸せものだね。」と微笑みかける。

事故を装って骨折させるぐらいは些細なことと考え、苦痛に歪む母の顔に、辛かった自分の気持ちを少しだけ理解して貰えたと感じ、喜びで溢れる。
惨めな母の姿を妄想することが、自分の支えになった。

ところが先に倒れたのは祖母の方だった。糖尿病を患っていた祖母の身体は、徐々に弱っていき、自力で歩けなくなってしまった。認知症も進行した。

新しい介護制度のもとで、在宅での介護の準備が進んだ。

何も出来なくなっていた祖母の姿を見て、堪らない気持ちになった私は、母に言った。

「祖母がかわいそう。自分も認識できていない。楽に逝かせる方法を考えた方が良いのではないか。」

「あなたはわかっていない。公務員だった祖母の年金は、父の年収よりも高い。家族5人の生活は祖母の年金で賄われている。死なれる訳にはいかない。」

残酷だと思った。何も出来なくなった祖母の身体は、まだまだしっかりしており、簡単には逝けそうになかった。社交的で明るかった祖母の顔から笑顔が消えていた。苦しそうだった。

自営業で毎日働き続けていた父の仕事を否定されたような気分だった。

何も悪いことをしていない祖母は、なぜ何年も苦しみ続けなければならないのだろうか。

私が中高生の頃、家族がテレビを見て笑っている、お茶の間のすぐ横のベッドで、祖母の身体は衰退を続けた。私が実家を出て、大学生活をしていた4年生の頃、祖母は亡くなった。

私は、イジメや虐待は、世の中にあってはならないものだと思います。
自分の殻に閉じこもる。共感できない。まわりに馴染めない。周囲に不快な印象を与える。そのような悪循環が、長く被害者を苦しめることになります。
それは、犯罪のような法律で定めた仮の悪ではなく、人間社会の中の絶対的な悪です。
イジメや虐待は、絶対に許せないです。

人間が生きていく上で、家畜や害虫を殺すことがあります。しかし、劣悪な環境に閉じ込め、放置するようなことはあっても良いでしょうか。

母が行っていたのは、当時の日本社会で行われていた普通の介護です。
普通の介護が、残虐な行為に見えたのは、自分自身がイジメや虐待の問題と向き合っていたからだと思います。

その母親も9年前にガンで亡くなりました。6月には歩けなくなり、七夕の短冊には「早く病気が治って元気になるよう」と書いていました。
私は絶句しました。すでに痩せ細り、回復の見込みのないことは誰の目にも明らかでした。では、なぜこのように書いたのか。
この頃の母は、いつも歯を食いしばって頑張っていました。元気になれると信じていなければ、心を保つことが出来なくなっていたのだと思います。

母が痛みに堪えかねて呻くたびにナースコールを押してモルヒネの量を調節してもらいました。母は呻いてないときも苦しそうでした。いつも寝ているか、痛みに堪えているかのどちらかでした。そして、ついに痛みに堪えかねる強烈な痛みに襲われた時だけ、力を振り絞って呻き暴れ始めるのです。
残酷だと思いました。毎日苦しむ母の姿に、自分の幼少期を重ねていたと思います。

学校でのいじめに気付くことが出来なかった自分、辛くても何も出来なかった自分、笑いものにされた惨めな自分、母への復讐を考えていた自分。
母は私の辛さがわからなかったから、平気でいろいろな事をした。私は何も出来ない辛さがわかっていたから、少しだけ理解して欲しかっただけ。自分より辛い思いをさせようとは考えなかった。
ところが母の姿は私よりも辛そうだった。見ていて辛かった。

母が受けていたのは、当時の日本社会で行われていた普通の終末期医療です。
普通の終末期医療が、残虐な行為に見えたのは、自分自身がイジメや虐待の問題と向き合っていたからだと思います。

私には母の姿が自分よりも苦しそうに見えました。おそらく11月に亡くなるまで、最後まで苦しみ続けたのだと思います。最後まで苦しみ続けたことは良かったと思います。

本当に苦しい時は、自分の状況が理解できないのです。苦しい状況を脱して、初めて自分の状況が理解できる。そこに新たな苦しみが生まれるのです。
苦しみが長ければ長いほど、強ければ強いほど、自分の中のダメージが大きくなっていることに気付くのです。周りとの壁が大きくなっていることに気付く、まわりに馴染めない、周囲に不快な印象を与える、自分が周囲に与えたダメージも見えてくる。

母は、自分の状況が理解できていなかったので、その意味で最後まで苦しむことなく亡くなることが出来たのだと思う。

苦しみが大きいほど、その苦しみを伝えるのは、辛く難しいことに感じます。
私は、イジメや虐待のない社会を目指すとともに、その最上位に当たる終末期医療の苦痛を減らしたいと考えています。

理解する苦しみ、理解してもらう苦しみを乗り越えて、出来る限り多くの国民の理解のもとで、極端な不幸の少ない社会を目指したいと考えています。

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