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8年越しに階下の彼女と話した昼の話

「そりゃー何も知らない人は頑張ってて偉いね〜ってヨシヨシしてくれるんだろうけどさ、私は違うって思うのね」

***

 目覚まし代わりにあたしを起こしたのは、一本の電話だった。

「お世話になっております、こちらニノミヤフミカ様の携帯でよろしかったでしょうか? 先日ご応募いただいたオーディションの件ですが──」

 お世話になっております。
 はい、私本人です。
 ええ、はい、承知しました。
 ご連絡ありがとうございました──

 まぶたの重みに反して、口はひどく軽やかに動いた。Tシャツ越しに感じる砂利の感触が、ちくちくと意識を醒ましていく。通話が切れたのを合図に、あたしは半開きだった目をこすった。

 陽光降りそそぐ、学生街の大通り。これから講義と思しき大学生たちが、目の前をすたすたと過ぎ去っていく。さながら放置自転車を避けるかのごとき自然さで、人の流れは滞ることもない。

 酔い潰れた人間なんて、この街では年がら年中あちこちに転がっている。とはいえ、その大部分は花盛りの大学生たちであって──もうすぐ28になろうかというオトナが取る行動ではないんだろうな、きっと。

 ばきばきに凝り固まった体を起こす。
 財布はある。部屋の鍵もある。この前買ったばかりのキャスケットだって、ちゃんと頭に乗ったままだ。

「帰っちゃうのー!? せっかくみんなニノちゃんのために集まったんだよー?」

「……かえんなきゃ、ね」

 誰にともなくつぶやいて、あたしはようやく家路についた。

***

 ついてない日は、とことんついてない。

 むしゃくしゃして、数ヶ月ぶりにタバコを買った。ただ、欲しかった銘柄とは別のやつを間違って渡されたし、でも訂正するのも面倒だったからそのままコンビニを出たりして。

 帰りながらスマホをいじっていると、カレンダーアプリの通知が鳴った。

 ──“賃貸契約 自動更新日”

 覚えず、舌打ちが漏れた。
 特約のせいで途中解約には違約金がかかるってのに。


 もっと早くに思い出しておくべきだったんだ。というか、なんで通知設定を当日にしちゃったんだろうね。リマインドするならせめて数ヶ月前でしょう、バカなんじゃないの?

 アパートに続く、数百メートルはあろうかというS字坂を登っていく。相変わらずキツい。春先でこれなんだから、夏はもう地獄というほかない。今度こそは引っ越ししようって、そう決めてたのにね。

 2年前の自分を、疎ましく思った。
 2年後の自分を想像して、吐き気がした。

「ニノは惰性で続けてるだけでしょ?」

***

 坂道をようやく上り終え、切れ切れの息がひとつながりの溜息になったところで──ふと、ひとつの異変に気付く。

 あたしの住み処であるところの二階建てアパート、その鉄骨階段にスーツ姿の若い男が座っていた。

 うげぇ、と無意識に呻いていた。十中八九、あれはセールスマンのたぐいだ。そしてなお悪いことに、あたしの居室は二階にあるわけで。

 我ながら決断は早かった。
 キャスケットを目深にかぶってアパートをそのまま通り過ぎ、ほど近くの曲がり角へと入る。

 それからスマホを取り出して、辺りをきょろきょろ見回したりなんかして──まるで「散歩の途中で道に迷っちゃいました」と言わんばかりに。

 スマホ越しに横目で様子を伺っているうちに、気付いたことがひとつある。

 ……あのひと、前に会ったことがある。

 確か、大学時代の同期だ。そう、モデル顔負けのイケメンだったからよく覚えている。でも、会ったのは数度きり。お昼休みに何度か学食で一緒になった程度。言ってしまえば友達の友達なのだけど、向こうはたぶんあたしのことを覚えてないはずだ。

 確か、名前はタカハシ──

「ハジメちゃん、ごめん!」

 慌てた声音とともに、階段そばのドアが勢いよく開け放たれる。現れたのは、ボブカットの若い女性だ。

 顔見知りの住人、でも名前は知らない。たぶん自分と年齢はそう変わらないはずだけど、華奢な体格もあってけっこう幼く見える。いつものコーデ、ショーパンレギンスが今日もよく似合っていた。

「どんだけ寝てんだよ」と苦笑して、男がようやく腰を上げる。

「ほら合鍵、ちゃんと返しといてな?」
「うん、わかった」
「電車、乗り遅れんなよ?」
「うんうん、わかってる」
「向こうで浮気とかすんなよ?」
「それはこっちのセリフだって」

 別れ際のふたり。彼氏彼女のベタな会話。けれども不思議と絵になるのは、それだけ二人に華があるということだ。さながら映画のワンシーン──でも、それはそれとして、あたしはさっさと部屋に戻りたい。

 ──はい、カット!
 祈りを込めて、頭の奥でカチンコを鳴らす。
 ちょうどそれは彼氏が彼女を抱きしめたタイミングで、それはもう嫌になるくらい綺麗だった。

 アパートを後にする彼氏。その背中を見送った彼女も、やがて居室へと戻っていく。
 今がチャンスだ。部屋のドアが完全に閉まりきったのを見届けて、あたしは小走りで階段へと向かった。

 ついてない日は、とことんついてない。
 結論から言えば、その行動が裏目に出た。
 彼女の部屋をさっさと通り過ぎようとしたところで、突然、勢いよくドアが開いたんだ。

 やばい、と思った時にはもう遅かった。横っ面に鈍い衝撃が走り、ぐわんと視界が揺れる。

 玄関口で驚愕の表情を浮かべる彼女。
 土間に立てかけられたギター。
 その向こうには、がらんどうの部屋。

 ──あぁそっか、引越しするんだもんね。

 ひとり納得しながら、あたしはそのまま仰向けに倒れ込んだ。

***

「──本当に、ほんとにすみません!」

 今にも泣き出しそうな声で、彼女は何度も深々と頭を下げる。ヘタしたらそのまま折れちゃうんじゃないか、と心配になるくらいに。

「いや……ほんと大丈夫ですんで」

 玄関口の段差に腰掛けながら、あたしもまた頭を下げた。このやり取りも、もう何度目だか分からない。

「すみません、治療費は払いますので……」
「いや、そんな……」
「一万円で足りますか……?」
「いやいやほんと大丈夫ですって……!」

 実際、大したことはなかった。無様に倒れておいてなんだけど、キャスケットを被っていたおかげもあって直接的なダメージはあまりない。

「そんな、せめて何かお詫びを……」

 側頭部に押し当てられた濡れハンカチ──彼女いわく応急処置ということらしい──の冷たさを感じつつ、面倒なことになったな、と溜息を噛み殺した。

 悪い人では、ないんだろうけれど。

 率直に言って、苦手なタイプだった。
 過剰な善意が、逆に相手の負担になるってことを分かってないんだな。そういう人から確実に解放されるには、その善意にわずかでも応えてあげる必要があるのだ。

 そういうわけで、あたしは尋ねた。

「携帯灰皿……とか持ってたりします? あたし、タバコ吸いたくなっちゃって」

 彼女が喫煙者だということは知っていた。
 玄関口で携帯灰皿を片手に煙をくゆらせているのを、バイトやオーディションの行き帰りに何度も目にしていたからね。

「ありますよー!」

 ぱあっと顔を輝かせて、彼女はそばに置いていたバッグから携帯灰皿を取り出した。あたしはそれを受け取って、さっき買ったばかりのタバコに火を点ける。それから、彼女にもボックスを差し出した。

「よかったら、どうぞ」
「えっ……あっ……はい、いただきます」

 タバコを一本取った彼女は、しげしげとボックスを眺めながら、言った。

「赤ラークですか、オジさんっぽくてイイですね〜」

 バカにしてんのかおまえ。
 ていうかこれは間違って買ったやつだし。
 あたしはいつもKOOL一択なんだよ。

「私、メンソ苦手だから嬉しいです! 特にKOOLとかほんとダメで!」

「……え、なんでですか」

「だってアレ、なんていうか──歯磨き粉ぉ! って感じじゃないですか〜」

「はっはっは……」

 この人と友達じゃなくて、本当によかった。
 間違いない、相性は最悪だ。
 色々と分かり合える気がしないもの。

 火を点け終えて、二人して煙を吐く。

 平日の真っ昼間。住宅街なのに──いや、だからこそなのか、辺りはしんと静まり返っている。唯一、空気を揺らすのはあたしたちの息遣いのみで、それが世界に響くすべてだった。

「──このアパートも、静かになりましたよね」

 覚えず、あたしはそう口にしていた。

***

 昔は、違った。あたしが田舎から上京してきた頃──大学入学を機に、このアパートで一人暮らしを始めた時のことだ。

 一言でいうなら、クソ騒がしかった。

 このアパートの近くには、あたしの通う大学があって──でもそれ以上に近場にあったのは、音楽系の専門学校だった。直接訊いたわけではないけれど、そこの学生が多かったであろうことは容易に想像できた。

 入学シーズンのさなか、あたしの部屋選びが遅かったせいもあって、もう不動産屋にはこの「残り物」しか無かったのだけど、それでもさすがにナシだと思った。2年契約が切れたら絶対に出ていこう、そう心に決めたりもした。

 けれども、人間って案外慣れるものなんだ。
 一人暮らしの心細さは、数日で抜けた。
 居室の壁があまりにも薄すぎて、嫌でも他人の気配を感じずにはいられなかったからね。

 いつであっても、必ずどこからか音が流れてきたものだ。それは例えばピアノの音色であったり、誰かの歌声であったり、あるいはカップルと思しき嬌声だったりした。

 なかでも特に音が大きかったのは、真下の部屋の女の子だった。連日連夜、それも2時や3時にギターを弾くものだから、本当に騒々しかった。

 そしてあたしは、アパートの住人たち──とりわけ真下の彼女──と張り合うようにして発声練習を始めた。演劇サークルの友人たちを頻繁に呼び、彼氏ができれば毎週のように泊まらせた。

「ニノのアパート、自由すぎない?」

 アパートを挙げてのアトランダムな「合奏」が夜遅くに聞こえてきては、誰もが口を揃えてそう苦笑したものだった。

 でも、そんな時間も永遠には続かなかった。
 明確な異変があったのは、大学を卒業してからのこと。

 ある日、撮影から帰宅すると、郵便受けにプリントが突っ込まれていた。

 いわく、“騒音に関する注意喚起” 。

 ──どうして?
   ・・・・

 目にした瞬間、そんな問いが浮かんだ。
 でも、何も不思議なことじゃなかった。
 これが普通で、今までが異常だったんだ。

 そして同時に、否応なく気付かされる。
 アパートの住人が、どんどん入れ替わっていることに。
 そうして、ゆっくりと着実にこのアパートからは音が消えていった。

 ただ一人、階下の「彼女」のギターの音色を除いては──

*** 

 あたしの「昔話」を聞き終えた彼女は、くすりと笑った。

「あなたの声も、いつも聞こえてましたよ」

「それは数年前の話ですよね?」

「いえ、最近もずっと」

「えっ、風呂場で練習してたのに?」

「お風呂だからこそ、ですよ。このアパート、廊下にお風呂が面してるじゃないですか……で、お風呂の電気をつけたら換気扇も回りますし、けっこう外に響くんですよね」

「うーっそだぁ……」

 ということはつまり、あたしの「気遣い」はまるで意味を成していなかったのだ。いや、むしろ悪化させていたと言ってもいい。毎晩やっていた発声練習およびホン読みは、ぜんぶ丸聞こえだったというわけで──なにそれ、うっわ消えたい。

 絶望とともに鼻から煙を吹き出すあたしに、彼女は興味津々といった面持ちで尋ねた。

「役者さん、なんですか?」

「まあ、一応は」

「すっごーい! もしかして映画とかドラマとか出てらっしゃるんですか!?」

「映画なら……過去に一度だけ、ミニシアターのやつですけど」

「すっごぉ──い!!」

 リアクションがいちいち大仰なのだ、この子は。
 バカにしてんのかおまえ、と喉元まで出かかった声は、しかし、彼女の大きな瞳の輝きによって腹まで押し戻されてしまう。

 尊敬の眼差し。満面の笑み。
 それが逆に居たたまれなくて、あたしは自嘲気味に笑い返した。

「恋愛系のヒロイン役だったんですけど、それが喫煙者って設定で──あたしそれまでタバコ吸ってなかったんですけど、役が欲しくて『練習』したんですよね」

 もう5年近くも前の話だ。
 よく勝ち取れたな、と自分でも思う。
 監督に「きみはタバコがよく似合うね」と嬉しそうに言われたことを、今でもよく憶えている。

 それがあたしの「デビュー作」。
 だけども「出世作」にはならなかった。

 ああ、そういえば──

 ふと、あたしは思い出す。
 そんなこと、昨日も言われたんだっけな。

「ニノのは『実績』じゃないんだよ、だってそうでしょ、一回きりじゃタダの『経験』じゃん?」

***

 大学の、演劇サークル同期の集まりだった。
 夕暮れのサイゼリヤに女ばかり10人が集まって開かれる、毎年恒例の「後援会」。

「それでは大女優・ニノミヤフミカの更なる飛躍を祈念しましてー、かんぱーい!」

 ビールを注文したのはあたしだけで、他の皆のグラスには色とりどりのソフトドリンクがなみなみと注がれていた。

 みんな、戦友だった。
 少なくとも、5年前まではね。

 10人も集まって、演劇を続けている人間はあたしだけ。だからこその「後援会」。あたしのために集まったという皆様は、あたしのためにありがたいお言葉をくれるってわけだ。

 ──今度ね、CMにエキストラで出るよ。

「え、ショボくない? 断らなかったの?」

 ──いや、あたしが応募したんだよ。

「仕事選びなよー安く見られちゃうよ?」

 ──いやだから「選んだ」んだってば。

「そりゃー何も知らない人は頑張ってて偉いね〜ってヨシヨシしてくれるんだろうけどさ、私は違うって思うのね」

 辛口だなぁ、とあたしは皆に微笑む。
 口の端が歪んでいないか、不自然に引きつっていないか、それだけが気がかりだった。
 これくらい演じきれなくて何が「役者」なんだろうって、自分でもそう思うから。

 ぶぇぇん、と。
 ふいに、くぐもった泣き声がした。
 同期のひとりが連れてきた赤ちゃんが、ぐずり始めたのだった。おーよしよし、と代わる代わるあやす同期たち。

「元気いっぱいだねぇ」
「ごはん食べさせてきたんだっけ?」
「じゃあオムツかなぁ」
「隣ビルの2階トイレにオムツ台あるよ」
「知ってるーわたし案内するね〜」

 和気あいあいとした雰囲気。
 ここ1、2年の間に何度も目にした光景。
 どこか学生時代を思わせる連帯感。

 あたしにとって、皆はもう戦友じゃない。
 でも、皆は戦友のままなんだ。
 皆そろって妻とか母親というステージに戦場を移した、たったそれだけの単純な話。

「そういえばね! ニノのアパートのさ、下の部屋のコなんだけど」

 5杯目のビールを飲み干したところで、対面に座っていた同期が興奮した調子で言った。

「あのひとメジャーデビューしてたんだね!」

 そんなの初耳だった。呆然とするあたしをよそに、彼女はつづけた。

「うちのダンナが音楽けっこう詳しくて、それで知ったんだけどねー。でもさ、ついこのまえ引退しちゃったんだって!」

 なんだなんだ、と次第に他の同期たちも話に食いついてくる。それはそうだ。ここにいる全員、あたしの部屋に泊りがけで遊びに来たことがあって、そんでもって全員「あのコ」のギターを床越しに聞いたことがあるのだから。

「そうなんだ、もったいないねー」
「売れたから辞めたのかなぁ」
「いや売れなかったからでしょ」
「iTunesにあるの1曲だけっぽいし」
「一発屋ってやつ?」
「その表現は違くない〜?」

 思い思いに語らうその声が、どこか小馬鹿にしたような口調が、お腹の底をじりじりと焦がしていく。

「ニノはさ、そういう風になっちゃダメだよ」

 白い歯を見せて、目の前の同期は言った。

「もっと有名になってよ──そしたらママ友に自慢できるじゃん?」

 心の真中を、でろりと舐められた気がした。

「あんたのアクセじゃ、ねぇんだよ」

 無意識に、あたしは席を立っていた。 

「どこまでいっても、自分のためなんだよ」

 帰るね、と言い捨てて、そのまま店を出て。
 追いかけてきた何人かの同期を振り切って。
 それから、ほど遠くの居酒屋に入り直して。

 ──そこから先はもう、記憶があやふやだ。

***

 一本目のタバコを携帯灰皿で揉み消して、あたしは二本目に火を点けた。

「──音楽、やめちゃうんですか」

 あたしのつぶやきに、隣の彼女が身を固くしたのが分かった。

 昨日聞かされた話は、嘘ではないのだろう。

 玄関口に立て置かれたままのギターへと目を移した。あえて見ないようにしていたけれど、とっくに気付いていた。ボディに無造作に貼られた「粗大ごみ」のシールが、彼女の行く末をこれ以上なく雄弁に物語っていた。

「……ご存知だったんですね」

 とっくに火種が落ちてしまった吸い殻を携帯灰皿に入れて、彼女は申し訳無さそうにうつむいた。

「──どうして、やめるんですか?」

「……いろいろです。実家の事情とか、才能の問題とか」

 違う。
 そうじゃない。
 訊きたいのは、そういうことじゃなくて。

「──どうして、やめちゃえるんですか!」

 仲間、だった。

 ろくに顔を合わさずとも、
 ひとかけらの言葉さえ交わさなくとも、
 あたしは勝手にそう思っていた。

 学生の頃からそうだった。駅前ロータリーで人混みを前に歌う姿を見かけた時、素直に「すごいな」と感心して、同時に「負けるもんか」とも奮わされたのだ。

 目指す先は違えども、
 時々立ち止まることがあったとしても、
 それでもずっと走り続けるのだと、あたしはそう信じていた。

 そう、願っていた。
 
 なのに──なんで、どうして、

「かんたんなことですよ」

 静かな声は、しかし力強く響いた。

「──自分のために、私が決めたことだからです」

 その表情はあまりにも穏やかで、前向きな諦めを感じさせるものだった。ずるいな、と思わずにはいられない。そんな顔をされたら、もう何も言えなくなってしまう。

 あなたと友達じゃなくて、よかった。
 もしもそうだったなら、あたしはきっと子供のように駄々をこねていたはずだから。
 行かないで、とあなたの意思などお構いなしに、みっともなく縋っただろうから。

「ごめんなさい」と彼女は告げた。
 どうして、あなたが謝るのだろう。
 もっと言うなら、なんで涙を浮かべているのだろう。

「私のぶんまで、頑張ってくださいね」

「軽く言ってくれますね」

「私はただのファンなので、無責任に応援しちゃいます」

 なんせ8年、聞き続けてますからね。

 どこか嬉しげにそう付け加えて、彼女はバッグからタバコ箱を取り出した。淡い水色のパッケージ──うっわマイルドセブンだ、久々に見た。ていうかそれ、いつ買ったやつなんだよ。
 
「せんべつ、です。残り5本なんですけど」
「くれるなら頂きますけど……いいんです?」
「大丈夫です、私じつは禁煙中なんで!」
「そういうのは最初に言ってくださいよ」

 潤みそうになる声をごまかすようにして、あたしは笑った。
 あんた、ホントそういうところだよ。
 やっぱり苦手だ、このひと。

 ひとしきり笑い合って、それから互いに手を振って、あたしたちは別れた。

 ──お元気で、と。

 部屋に戻って熱めのシャワーを浴びながら、あたしはほんの少しだけ泣いたのだった。

***

 ──あの日もらったマイセンを、あたしは未だに持っている。別に吸ってないわけじゃない。ただ、吸う機会を決めているだけだ。

 オーディションで役を得たら、その時は1本吸っていい。そういう、ささやかなマイルール。

 鮮度の落ちきったマイセンを吸うたび、その雑味とともに「彼女」のことを思い出す。ゆらめく煙の向こうに、ギターを抱えるあの子の姿を思い描いては、ちょっと鼻の奥がつんとする。

 彼女が、どこかで元気でいてくれたら。
 彼女が、どこかで弾いてくれていたら。
 彼女が、どこかであたしの姿を見つけてくれたなら。

 入居10年目を迎えたワンルームの軒先で。
 そんな想像を巡らせながら、あたしは手元のマイセンをもてあそぶ。

 ふいに、ポケットのスマホが鳴動した。
 
 お世話になっております。
 はい、私本人です。

 ……

 ええ、はい、承知しました。
 ご連絡ありがとうございました!

 通話を終えて、大きく息を吐いて──
 あたしは、最後の一本を手に取った。


<了>

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もの書く蜂。ノベルゲーム制作チーム「超水道」のシナリオ担当。 チーム最新作「ghostpia」ではディレクターとしてNintendo Switch向けに移植開発中。noteでは短編小説と時々エッセイを書きます。
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