大丈夫、わたしには村田沙耶香がいる
「自立」って難しい。
自分で立つことが自立なんだとして、この世の何人がそれを達成しているんだろうか。
今年30になる自分の人生を振り返って、わたしは自分で立って来た記憶が無い。
実家に長いこと世話になっていたからというだけでなく、精神的にわたしはなにかに支えられながら生きてきた。
恋人だったり、アニメのキャラクターだったり、学校の成績だったり、椎名林檎だったり、Vtuberだったり・・・常にわたしはなにかに支えられてきた。
人生の一秒たりとも自立なんてしてきてなかったんじゃないかと思う。
そんなわたしの今の支えは「村田沙耶香」という作家だ。
デビュー作から数々の賞をとり「コンビニ人間」という作品で芥川賞を受賞した。
最近の小説が好きな人なら誰でも知ってると思う。
わたしも沙耶香の作品を「コンビニ人間」から読んだ。
正直最初読んだ時は特に強い感想を抱かなかった。
変な小説だな〜くらいの感想。
それから数年経って、また読書欲が湧いた時に、YouTubeで「殺人出産」という沙耶香の小説が紹介されているのを見た。
10人産めば1人殺していい世界
その世界観に興味を持って、読んでみることにした。
衝撃を受けた。
まず1ページ目から視界がぐにゃっと歪む感覚があった。
現実のわたしたちとは全く異なる価値観を当たり前として受け入れ、過去にはわたしたちと同じ価値観の世の中だったことも匂わせながら、それでもこの(わたしたちから見て)狂った世界を平然と暮らす登場人物。
こんな世界観を思いつく「村田沙耶香」という存在が恐ろしくてならなかった。
それからわたしは取り憑かれたように「村田沙耶香」の本を図書館で借りて読み漁った。
「授乳」「タダイマトビラ」「マウス」と読んでいき、ここでふと「このままのペースで読み進めてはいずれ全て読み切ってしまう、もったいない」と読むのをやめた。
それからは、エッセイを読んだり、コンビニ人間を改めてオーディブルで聞いたりした。
改めて読み直した(聞き直した)コンビニ人間は面白いと思ったが、沙耶香はあえてその異常さを世の中に伝わる形で表現したんだと感じた。
だから、わたしにはパンチが足りず最初は刺さらなかったんだと思う。
しかし、ウケると思って書く文章より、好きで書いた文章の情熱の方が伝わるのだとしたら、コンビニにラブレターを書いてしまうほどの愛情を持って書かれた「コンビニ人間」が芥川賞を取るのは当然のようにも思う。
どの作品にも沙耶香からの「この世界はおかしい、その常識って誰が決めたの?」という疑問とそれに対する彼女なりの作品への逃避が滲み出ている。
沙耶香が抱く疑問に、読者自身が当事者意識を持ちやすいのがコンビニ人間だと思ったし、沙耶香の日頃から叫び続けてきた悲鳴が、言語として伝わってきやすい故に、心にチクチクと刺さり目を逸らしたい作品になっていたと思う。
わたしが沙耶香に支えられているのは、わたしもそういった類の世界への疑問をずっと抱き続けているからだ。
当たり前に大多数の人が行えることを同じように行えないわたしは、世界に疑問を抱くか、マイノリティである自分のことを自己否定し続けるしかなかった。
沙耶香が肯定してくれたなんて言葉は30歳にもなって青臭いが「大丈夫、村田沙耶香がいる」と思えるだけで心が救われる。
29歳の最後の日、エッセイ「綺麗なシワの作り方」を読んだ。
それらを執筆している時の沙耶香は、その時のわたしより少し年上で、言ってることはまだ早いようにも思えたけど「30代になるとはこういうことだよ」と教えてくれているような気がした。
エッセイにいる沙耶香は、小説にあるような狂っていて現実離れした異世界の存在ではなく、疑問と時々得られる答えとを繰り返し日々を生きていく、どこにでもいる女性だった。
特別な存在にならなくていい。
けど、大多数の人にもならなくていい。
この世界に疑問があったら、その当たり前は簡単に崩せる氷の上の世界でしかないことを、沙耶香の本を読むといつも感じる。
クレイジー沙耶香なんて呼ばれているらしいけど、世界と沙耶香とどっちが狂ってるんだろうね。
最近、読み尽くすのが怖くて手元に沙耶香の本を置いておかなくなった。
そしたら、なんだか日々が不安でしかたなくなっている。
「大丈夫、わたしには村田沙耶香がいる」
と思えるように、今日は本屋に行こうと思う。
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