「愛すること」と「資本主義」
年末年始、ありがたいことにおやすみが長くてとにかくだらだらだらだらしていたら、だらだらしすぎでなんだか危機感を感じた。
あまりに怠惰に過ごしすぎると「わたし、ほんとだめだ、、」という感覚に陥ることがわかったので、この連休はできるだけ本を読んだり、意味のある映像や番組をみたりして自分への栄養を摂取するようにしている。
それで。
この間Twitterで流れてきたこの記事をみて、はーーー!。と思い。
今週末はこれをみたり、
これを借りて読んできたりしている。
それで、まさに「目うろこ」だったことがあった。
『100分de 名著 名作セレクション』の冒頭の1冊の「愛するということ- エーリッヒ・フロム」についての解説の部分。
「愛するということ」。自分では絶対手に取らなそうなという本だ。
現代人は愛について誤解をしているとフロムはいいます。そして多くみられる誤解を三つに分けて分類しています。
一つ目の誤解は「どうすれば愛されるか」ばかりに気を取られているということです。「どうすれば愛することが出来るか」という問題には、なかなか意識が及びません。
二つ目の誤解は愛の問題を「能力」としてではなく、「対象」の問題として捉えてしまうことです。高度に発達した資本主義にどっぷり浸かった現代人は、相手が「市場」での交換にふさわしいかどうかを気にしがちです。出来れば「掘り出し物」を好条件で落札したいと考えます。その結果「ふさわしい人が見つからない」という結果になってしまうのです。
自分が感じている違和感は資本主義や貨幣主義経済とかに結びついているものなのだろうと思って、最近NHKの「欲望の資本論」を2018年まで遡ってみたり(初めてみた昨年2019年のものがわたしにはガツンときた)、↑みたいな資本論関係の解説番組をみたりしている。(資本論読めよ、ですが。学生時代何をしていたのか私は、、、、)
だけれど、まさかこの現代の「愛するということ」にも資本主義の影響があるとはまったく思ってもみなかった。びっくりした。
上記から特に目からうろこが落ちたのはここ。
高度に発達した資本主義にどっぷり浸かった現代人は、相手が「市場」での交換にふさわしいかどうかを気にしがちです。出来れば「掘り出し物」を好条件で落札したいと考えます。
こんなふうに考えてみたことなかったけれど、自分のことを振り返ると、そう言われるとその通りだ、と思えてくる。むむむむむ。
私には「愛する能力」が足りない。
「愛するということ」を少しは考えてみたほうがよさそうだ。と思えた令和2年の成人式の日。
写真は愛する姪っ子家族を後ろから撮影@2020年箱根駅伝
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