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本当の大和魂と神道

難しいお話は人気がないのですが
自分の記録として
今思うことをつらつらと
したためておこうと思う。

【大和魂と神道】

神社の信仰を奉ずる神職として、
己の心の深い深いところで
「神様さまとは?生きることとは?」
ということを
静かにひたすら静かに求道しなければならないと私は、常に思っている。
と言うと
冒頭から、とても情熱的な表現になってしまって、誤解を招いてはいけないが、

その求道する手段として、精神的、スピリチュアル的なところからではなく、
学問として、常に自分のなかで整理していく作業の必要性を最近はとても感ずるようになった。今頃気づいては遅いのだが…。

そのためには、神職として、
古学の学問に常に触れておく重要性があると思う。

基本的なことではあるのだが、
2000余年より継承される
神まつりに対する古来からの価値観を崩してはいけないということもあるし、
日本の神様への信仰の本質はなにか?ということをずっと探求することに大きな価値を得るのである。

なぜ古学、皇朝学などの
学問を修め学ぶべきなのか?

それは本居宣長が常に論じたところ、
学問とは
人としてどう生きるか
人としての「道」を知るためなのである。

つまり
日本人として「道」を間違わないために
古道、古学という学問を、学ぶということなのである。

では、
その「道」とはなにか?
そして神道の道とはなにか?

道とは、
天照皇大神の道であり(神宮の神)
歴代天皇が践まれた(ふまれた)道である。

その道を知ることで日本の歴史を知り
大和魂(やまとこころ)を知る。
更に申せば、
大和魂とは神道である。と私は思う。

ここで蛇足だが、
大和魂といえば、昨今のイメージとしては、
根性とか、卓逸した努力をみせるとか、
粉骨砕身の奉公の精神など、封建的な
いわゆる「武士道」のような
精神をイメージするが、
そうではない。
例えば、
新渡戸稲造の『武士道』は最たるもので、とても綺麗な文章で、解りやすく武士道を説いているが、気をつけて読み進めないと
武士道なのか?大和魂なのか?
漢意(からごころ)が混ざっているので、
混乱をしてしまう。
武士道は朱子学や陽明学、儒教の影響を、強く受けているので武士道と大和魂とは関連はしているもののまったく違う土台にある。

さて、それでは
大和魂(やまとごころ)とは、なんなのであろうか?

それは
「もののあわれをしる」
ということなのである。

もののあわれをしる
というのは、
あわれというと可哀想と解釈したいところだが
それは間違い。
例えば、四季に触れ体感し、情操的に心に感じるものや、花を見て綺麗だと感じる心、風を感じて心を動かし、恋を知り歌を詠み、家族や友の情を知り、物事の本質に触れたとき、喜怒哀楽に涙する。または、人への心遣い、人の情けを知る。人の痛みを知る。
こうした
日本人独自の感受性を大切にすること。

これが大和魂(やまとこころ)であると
そう私は思う。

その事は、本居宣長の数々の著書にも熱く感じられる。

敷島の大和魂を人問わば
朝日に匂ふ山桜花

これも大和魂と桜なので
散り際の美の精神と武士道とを結べそうであるがその解釈は間違えで、
素直に、朝日に山桜が映えていて感動する心が日本人の魂だよと
本居宣長は詠んでいるのである。
つまり
大和魂とは、
もののあわれを知ることなのである。

もののあわれを知るには、
古事記を読み、万葉集で歌に触れ
いにしえの人の心を知り
少しずつ学問をしていくことなのであると。
そういったことを
『うひやまぶみ』にて本居宣長が述べている。
また、
注意すべきは
漢意(からごころ)朱子学や儒教などの
外国の学問や考え方を洗いおとしてから、
素直に大和魂を学ぶことが大切である。

要するに、古道をしっかり学ぶことは
日本人として
生きるとはなにか?を学び
人の痛みや人の情を知ることなのである。

神道と大和魂は同義であるといえるのでは
なかろうか。

参考図書
『うひやまぶみ』

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