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猫と酔っぱらいのブルース

『からすみ』という食べ物がある。
ボラの卵巣を塩漬けして乾燥させたもので、これをちびちび食べながら、ちびちびと一杯やるのが、のんべえの愉しみなんだそうである。
わたしは焼き鳥かじってビールを一杯飲めばスッコーーンと眠れるタイプなので、”ちびちび” と “しみじみ”を杯で語るような時の過ごしかたを知らない。

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ああ、美味しそうだ。
冷酒にしようか。白ワインにしようか。
しかし私は特別な時にしかお酒を飲まない。なぜなら、めっぽう弱いのだ。
いっぽう母は大酒飲みである。酒にまつわるエピソードが後を絶たない。

ある日のこと、母からある疑いをかけられた。
「冷蔵庫にしまっておいた『からすみ』がない。どこへやった?いただき物なのに、まだほんの少ししか食べてないのに、どこやった?正直に言いな。怒らないから。」

心外である。

一、そもそも私は、ふだんお酒を飲まない。
二、当時わたしは21歳で、からすみの良さを、まだ知らない。
三、大人の「怒らないから」は、アテにならない。

心外である。

知らぬ存ぜぬが通用しないので「自分で食べたんじゃないの?」と反撃したが「あーんなもん、いっぺんに食べるもんじゃないよ!」とまた騒ぎ始めたので、私はイヤホンを耳につっこみボリュームを上げた。
しばらく夢中で聴いていると何やら雑音が混じる。気になってイヤホンを外すと母の奇妙なこえが聞こえた。

あ”ーーーーー!!!??

慌てて声のする部屋へ行くと、押入れの前で母が立ち尽くしていた。
手には親子げんかの元となった『からすみ』を持ち、目をまるくしている。

「どしたの?」

「あった。」

「そりゃわかってるよ。どこに?」

「ここ……。ココ!!」

と母がゆびを指したのは、押入れの中に積み上げられた、布団と布団の間である。大事なことなのでもう一度言う。

布団と布団の間から『からすみ』!
切る前の姿はこう!

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ありえない。

こんなもんが冷蔵庫から脱走し、押入れの、ましてや布団と布団の間から御用になるなんて。ありえない。

わたしはまたイライラし始めた。
(やっぱり犯人はあんたじゃないか。なにが怒らないから正直に言ってごらんだ、ふざけんな。まいにちまいにち酔っぱらいやがって)と、心の中で言うはずが声にでていた。いつもならここでもうひとバトル始まるが、この日は違った。なんと、可愛がってる猫に罪をなすりつけたのである。

「そんなわけないでしょう?」と、冷静にわたしは口をひらく。

「そんなわけがあんのよぅ!」と、ちょっと聞いてよ奥さん!風に母が言う。

もうどうでもいいや。と、テキトーに相づちを打っていたが、よく見てみろといわんばかりに「ほら!」と突き出された『からすみ』には、明らかに人間の歯形ではない小さな痕跡があった。

いやいやいや……。

猫が冷蔵庫をあけて『からすみ』をくわえて冷蔵庫をしめて、お気に入りの場所かなにかで少しかじり、こりゃうんめぇ!だいじに食べよう!と布団と布団のあいだに隠したというのか?押入れは猫の秘密基地になってるから襖は開けっ放しだが、それにしたって布団の上ではなく間に押し込むのはかなりの技がいるんじゃないだろうか。でもあの身体能力なら……。

もしや…

なんせやんちゃな猫である。ベランダの窓を器用に開け、子分(猫と犬)を引き連れて脱走し、人間が騒ぎはじめると、しれっと自分だけ部屋に帰ってきてるような猫であるし、母は常にべろんべろんだ。つまり我が家の要注意にゃん(人)物たちである。

…共犯?

答えはわかりようもないのだが、20数年経った今でも伝説の怪事件である。「あいつには参ったねー!」と母が目をほそめて言うので、未だに共犯の自覚はないらしい。そしてわたしを疑ったことなぞ記憶にさえなってないのだ。

なじみの居酒屋で、『雑巾猫』と呼ばれていたその子猫を、酔った勢いで連れてきたのは母であった。犬一筋だった我が家にはじめてやってきた猫である。

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わたしはそのユニークな顔立ちの猫を『花』と名付けた。
あんなにやんちゃだったのに、年齢とともに蓮の花が似合う生き物になっていった。うちに遊びにくる人たちは彼女を『先生』とか『仙人』と呼ぶようになっていた。

「花ちゃんや。あのときお前も “ちびちび” とやったのかい?
母さんはね、相変わらず酔っ払っているよ。」

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