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世界はたくさんの適当でできている

最近わかってきたこと。
世間は「たくさんの完璧」を求めてくるけど、実際のところ世界は「たくさんの適当」でできているらしい。

私は今まで「たくさんの完璧」、つまりまずは「一回の完璧」を実現しようと頑張ってきたけど、それは間違った方向への努力だった。なぜなら人間に完璧など無理だから。
するべき努力は「たくさんの適当」を積み上げることで(点ではなく)線で見たときに「完璧」になることのようだ。

これに気づいたのは湯船に浸かっているときだった。
私は潔癖と完璧主義の掛け合わせのような部分があって、「お風呂が完全に磨かれていないと気持ちが悪い(しかし私には完全に磨く能力がない)」と湯船を使うのを避けていた。
だけど湯船の掃除って多分一回で100%きれいにするというよりは毎回とりあえず洗うことで「とりあえず」が積み重なっていつか全体が掃除されるものなんだろうな、と気づいた。

たとえば銭湯だと想像しやすいかと思う。銭湯なんて広いし絶対細かいところまで全部一回で完璧に掃除するなんて無理で、ケルヒャーを使って消毒液を撒くような特殊な業者を毎日雇ってるとかもないだろう。でも人々はその清潔レベルを許容しているわけで、私もまあそこそこに許している(汚いだろうなとは思っているけど心を無にすることで使える)。
あと追い焚き機能というのも湯船を毎回は洗わない人の存在を示していると思う。

そう考えると人は私が想像している以上にちゃんと洗われていない(100%のきれいさではない)風呂に入っている。
なんかそれでいいんだ?って思った。意外と人は適当を大っぴらに許容しているしそれでいいんだって。

これがわかったところで私の潔癖気味完璧主義傾向がすぐ直るわけではないと思うけど、みんなも適当で妥協していると分かってよかった。みんなは完璧にできていて私だけ適当しかできないのかと思っていた。

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