見出し画像

【九州へのんびり秋旅行4日目/雲仙普賢岳/大火砕流から32年】~世界もココロもグラデーションでできている~394

こんにちは
八彩理絵子(やいろりえこ)です。

前回は欲求を抑えられない自分を笑ってしまう私のことを書きました。
まさに能天気やなぁ
お時間許す方こちらの記事に行ってみて~おもろいと思う(自分で言うなw)


昨日のハロウィンはみなさま楽しまれましたか?(もう昨日でなくなってしまったw)


さてさて
今回はのんびり旅行にゆっくりと戻ります。

フェリーで島原半島のさきっぽ口の澤港に着いたのがすでに15時半

ここから本日のお宿の雲仙に向かいました。今回雲仙普賢岳を見たいと思っていました。お宿の確認ができたので、そのまま普賢岳に向かいました。
途中何やらすごい湯けむりが立ち込めていたので、帰りには寄ることに・・・

・仁田峠循環道路の通行時間は4~10月は8~18時、11~3月は8~17時。
これから計画されてる方は8~17時です

・以前有料だった仁田峠循環道路は協力金制で目安100円でした。
 車は200円だったかな・・・?

入口ゲートから間もなく管理事務所があり、そちらで協力金をお支払いします。

一方通行です。

16時半をまわっていました

仁田峠第2展望所

晴れていたのでこのようにクッキリと見えました。


平成新山の成り立ち

晴れた日にはこのように平成新山(1483m)の山頂を望むことができます。
平成新山は、平成初期の火山活動により形成された溶岩ドームです。この火山活動による噴火は1990年(平成2年)11月に始まり、5年間続きました。1991年(平成3年)6月3日に起きた火砕流では、40名の方が亡くなり、3名の方が行方不明、179棟の家屋が被災しました。当時の写真では、火砕流により破壊された町並みが写されています。また、この時発生した土石流は有明海まで達しました。
1998年(平成10年)ごろには平成新山も安定し、荒廃した山肌にも植物が再び芽吹き始めました。現在では、火山活動直後の荒れ地はほぼ見られないほど植生が回復しています。

第2展望所からはこのような景色も・・・👇


次の日にはジオと火山の体験ミュージアム『がまだすドーム』に行きました。
今回はそちらも合わせて書いていきます。


(重複部分ありますが・・・)
雲仙普賢岳は、平成2年(1990年)11月17日に198年ぶりに噴火し、平成3年5月15日には水無川で最初の土石流が発生しました。溶岩ドームは5月20日に出現し、5月26日、6月3日には火砕流により死傷者、行方不明者が発生し、堆積物により土石流の発生しやすい状態であった水無川から溢れ出た土砂によっておおきな被害をうけました。
その土石流が海を埋めてできた新しい陸地に建設されたのが、火山のすべてを体験できる日本で初めての体験型火山ミュージアム「雲仙岳災害記念館」です。愛称「がまだすドーム」といい、がまだすとは島原地方の方言で「がんばる」という意味です。1996年の噴火終息宣言まで、この地で何が起き、何が残ったのか、自然の驚異と災害の教訓を風化させることなく正確に後世へ残すためにつくられました。

https://www.udmh.or.jp/

https://www.city.shimabara.lg.jp/kanko/page945.html


がまだすドーム
中央上部が展望デッキ
東日本大震災ではあのデッキのあたりまで津波が・・・

入館してすぐの右側に亡くなられた報道カメラマンの方のカメラがガラスケースの中に展示されていました。そのカメラを見ただけで😢
焼け焦げたカメラの中のフィルムが奇跡的に再生でき火砕流に襲われる瞬間までが撮影されていました。カメラの横にTVが設置されており、その時の映像と火砕流が起きた前後の様子がまとめられたものが流れておりました。

見入ってしまい😢だんだん苦しくなってしまいました。
あの大火砕流が起きた時、報道関係の方々、消防団員、警察官の方々、タクシーの運転手の方、それぞれの方がご自分の使命を果たそうとしていたのだろうと思うとなんとも・・・当時は火砕流についての認識も薄かったといわれています。その当時のその日の行動などに関してはその後の教訓として多くのことを投げかけることとなりました。43人もの尊い命が奪われたことは悲しい事実です。

犠牲となられた43人の方のご冥福をお祈りいたします。




ぐにゃぐにゃに曲がったガードレールが
火砕流の熱を想像させました

かなりの時間見学しました。


こうして実際に小学校を目にするとまた、熱風のすさまじさが感じられました。今回どのように記事を書くのかたいへん迷っていました。焼け焦げた報道カメラにスマホを向けることはできませんでした😢一刻も早くにその場から離れたい気持ちとしっかりと観ようという気持ちが行き来していたような感覚でした。

ただ、当然のことですが、地球は生きているということを改めて感じましたし、津波の高さにも驚きました。あの高い展望デッキの途中まで津波の高さがあったということが衝撃でした。TVのニュースで聞いていたはずの数字、でも想像を超えていた。地震も火山の噴火も避けられない災害。しかし、その時に命を守る行動をとることができるかは、これまでの災害を他人事ではなく自分事として考えることが大事なのではないかと考えさせられました。「知らなかった」ではなく頭のどこかに情報として知っておくことは行動に繋がると思う。それにはやはり伝えていくことが必要だと思いました。

津波の到達高(女川漁港)となっております
見づらいですが展望デッキの窓です

『2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東日本大震災で宮城県牡鹿群女川町を襲った巨大津波の高さを表示しています。

1792年(寛政4年)5月21日に起きた眉山大崩壊(島原大変)の際にはこのあたりでも標高約12mの地点まで津波が押し寄せました』

とありました。

詳しくはこちらをご覧ください
https://www.city.shimabara.lg.jp/page2241.html

展望デッキから海側を
静かです


今日はここまでになります。
ここまで読んでいただき
ありがとうございました。


今日はどの様に書いたらいいのか?どこまで書いていいのか?心が揺れ動いてしまいましたが、災害とどう向き合うのか問われたような感覚でした。


最後まで読んでくださり
ありがとうございます。

大切なお時間をありがとうございました。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?