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いま改めて自分の言葉でオリンピックを考える

TOKYOオリンピック2020大会の問題が次々と出てくるのに、もう今週7月21日には競技が開始され、23日に開会式が執り行われる。
市民感情とは別のところで何かが渦巻き、着々と日々は過ぎていき、政府や関係者は「安心安全」を連呼し、オリンピックが始まれば、感動の御涙頂戴でなんか黙らせようとしている気がしてならない。
誰のためのオリンピックなんだ?オリンピック憲章とはなんなんだ?オリンピズムとはなんなんだ?とにかくよくわからないけど賛成も反対も意見しづらく、空気だけが日本全国をどよんと佇んでいる。
それでもオリンピックの中止を求める宇都宮けんじさんの行う「人々の命と暮らしを守るために、東京五輪の開催中止を求めます Cancel the Tokyo Olympics to protect our lives」というオンライン著名は現在45万人を超えた。

さあ、私はいま、オリンピックをどう捉えたいのだろうか。

マスメディアの空気にのっかればいいのだろうか、好きなコメンテーターの意見に同調しとけばいいのだろうか、「なんだかんだオリンピックが始まっちゃえば応援するよね」って”お気楽”に発言してていいのだろうか。

なんかどれもモヤモヤする。

今自分が、中止を叫びたいとか賛成に向かって気持ちを作っていきたいとかそんな話ではなくて、自分が一主権者としてどんな意見を持つのかを自分自身が自覚していたい。そう思って考えてみる。

ねぇ、オリンピック関係で日本には何が起こっているの?

現在、開催都市である東京都は新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、第5波か?という論調もあり、実際緊急事態宣言が出されている。ゲームチェンジャーであったはずのコロナワクチンの摂取率はNHKの特設サイトによると2回摂取できている人は、15%を越したところだ。

昨日飛び込んできたニュースは、「国立競技場でウズベキスタン人スタッフが性的暴行容疑で逮捕」「五輪選手村 新型コロナ陽性は南アのサッカー男子選手2人」。

そして本日からは「19日 首都高でロードプライシング開始 渋滞緩和へ、五輪で実験」。で、今世間を騒がしているのが「五輪開会式作曲担当 小山田圭吾さん “過去のいじめ告白”謝罪」正直、若気の至りではすまない内容だろうが、人間が変わる生き物だと信じている私も、大人になってから面白おかしく暴露しているのには疑問符がたくさんついてしまう。

それに最近のトピックで言うと、バッハ会長のゼロリスク発言にチャイニーズ間違いバッハ会長の歓迎会。バブル方式の穴。無観客決定にチケットの問題。ウガンダ選手の逃亡。選手村に韓国選手団が掲げた横断幕。

東京湾の水質問題は残ったままで、ボランティアの問題も。スポンサーやマスメディアの姿勢も問われているし、森喜朗会長の女性蔑視発言による辞任もあり、昨年12月には演出チームは解散、当時総合統括だったクリエイティブディレクターの佐々木宏氏の侮辱的演出のアイデアが大問題となり辞任。

振り返れば、新国立競技場のザハ・ハディド案の白紙化。エンブレムの白紙撤回。招致めぐる贈賄疑惑。真夏の東京による熱中症への対策としてマラソン会場の変更などなど、あげたらキリがない。

日本の悪いところ福袋でも開けたんか?と言ったように出てくる問題発言に意思決定の先送り。そもそもオリンピックが商業化していること事態に疑念を抱かずにはいられないし、新型コロナ以前に東京になぜオリンピックを誘致した?と言う声もあるだろう。小学校の運動会や修学旅行は中止されなぜオリンピックはOK?という声だって、なぜ飲食店だけ我慢を強いられる?という声だって聞こえないふりなんてできない。

それでも選手は「競技をするだけです」という存在なのか

だからといって、選手がボイコットすればいいと言う話なのだろうか。

んー…1番の当事者とも言える選手たち。自分たちの競技環境、それを取り巻く社会に関して無視していいとは思えないけど、コンディションを整える時期であることも確かだ。それに、じゃあ自分のオリンピック反対という意見を、開催有無の意思決定を直接は下させない選手にぶつけてどうするんだという気持ちもある。

私個人としては、選手には安心して発信してほしい。オリンピックに対しての複雑な思いも。ただ、今の日本のネット社会はその”安心感”はないだろう。「競技をするだけです」しか言えないのではないだろうか。社会の動きやオリンピックの問題を無視しているわけでもないだろう。思考停止させているわけではなく、選手が精神的に(もしくは身体的に)安全な発信をするために「競技に集中させてくれ」というメッセージを出しているのではないかと私は思ったりする。

オリンピックってなんで行うの?

商業化していることや、政治利用されていることなどが問題視されているが、自分自身の意見を改めて考えるために「オリンピック・アゴラ」という展示をみてきた。

そこにはこう記載してあった。

オリンピズムは人生哲学と精神性という理念に基づいています。クーベルタンはスポーツマンとしても教育者としても、体と心の調和、努力の喜び、素晴らしいパフォーマンスのための苦闘、そして他者への敬意を信じていました。そしてそれこそがオリンピズムの基礎となっています。

(※クーベルタンとは19世紀終わりにオリンピックを現代に復活させた人物)

スポーツを通して、自己と向き合い、他者の存在を認識し、同じ時を分かち合う。自分もスポーツをしていた身からすると、共感する部分である。
ただ、日本ではそんな部分がすっかり注目されず、インバウンド需要や経済復興などが掲げられ、競技直前からいきなり”感動”の売り込みが始まってしまう気がする。

スポーツだけが特別なのか?という議論もあるが、それは古代ギリシャの祭典を現代に復活させ、近代オリンピックとして意義や象徴性を築き上げてきた人々の功績であって、”商業化”や”政治利用”とは少し論点を整理して話した方がいいような気もする。

新しいオリンピックの姿を模索できなかったのか

「オリンピック・アゴラ」の展示は、いろいろな感情が渦巻いた。自分の生きている前の時代から継続している世界的スポーツ大会があることを再認識し、スポーツを通じて社会へ発信する選手たちの紹介をみたら、感動せざるをえなかった。

でも先述したようにこんだけ問題があるのに、歓迎できるだろうか?と言われると、いいえ、と答えたい。

どうしたら良いんだろうか。オリンピック開催を目前として今できること。

私は、友達と「オリンピック・アゴラ」の展示をみたが、そこでの会話がヒントになる気がした。
オリンピックポスターを見ながら「このオリンピック2カ所で同時開催されているけどなんでだっけ?」「昔のオリンピックの期間、2ヶ月とかだけどなんでなんだろう?」「トーチの技術ってどうなっているのかな?」「過去のオリンピック開会式の演出だけでも映画館で見たいし、Netflixで配信されてたら見るよね?それで無観客分のお金どうにかできらんのかな」「この開会式、気候変動もテーマにしていて、この衣装はブラジルの植物なんだってさ」「難民選手団っていうのがあるけど、日本は難民の受け入れで課題があり、亡くなった方もいるんだよ」などなど。

私たちは、オリンピックにまつわる”社会”に目を向けながら話をしていった。しかし、そんなことは展示に解説されてあったわけではない。そして、オリンピックが始まっても繋げて話されることは少ないだろう。選手の生い立ちや家族愛、努力などが語られていくのだろう。

オリンピズムは人生哲学と精神性という理念に基づいています。

と書かれていたが、オリンピック憲章の1つ目は

オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。 オリンピズムはスポーツを文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである。 その生き方は努力する喜び、 良い模範であることの教育的価値、 社会的な責任、 さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。

この、「文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求する」というのは今どこで達成されているのだろうか。達成しようとしているのだろうか。

せっかくの機会だ。オリンピックというタイミングで「社会」に、「世界」に、そしてそこにある「課題」に目を向けてみないか?と思う。商業でも、政治でもなく、我ら地球に住む一員として、「課題」を分かち合う瞬間にアップデートできないのだろうか。

それこそがスポーツを通して、「文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求する」道となり、オリンピックの中心の議題になるといいなと感じている。

だから、改めて自分の言葉でオリンピックを考えると

オリンピックから「社会」をのぞいてみたい。スポーツに感動しながら、そこにあるバックボーンや技術や課題を感じていたい。そんなオリンピックを望む。
もうたくさん日本の「課題」は出てきた。それをみんなで検証しよう。考えてみよう。スポーツを楽しみながら。

もし、そんなオリンピック、パラリンピックの期間であればぜひ歓迎したい。

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