情報ノック屋さんであり、仲人師であり、たったひとつの心
初めて「夢」を持ったとき、私は「忍者」と答えていた。そのあとも誰にも言えなかったけど小学3年生か4年生ぐらいまで本気で「魔法使い」になりたかった。でも小学校の卒業文集に書いたのは悩みに悩み「環境に関わる仕事」だった。
小さい頃からお母さんの仕事に憧れて「保育士」になりたく、今現在「保育士」になった妹が本当にすごいなと思うぐらい私の夢はコロコロと変わった。
中学時代はファッション雑誌をかじりつくように読んで、自分で服も作ったし、リメイクもしていたから、「ファッションに関わる仕事」につきたかった。
けど、私に敷かれていたレールは「大学に行ってほしい」だったし、そのための「進学校に行くこと」であった。田舎の進学校でそんなに偏差値が高いわけではないから当然のごとくその道を歩むことが大前提にあった。きっと親が言うならその道が一番夢が開けるのだと思っていたし。
高校では「夢」なんていきなり問われなくなり「国立大学に行くための勉強」が始まった。体裁的に「自分のやりたいことを考えて学部を選びなさい」と言われるけど、自分のやりたいことと学部がどう結びつくのかもわからない。そもそも自分のやりたいことを深掘りする方法もわからず、世の中の仕事もわからず、「文房具が好きでデザインしてみたい」と答えたら、「理系の苦手なあなたには無理、文系に進んだ方がいいと思う」と先生に言われて文系に進んだ。
私は大人に言われるがままに生きていたのだろうか
きっと私は”大人”の助言に沿って生きてきたとは思う。
だけどそこでモヤモヤも同時に感じていた。
「なんのために勉強するの?」「仕事ってどんな種類があるの?」「夢ってどうやったら叶うの?」
ただただ世の中を知らなかったんだと思う。だから私はそのとき
「偏差値のための勉強だけじゃなくて、自分の将来をじっくり考えられる場所が欲しい。そして世の中や社会は広いことを教えてくれる大人が欲しい。なぜないの?」
と思っていた。そして人生のいろいろな体験をしたら、自分の高校の前に、自習室と食堂と居酒屋が合体したようなコミュニティスペースをつくりたいと最終的な夢を持つようになった。
高校生には好きに勉強してもらう、だけどその場所では知識が社会につながっていくような展示を行って、世界の広さを知ってもらいたい。たまにはまちの課題に繋がるような展示も行って、生活と自分のまちと世界がいろんな部分で重なり合い結びつくようにしたい。そしてたまにはイベントもしたいし、メンターというかそこにいる人として、一緒に話しながら悩んで考えて相談ができるような環境にもしたい。
そして大人が来れるような食堂や居酒屋の機能もくっつけて、夢を語っている大人の姿を見せれたらなと思う。
全部全部理想。だけどこれは高校生の私がみたかった世界。あったらよかったと思う姿。
だから私は大人の敷いたレールを歩みながらそのひずみで出てきた「夢」をしっかり握りしめていたと思う。
思えば小さい頃からやりたいことは変わってないのかも
「忍者」「魔法使い」「環境に関わる仕事」「ファッションに関する仕事」「文房具をつくる仕事」いろいろ思ってきたけど、根本的には「世界を変えてみたかった」んだと思う。自分が働くという行為で、世の中の幸せが1個でも増えたらいいなって思ってたんだと思う。
そんな私は結局今、カルチュア・インフラをつくる会社で公共について考えて仕事をしている。
「世界を変えたい」だから「企画」がしたい。
そんな気持ちで今の会社を受けた。そして運が導いて、公共に関わる仕事にやってきた。私の最終的な夢にすごく近く、高校時代もがき、アイデンティティに苦しみながらも握りしめていた「夢」は、今の自分を支えている。
この記事にも記載したが、私の今の夢は「地方格差や貧富の差に関係なく『知ることは面白い』を感じてもらい、社会の主体者を増やしたい!」で、そのために「情報を知る→自分の興味や好きに気づく→考える→行動する・参加する」という一連の流れを編集や発信、相談によって実現させたいと思っている。
でも実際に働いてみたらさ
働いてみると「働く」という行為自体が普通に難しい。8時間仕事をすることは苦ではないけど、なんだろう、意思決定が自分にない中で、でも「夢」を持ちながらアイデアを出し続け、目の前の課題に対しても解決を図っていく。楽しいんだけど、心は疲れる。
そして私は心が疲れて動けなくなった。うつ病だった。
大好きな仕事だ、不満も何もないはずだ。だけど周りとどうしても意見が合わない。合わせようと話し合ってみるものの、どこかポイントというか論点が違う。伝わらなさ、伝えれらなさで、どこかで相手と折り合いをつけようと自分の意見を心にしまい続けたら心がパンパンになった。もう無理ですって。
「夢」とか「こんな社会になった方がいい」とかそんな観点から話してしまう。「頼まれたこと」から仕事をしている人と、どうしても同じ「課題」を見つけてクリアしようとしても、見る面が違うのだから話が合わなくなってしまう。そしてその話が合わない理由を自分自身がわからなかったから苦しく、相手も困らせてしまった。
カウンセラーにカウンセリングをしてもらい、自分の心の中を大切にすること、もっと出すこと、相手との認知の違いなどを教えてもらい、上司にもうつ病であることを理解してもらい、現在もうつ症状と付き合いながら働いている。
わたしが心地よく働くためには
うつ病だけど、私の場合はたくさんある自分の中の意見を我慢していたから出てきた症状だった。だから相手がなぜその意見をいうのかを認識した上で自分の意見は余すことなく伝えるようにした。それが採用されようがしまいが、私自身が納得いくように。
そして、心を保つために1つの行動を始めた。
「とにかく勉強会」という名のチャットをつくって毎日情報発信をすること。
これを情報ノックと呼んでいるけど、球場には人がいるものの、みんな観客席でグランドにいないときもある。だけどそれでも打ち続ける。今自分が考えたこと、知ったこと、新しい情報をみんなとシェアしたいから。その方が自分の心が穏やかになるから。
社内的な意味としても「それぞれの部署で同じようなことを調べているのならもったいないから情報共有をしよう」とし、ルールを3つ定めた。
①自分が学びになった!と思うことならテーマはなんでもOK
②気になったら相手の意見を尊重してコメントを
③情報に優劣をつけない
(年長者だから、情報量が多いからですごいと思わなくていい、フラットな場)
今は45人ぐらいのチャットだけど、毎日情報を打ち込んでいる。
自分の心を大切に心地よく働いていたら起きたこと
私が毎日情報ノックをするから、読んでくれている人とは話がスムーズになった。私がどんなことを普段考えていて、どんなことに問題意識があるのか、そもそもの部分を相手が理解してくれたことで、話でぽろっと出した用語やフレーズも「あーあれね!」となるようになった。
それにこの「とにかく勉強会」にはいろんな部署の人が入っている。そしたら一緒にコラボしようよ!なんてことが出てきて、現在4つぐらい社内の人たちを仲人した。ついに社外とも1つ仲人も行った。
すごく草の根的な動きではあるけど、少しずつ会社の横のつながりを作って今まではできなかった価値の創造をちっちゃくてもできているのかな?と思うと自分が直接その業務には関わってなくても嬉しい。
私は自分ではじめた「とにかく勉強会」で自由になれた。うつ症状も少しずつ付き合っていくものとして今の私の心の中に共存している。
社会人6年目、まだいい働き方ができているのか、と言われるとよくわからない。でも、私は私のペースでいく。どんなに悲しくて自分に自信がなくなっても、なぜか「夢」だけは自分を照らし続けてくれたので。そんな「夢」のために、今日も情報ノックからしたいと思う。
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