見出し画像

vol.13 ものづくりの思いを言葉にして伝える 【ひかり味噌󠄀】

経営者とブランディングデザイナー西澤明洋が対談し、ブランドの成長ストーリーを振り返りお届けするシリーズ「BRAND STORY」。

執筆・編集 加藤孝司
撮影 トヤマタクロウ

コーポーレートブランディングから主要商品のパッケージデザインまでを担当しているひかり味噌󠄀は、1936年に長野県下諏訪に創業した、業界3位の売上をもつ味噌󠄀業界の老舗。パッケージにその商品がもつ機能性を見た目にもわかりやすく配置した、「マル有」「マル無」はスーパーマーケットなどの食品売り場で目にする機会も多い。味噌󠄀業界を改革するその先進的なアイデアで、現在、世界中にそのシェアを広げているひかり味噌󠄀。リブランディングに至る背景を語り合ってもらった。

同族経営から組織経営への転換

西澤:今日は味噌󠄀業界の改革者として走り続けられているひかり味噌󠄀さんに、13年間伴走させていただいているお話をうかがえればと思っています。
林:よろしくお願いいたします。リブランディングでロゴをアルファベットにしてもらいましたが、これも業界的には早かった。ちなみにマルで囲ったマークは、これ以降業界にも浸透してきました。

西澤:「マル無」と「マル有」ですね。マルシリーズはひかり味噌󠄀の専売特許的なアプローチでありながら、その後広がっていきました。味噌󠄀の表現のスタンダードをつくることができました。

林:おかげさまでパイオニアにしていただきました(笑)。
ーー早速ですが、林社長の言葉でひかり味噌󠄀という会社について、少し教えてください。

林:長野県下諏訪の創業で私自身は工場の敷地内で生まれ育ちました。ですが、学生時代は家業を継ぐという意識はまったくありませんでした。のちに父親から聞いた話ですが、いつ潰れてもおかしくない小さな会社を息子に継がせるわけにはいかない、という親心もあったそうです。

西澤:そうでしたか。

林:私自身は中学生の頃から横文字文化が好きで、西洋史は好きだけど日本史は嫌い、英語の成績はクラスでトップでした。就職活動でも海外の仕事がしたくて、現在のセイコーエプソンに入社しました。12年間務めたのですが、その間、アメリカ1年、イギリスに5年赴任させていただいて、仕事はものすごく楽しかったです。

西澤:セイコーエプソンにお勤めの間の半分が海外だったんですね。

林:そうです。それでイギリスにいるときに、ひっきりなしに実家に帰ってきてくれと親から連絡がありまして。

代表取締役社長 林善博氏
1960年長野県生まれ。1982年慶應義塾大学法学部卒業後、信州精器株式会社(現セイコーエプソン株式会社)入社。94年に同社を退職、ひかり味噌󠄀株式会社に入社し、2000年4月より代表取締役社長。1997年に味噌󠄀業界で初となる米国有機認証団体の認証、2000年に有機JAS認証、2008年にEU有機認証を取得し、ブランドメッセージ「自然の恵み、いただきます。」のもと、有機味噌󠄀への取り組みを主力事業としてビジネスを拡大。2012年にはハラール認証を取得するなど、伝統を継承しながら時代に即した新しい事業への挑戦を積極的に続けている。

西澤:それは林社長が30歳前後の頃ですか?

林:はい。それで親を見捨てるわけにもいかなくて、93年にイギリスから帰ってすぐにひかり味噌󠄀に入りました。ですが、家業を継ぐというよりも、転職、今で言うキャリアアップのつもりでひかり味噌󠄀に入りましたので、どうせやるなら徹底的に変えてやるという、今考えれば、少し高飛車な気持ちがありました。若いですよね。だから、親からしてみれば、帰ってきてはくれたものの、ことごとくぶつかるという感じだったと思います。

西澤:それはすごい……。

林:役員は林という名前がつく者しかいない、いわゆる同族企業でした。役員会自体もエプソン時代と比べると、課長会以下という内容なんです。
地元ではひかり味噌󠄀は、同族には甘いが社員には厳しいと噂されていたそうです。それでこれはいかんと、同族経営ではなく組織経営にしなければならないと思いました。ですが、企業として一定の規模にならないと、人材は集まりませんよね。ですので、とにかく会社を大きくしたいと思っていました。

100億円企業を目指して

林:その気持ちは今も変わりがなくて、食品業界に関わらず中途採用を必死でやっています。異なるバックグラウンドをもった人材がたくさん集まり、そういう人たちが管理職も担ってきてくれたことが、ここまで会社が大きくなった、ひとつの理由だと思います。

西澤:地方に拠点をもつ食品メーカーさんとしてはかなり珍しいことですよね。

林:そうですね。今もそうかもしれませんが、味噌󠄀業界には上場企業が少ない。それはなぜかというと、結局みんな同族企業だからなんですね。多くの中小企業が、オーナーと、他の役員は番頭という位置づけであることがほとんどで、私はそれがもう、嫌で嫌で。

西澤:なるほど。林さんがひかり味噌󠄀に入った当時の売上はどのくらいだったのですか?

林:60億円くらいです。

西澤:当時は飯島グリーン工場はまだなかった頃ですか?

林:いや、私が大学生の頃にこの地に工場ができました。私が社長になったのが、2000年4月でして、その時から中期経営計画の策定をはじめました。3カ年計画で、最初の計画のタイトルに一早く100億円企業になろうという目標から「ステップ100」と付けました。それで、実際に100億円を達成したのが、2002年でした。

西澤:ちょうどCIリニューアルをやらせていただいた当時が100億円を達成されて、数年後くらいだったと記憶しています。

林:私が社長に就任後も、前社長である父親とはぶつかっていたのですが、ありがたかったのは、最後は私のやりたいようにやらせてくれたことです。どんなに激しい議論をしていても、最後はいつも、お前の好きなようにやれ!と捨て台詞を吐いて社長室のドアを閉めて出ていくのです。

西澤:すごい。そこは院政派ではなかったんですね。

林:はい。商品ラインナップや価格設定など、実務的なことばかりではなくて、人事についても口をださなかったですね。ただ、父親が唯一譲らなかったのは、親族の扱いでした。私にとっては叔父や叔母ですが、弟たちを守るのは俺の義務だと最後まで言っていました。実質、追い出すようなかたちにはなりましたので、親族は私のことを恨んでいると思います。

西澤:そんなことがあったんですね。

林:時代の変化に合わせて経営も変わらなければいけないと思い続けてきました。6年前に社外取締役制度を導入したのもそのひとつでした。この規模の企業としては一早くやったほうだとは思うのですが、実際にやってみて難しさも実感しました。彼らを客人のように扱うのは止むを得ないとしても、高度な専門性をもった提言をしてくれない人には、退いてもらいました。

西澤:自ら招聘しておきながら、それは厳しいですね…..。

林:はい。マネージメントや組織編成に関しては、今もって完成形だとは思っていません。今も試行錯誤しています。

これからの時代の、あたらしいCI

西澤:これまでのお話にあったように、つねに新しいことにチャレンジしていく姿勢というのは、保守的な味噌󠄀業界では異色ですよね。

林:そうだったと思いますし、これからもそうでなければならないと思っています。ただ、コロナの前とコロナの後で、経営者の感覚として、全てがリセットした感覚があります。

西澤:と言いますと?


____________________
この続きは、エイトブランディングデザインWEBサイトで全文無料公開中。『ひかり味噌󠄀[ 前編 ] ものづくりの思いを言葉にして伝える』へ

執筆・編集

加藤孝司  Takashi Kato
デザインジャーナリスト/ フォトグラファー
1965年東京生まれ。デザイン、ライフスタイル、アートなどを横断的に探求、執筆。2005年よりはじめたweblog『FORM_story of design』では、デザイン、建築、映画や哲学など、独自の視点から幅広く論考。休日は愛猫ジャスパー(ブリティッシュショートヘアの男の子)とともにすごすことを楽しみにしている。http://form-design.jugem.jp/

撮影

トヤマタクロウ1988年生まれ。写真集や個展での作品発表を中心に、クライアントワークにおいても幅広く活動。http://takurohtoyama.tumblr.com/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?