コンポストから、学んだこと
同じ言葉でも、使う場面によって意味が変わることってある。
例えば「面倒くさい」という言葉がそうだと、昔の上司に営業帰りのカフェで言われたことがある。
「自分の成長に必要なことを前にして『面倒くさい』って言うと、チャンス逃してしまうやろ?これ口癖にすると、周りの成長の流れまで止まってしまうんや。『面倒くさい』壁作るんは、危険やで」。
そう言って、上司は一人で、うんうんと頷きながら、アイスコーヒーを美味しそうに一口飲んだ。その得意げな顔がとても印象的だった。
「でもな、全体を見てる人が『面倒くさい』って言うのは別やで。プロセスから無駄を省こうとしてる。だから経営者はよく『面倒くさい』って言うんや。全体の流れをよくしたいからな」と。
「俺、良いこと言うやろ」とドヤ顔の上司に熱心に耳を傾ける部下を演じるのも「面倒くさい」と当時の私は思ったのだけれど、不思議とその会話は脳の片隅に残った。
八ヶ岳での暮らしは、色々不便だからか、ふとその時の話を思い出すことがある。例えば、別荘地だと「ゴミ捨て」が面倒だと考える人は多いと思う。
確かに、八ヶ岳でのゴミ捨ては手間だ。市の指定袋にゴミを分別して、車で軽くドライブして指定の処理場に持って行く必要がある。しかも、捨てられるのは日曜日の午後だけ。タイミングを逃したら、次の週まで持ち越しだ。
「生ゴミはどうしてるんだろう?」と地元の人に聞いてみたら、「コンポスト使ってるよ」と教えてもらった。
「コンポスト」という言葉を初めて聞いた時は、郵便ポストみたいな公共サービスだと思ったけど、生ゴミを堆肥に変える道具だという。
野菜の皮や果物の芯が土に戻り、栄養豊富な堆肥になると聞いて、「面白そう!」と私も早速取り入れてみた。自分で作った堆肥を畑にまくと、自然のサイクルの一部になったような感覚があった。
今までは、ただのゴミだったものが、ここでは循環して資源に変わっていく。土に還り、また新しい命を育てる。そのサイクルに自分が参加していることが、なんだか感動的だった。
一番の変化は、暮らしの中で廃棄するものが極端に減ったこと。東京にいた頃は、ゴミを捨てることなんて当たり前で、何も考えずにいたけれど、今は「これ、本当に必要?」と一度立ち止まって考えるようになった。
そのおかげで、無駄な買い物が減り、生活がシンプルになった。循環をイメージする感覚が広がり、生活そのものが変わっていくのを感じる。
都会の便利さは確かに魅力的だけど、実はその中に無駄な作業や工程がたくさんあるように思う。
頑張って働いて、お金とストレスをためて、豪華な食事とダイエットに費やすことが本当に生産的だったのか、当時の私に小一時間説教したい気分だ。
自分が本当に求めていることに集中し、自然のリズムに合わせて暮らすことは、思っていたよりもずっと心地よい。
ゴミを出さない生活は、地球全体の流れをスムーズにしているんじゃないか、と密かに思っている。
地球にも優しくなれるし、なんだか地球も私に優しくなってくれているような気がする。
まぶたを閉じて、草木の匂いを感じ、風の声を聞く。八ヶ岳に流れる空気を感じながら、そんなことを考えたりする。
我ながら良い話をしている気がするので、今度、アイスコーヒーをすすりながら、誰かにドヤ顔で語ってみたいと思う。