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喜怒哀楽の心のギア、どこかに入っているのは当たり前じゃない。

喜怒哀楽の感情のギア。
ギアには、もう一つニュートラルというものがある。

でも、世の中には、このギアが、喜怒哀楽のどこかに入りっぱなしで、ニュートラルに戻せない、それどころか、ニュートラルってものがあるということを忘れている人がいたりする。

特に入りやすいギアが、「怒り」と「哀しみ」

この二つのどちらかに、一旦囚われてしまうと、
金太郎あめ状態で、
どこで切っても、どんなきっかけでも、同じ顔が出てくるようになる。


人の悩みのほとんどは、人間関係の悩み

人の悩みは、煎じつめればほぼ「人間関係の悩み」に尽きるらしい。

わたしと、あなた
その対立と葛藤こそが「人の悩み」のほとんど。

心理カウンセラーという仕事があるが、その仕事は、クライアントの愚痴を聞くことではない。

愚痴とは、「悪いあのひと」の話か、
その人に困らされている、かわいそうな、気の毒な「わたし」の話。

この二つは、どんだけ話しても、どんだけ大変な話でも、心理カウンセラーにとって、聞いても仕方のない「愚痴」…問題を解決するのは、カウンセラーの仕事じゃないので。

カウンセラーが相談に乗れるのは、クライアントが、

  • これからどうするか

という話だけ。

カウンセラーが、今から、どの話をしますか?

「悪いあの人の話ですか?かわいそうなわたしの話をされますか?それとも、これからどうするかについて、話しますか?」と聞くと、

たいていの方が、「これからどうするか」の話題を選ぶのだという。


ギアが「怒」または「哀」にしか入らなくなっている人がいる!

誰もが理性では、「悪いあの人」の話、「かわいそうなわたし」の話は、どっちも単なる愚痴で、問題の解決にならないということが分かっている。

それでも、愚痴りたい。

悪いあの人のことを知ってほしい!
私がどれだけかわいそうか、わかってほしい!

という気持ちが、制御不能、アウトオブコントロール…という人は、いる。

「悪いあの人」にとらわれている感情は、「怒り」
そして、「かわいそうなわたし」にとらわれている感情は、「哀しみ」

怒りと、哀しみの感情は、別々のものではなく、不可分一体で、「出し方の違い」「表現方法の違い」だけなのだ。

白い布が染まるように、怒りに染まった心は、違う色に染めかえるのが難しい。

心のギアが、怒りに入ってしまっている人は、「悪いあの人」のこと以外でも、心にはたやすく怒りの灯がともる。


感情は伝染する

テレビやネットを見ていても、いつもいつも、怒っている人がいる。

私なんか、ワイドショーの司会者さんが、怒り以外の感情に突き動かされている姿をイメージできないほどだ。

たぶん、奥さんとイチャイチャしていたり、孫に脂下がっていたりする面もある…んだろうけど、怒っている表情しか見たことがないもんだから、その人といえば、怒ってる人なんだと刷り込まれている。

本当は、決して怒りっぽい人なんかじゃないのかもしれない。TV番組のために「作って」演じているだけなのかもしれないけど、その司会者の個人的な怒りというより、周りに飛び火して、周囲の人も怒っているし、たぶん、画面のこちら側にいる、全国の人にも、怒りが飛び火しているだろうことを思うと、「怒り」はウイルスの一種のようだ。

だいたい、強い感情は、ほかの人の強い感情を揺り動かす。

感情のギアが怒りに入っているときは、他の人にも伝播するから、要注意なのだ。


感情は反射する

私が怒った顔をしていると、目の前にいる人の顔も怒り出す。

誰かがドアを乱暴に閉めると、その場にいるほかの人がイライラする。

そしてイライラを貯めこんだ人が、別の場所でドアを乱暴に閉めて、また別の人をイライラさせて、今度は椅子を乱暴にひいて、それがまた別の人をイライラさせ…

感情の伝染力は、誰かが自覚して止めるまで、止まることがない。

そして、ときに狭い範囲でグルグル回る。

たとえば家庭内で。たとえば職場内で。学校で。電車の車内で。

どこかで誰かが生み出した怒り、もしかしたら生み出したのは私かもしれない。

私が蹴った空き缶が、ぐるっと場を一周して、私の後頭部に当たるかもしれないのだ。


人が感情を作るんじゃなく、感情がその人を作るようになる

「この人、カルガモが歩いていても、“かわいいですねー”とかじゃなく、何か見つけて腹立てそう」みたいな人がいる。

そういう人が言ってることが的を射ていても、その怒りが正当なものであっても、「また怒っている」というイメージが強すぎて、私は、ちゃんとメッセージを受け止められないかもしれない。

怒りにギアが入りがちな人は、自分の感情を固定しているだけでなく、「周囲の人の、その人を見る目」すらも固定してしまっている。(たいてい気が付いていないが)

周囲の人から、「あの人は怒りっぽい人だ」と思われることのマイナス面に、気が付いていないのだ。

それどころか、怒りっぽい人だと思われることで、マッチョなメリットを得ていると、勘違いしているかもしれない。

「俺は、周りのものから恐れられるほどの存在なのだ。えっへん」

いい年をした大人でも、「昔の悪かったオレ自慢」をすることからして、実際にメリットがあるのかもしれない。

当然ながら、実際はバカにされている。自分の感情すらコントロールできない、図体のデカい幼稚園児である。

(しょっちゅうメソメソしている、「かわいそうなわたし」派の人も、図体のデカい幼稚園児である)


強く感情を出してる人を、だんだん信用できなくなってくる。


怒りという感情をまとう人には、信用ならなさを感じる。

哀しみの感情で例を出した方が分かりやすいと思うので、かわいそうなわたし派の例を挙げる。

いつもいつも、かわいそうな私の話をしてくる人がいる。

その人はどんな経験も、すべてかわいそうな私!の話にしてくる。

「いやいや、かわいそうなのはあんたじゃない」みたいなことすら、かわいそうな私!の話で仕上げてくる。

それって、本当に、本物の、感情?

本当に、本当に、哀しさ感じてしゃべってる?

とても、そうは思えない。

同情されたり、同調されたりするために、オーバーに演出してない?みたいな。

誰もがそういう人をみたことがあるはずだ。

「もういや!」といいながら、「私はすごく傷ついた!」といいながら、何も行動を起こさなかったり、一回やった失敗を繰り返しているので、そういう状態がむしろ好きなんじゃないか…という節がある。

怒りも同様で、いつも同じようなことで怒っていると、その感情がどこまで真剣なものなのか、疑わしく感じられる。

「俺を怒らせたな!」と言い出す人は、その前からイラついてなかったか?

八つ当たりはやめていただきたい…と鼻白む。


「感情に依存」は言い過ぎか?

怒りのギアに入りっぱなしの人は、怒りの材料を見つけるのがうまい。

哀しみのギアに入っている人は、哀しみの材料を見つけがち。


「あなたが、どこかのオープンテラスにいる。突然背後から水をかけられた。そのとき、あなたはどんな感情になるだろうか?」

水がかかったのは、ちっちゃな子が水を運ぼうとしてこぼしたからかもしれないし、

車が道路の水を跳ねさせたのかもしれないし、

カップルがふざけて、カップの水をこぼしたのかもしれないし、

枝にとまっていた鳥が飛び立って、雪解け水が枝から滴ったのかもしれない。

突然水がかかる理由なんか、いくらでも考えられるけど、

でも、怒りのギアの入っている人は、背後を振り返って、原因を確認する前に、もう顔が怒っているし、哀しみのギアが入っている人は、話を聞いている途中から、泣きそうに顔がひきつっているのだ。


喜怒哀楽の喜と楽は

喜怒哀楽の、喜と楽も、そこにギアが固定されている人はいる。それはそれで、非常にうさん臭い人だ。

物事の良い面、都合の良い面しか見ようとしない。

不快なことがあれば、見て見ぬふりをすることもある。

当事者能力が低く、子どもっぽいことも多い。

・・・・わたしは、どうなんだろう?

自分で自覚がないだけで、どれかの感情に、くっつきすぎているだろうか?

どこにも感情のギアが入っていない、ニュートラルに戻れているだろうか?


ニュートラルな感情なんてあるんだろうか?

『幸せになる勇気』にはこんなエピソードが出てくる。

ある人が、母親から、「野良犬にあったら、逃げ出さないでじっとしていなさい」と教えられていた。

友達と遊んだ帰り道、彼は野良犬に出くわした。

親に言われた通り、彼はじっとしていて、友達は逃げ出した。

そして彼は犬に噛まれてしまった!

それ以降、彼は「世界は危険なところであり、人々はわたしの敵である」というライフスタイル(世界観)を持つに至った…


でも、その話には、続きがあるはずだ、と哲人は言う。

彼は、野良犬に噛まれ、うずくまっていた。

自転車で通りかかった人が、うずくまる彼を見つけ、病院まで連れて行ってくれた。

「世界は危険なところであり、人々はわたしの敵である」というライフスタイルに凝り固まっていたとき、彼は、その自転車の人のことを思い出しもしなかった。

でも、カウンセリングを通じて、彼はその自転車の人に助けられたことを思い出せるようになり、ライフスタイルも次第に書き換わっていった…。

ニュートラルな状態は、確かにあるのだ。


ニュートラルコーナーに戻りたい

人は自分の思い込みを強化することが得意だ。

そのためには、過去に起こった出来事すら、都合よく「編集」する。

怒りにギアが入った人も、哀しみにギアが入った人も、彼らの感情を強化する方向に物事を都合よく解釈できるようにアレンジするのだ。

日ごろ、傍にいる人には、それがよく見える。
見えないのは本人だけ。

ニュートラルとは、アレンジしない状態だ。

物事を、あるがままに見られるようになること。

それは間違いなく、バランスがとれているし、多くの人に同意してもらえる見方が出来ている、判断力が正しく働く、良い状態だ。

きっとニュートラルになれれば、人生はシンプルで、生きていくのが、ずっと楽になるだろう。


ニュートラルに戻る方法はあるのか?

たとえば一人で瞑想して、ニュートラルな状態を手に入れる…ということは、私は無理だと思う。

それは、悟りを開くようなものだから。

それより、感情に振り回されないと「決断」することだ。

感情以外にも、人間には、「判断機能」が備わっているので、まずそれを思い出してほしい。

感情はなくてはならない、大切なものかもしれないが、感情が暴れ馬になって、感情に振り回されている限り、人生はシンプルになんかならない。

先ほど書いたように、感情は「反射」する。

どこをどう反射するのか、人知を超えて、複雑に反射してしまうのだから、感情を他人に見せたとたん、とんでもなく、複雑に反射して、自分に跳ね返ってくる。

まずは、それを悟ること。

これまで、怒りの感情に依存してきた人は、それが「便利」だから使っていた面があったはず。

哀しみの感情に依存してきた人も、哀しみを表すことで、メリットを得ていた面があったはずだ。

そして、同時に、そのデメリットに目を向けてこなかった。でも、デメリットは確かにあったのだ。


感情を出すことのデメリット

怒りの感情、哀しみの感情を、出せないことには、ハッキリしたデメリットがある。

「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ~」という歌詞にあるその通りに、感情が出せないことは、大きなデメリットがある。

でも、感情を出せることにも、確実にデメリットがある。

それは、先に書いたように、「他人はあなたを信用していない」ことだ。


あなたの感情は、自明の理でもなければ、この世の真理でもない。
あなたにそう思えているだけで、他の人の目には、まったく違う映像が見えている。

先ほどの、野犬に噛まれた少年の話のように。

ときに悲しみに暮れるあなたに、同情する人もいるだろうし、怒りに腕を振り上げるあなたに、同調してくれる人もいるだろう。

だけど、同時に同情や同調と同じくらい、あなたは周囲の人の不信を買っている。


経験を積んだ、まともな人であればあるほど、あなたを相手にしなくなる。

そしてあなたの周囲には、碌な人はいなくなり、あなたの人生はより「生きにくい」ものになる。


最悪な結論だが、「自分の感情を野放しにすればするほど、痛い目を見る」

だから、学習すること。

自分が損をしている自覚を持つこと。

それが、この記事の結論だ。


だから、賢くなりましょう。


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