「時」の概念がない喫茶店⑮
前回のハナシ⇩
僕の目の前にはあの喫茶店で会話を交わしていた少女が立っていた。
鳴り響く無数のクラクションが、彼女がこの世界で存在しているということを証明した。しかし、僕はそれを現実のこととして受け入れることができなかった。
「君は、一体何者なんだい…?」咄嗟に出た言葉は驚きでかすれてしまい、何とも不甲斐ない声音だった。
「それは後にしてもいいかしら?もうそろそろ誰かが警察に通報してもおかしくないわ」モカは年甲斐もなく冷静にそう告げ、僕の手を取り、行き交う車の間を縫ってその場から走り去った。周囲には甲高いクラクションと急ブレーキでタイヤが道路にこすれる音が響き、そこに追い打ちをかけるように怒号が起きた。しかし、モカはそれらに見向きもせずに歩道へ足を入れ、歩行者の視線をかいくぐって近くの路地裏に入った。追ってくる人は誰もいなかった。そう、この世の中は意外と他者のことに対して無関心なのである。その無関心さに今日ばかりは助けられたようだ。
「もうそろそろあなたに会える頃かなと思っていたの」不思議なことにモカは全く息が上がっていなかった。
「僕はあまりに突然のことで驚いて言葉を失ってしまったよ」
「無理もないわね」にやりとモカは笑った。
「ところで、君はいくつなんだい?」モカはやはり小学生とは思えないほどに落ち着いた口調だった。喫茶店で話していた時から大人びた少女だと思っていたがここまでくると実年齢が分からなくなったのだ。
「前にも言った通り、私は小学生よ。小学6年生。この世の中には大人びた女子小学生もいるってこと。覚えておいてね」そういうモカは、ポケットから煙草をおもむろに出し、ライターで火を付けてもおかしくない雰囲気だった。
「ところで、『前にも』ってことはやっぱり喫茶店にいたときのことは覚えているの?」
「うん、覚えているわ」
「突然いなくなって驚いたよ。どうして何も言わずにいなくなったんだい?」
「それが私にも分からないのよ。ただ、最後にふいに私は自分の名前を思い出したの。その時、まるで立っていた場所に突然穴が開いて落下するように眠りから覚めて、私には普通の日常が始まったわ」
チノの推論は正しかったようだ。やはり、あの世界から出るための重要なファクターは「自分の名前を思い出すこと」にあるのだ。そのためのお手伝いを僕は喫茶店でしているのだ。
「ところで、モカの本当の名前はなんていうの?」
「櫻﨑奏(おうさきかなで)よ。我ながら気に入っている名前だったのに、今となっては忘れてしまったのがバカらしいわよ」
そう言ったモカ改め奏は僕の息が整ったのを確認すると入った反対側へと向かって歩き出した。
「これからどこへ行くんだい?」
「一緒に『あなた』を探すのよ」
「それはもう一人の『僕』ってことかい?」
「ええ、そうよ」
「どうして君は僕のためにそこまでしてくれるんだろう」
「それはきっと、あなたが今抱えているあらゆる問題を解決した先にあること。今の私の口から言うことではないわ。でも、ただ一言いうなら…」
珍しく、奏が言い淀んだ。
「あなたにとって私はとても重要な人ってこと。だから大切にしなさいよ」
奏はそう言ってにやりと笑った。その笑顔は喫茶店の記憶よりもはるか昔の次元で懐かしい感じがした。
最近読んでいる本は「魔の山」。感想はこちらから⇩
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