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「時」の概念がない喫茶店⑨(1500文字)

モカの次に来店したのは、すらりと背の高い青年だった。整髪料で整えられた髪型、そしてスーツを着こなしていることから企業に勤める社会人であるように見える。有名大学を卒業し、大企業に就職、そんな安定のレールを走る人だと勝手に想像を膨らませた。

彼はそんな見た目には似合わず、恐る恐るドアを開けて、入店した。
「あの、ここは一体どこなんですか…?」
彼の声は想像したよりも高い音だった。静かな室内に不自然に声が響く。
「お待ちしておりましたよ。あなたはここに来るべくしてきたのです。どうぞ、ごゆっくりくつろいでいってください」
モカの来訪と寸分も違わず、老人はそう彼に告げた。

青年の表情はさらに不安に陰った。店を出ようとドアノブに手をかけるもドアは微塵も動かない。
立ち尽くした青年は観念したようにカウンターに座った。それは僕の隣だった。

「あなたはどうしてここに?」
青年は胸ポケットからタバコとライターを取り出し、タバコに火をつけながら僕に聞いた。
「見たところ、同じくらいの年齢に見えますけど」
僕は点と点が繋がるような感じがした。
「やはりそうですか?僕はあなたと同じくらいの年齢に見えますか…」
「え?まあ。実際の年齢は分かりかねますが」
青年は戸惑った様子を見せてからそう言った。
実際の年齢に関しては僕自身、全くわからない。というのも、つい先ほどまで僕は幼い子供だったのだ。それを一から説明すると長い時間がかかりそうだし、説明したところで伝わらないと思ったので言葉を飲み込んだ。
「何かお飲みになりますか?」
老人の問いかけに対し、「ドリップコーヒー」と一言だけ青年は答えた。

出されたドリップコーヒーを一口飲んでから、僕は青年の名前を聞いた。
しかし、案の定、青年は自分の名前を忘れていた。そのことに動揺を隠せない様子だったが、老人が「このお店に来店したとき、全ての人は名前を忘れているのです」と告げ、青年に「チノ」という名前を与えた。

「なんだか、可愛すぎませんか?」と最初は恥ずかしそうだったが、すぐに慣れた様子を見ると、どうやら気に入ったようだ。

チノは僕に様々なことを話してくれた。
勤め先は都内にある誰もが知る大企業であること。2年目でようやく仕事に慣れつつあること。付き合っている彼女がいて、結婚をいつするか悩んでいること。週末には一人でキャンプにいくこと。
チノとは波長が合うようで僕も彼にはいろいろなことを話せた。
先ほどは「モカ」という少女が来たこと。そしてその時同い年くらいの体になったこと。記憶がないことも相談したし、その解決策も考えてくれた。
チノの話し方は知的な雰囲気にあふれており、口調に波が全くなかった。僕にはそれがとても心地よかった。

チノがコーヒーのお代わりを頼む際、老人に訊ねた。
「ところでご老人、あなたは先ほど私に『あなたはここに来るべくしてきたのです』と私に言いました。それはどういう意味なのでしょう?」
「それは、そのままの、言葉の通りの意味です」
「なぜ、ここに来ることがまるで義務のように言うことができるのですか?」
「それは、あなた自身が一番よく分かっていることではありませんか?あなたはあちらの世界で、何か密接にこちらの世界と関わる何らかの行動を起こしています。きっと、あなたはそれに気づいていないだけです」
「何らかの行動…?さっぱりだ」
そう言ってチノは出されたコーヒーを受け取った。

「それに気づくことがあなたの為であり、そのための私たちなのです」

そのための『お手伝い』か。

「チノさん、あなたはあちらの世界で私と出会いませんでしたか?」

私は核心に触れる覚悟を胸に、チノにそう訊ねた。

「よく思い出してください。きっとあなたの周りに何かを求める目をした『僕』がいたはずです」

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