ヒロイズムの救出/ヒーロを救え!

   

         はじめに     

 僕の中で、ヒーロー、英雄といった存在が意識されるようになったのは、いつ頃からだったのだろう。1993年、サブカル大国日本で生まれた僕のヒーロー像は、ハリウッド映画、日本のアニメ、漫画、ゲームなどの娯楽コンテンツからは切り離せません。弱きを助け、悪を挫くという社会の基盤を支えようとするこの考え方を、技術の違いはあっても、いつの時代も人は人へと語り継いできました。ヒーローとされる存在は、どの地域や時代にも誉れある人格や営為の手本として、僕たちの想像力へと贈られますが、この贈り物には、押しつけがましい権威としての側面があるということを、僕たちはアンチヒロイズムを謳う作品があることも珍しくないことからして、考えられるでしょう。あまりにも抜きん出た能力を配慮や反省もなく使い、度を過ぎた他者への介入を正当化すると、伝説はこうも信用に値しないではないかと告発するアンチヒロイズムは、そもそも英雄志向の正当性を否定し、ヒーローや特別な存在なんていらないと幻滅を繰り返し、公認されてきたヒーロー像を打倒しようとします。ヒーローはしばしば人間の姿をしていて、とりわけ女性を助ける男性であることが多いことからも、人間性や男性性や異性愛の地位を強化していく感も否めません。ヒロイズムの美名にあやかれない存在の、勝利者の特権や威光の独占に仇なす怨嗟の声が、アンチヒロイズムの底流にあるのでしょう。社会から冷遇されたり、締め出しを喰らった者に共感することは多々ありますが、ヒーローが現れることやヒーローになることを躊躇わせる雰囲気が生まれてしまうようになれば、「救い」へと至ろうとする思考を妨げてしまうのではないでしょうか。このエッセイで僕は、ヒロイズムが権威論の枠組みだけでは捉えきれない面があり、権威論である以前に存在論であることを主張します。そのために僕が引用していくのは、音楽アルバムと映画作品です。

 まずはこのエッセイがヒロイズムを主題に置くと同時に、作品の評論・解説でもあることを読者には理解しておいてもらいたいです。ですので、第一部で早々にヒロイズムからは離れた作品解説が展開されることを許していただきたい。第二部からヒロイズムが関係していき、第三部でヒロイズムの存在論的体系を明らかにしていくという構成ですので、第三部が基礎であり、これを踏まえれば、第二部の主張が体系の応用であることが理解でき、読者によっては、僕が無関係だと断わっておいた第一部にも、僕が論じきれていない関係性を見出してしまうこともありうるのかもしれません。第一部は、1974年の「アウトバーン」以降、2003年の「ツール・ド・フランス」まで、乗り物や通信技術をコンセプトにしたポップスアルバムを作った電子音楽グループ、クラフトワークの作品解説をしていきます。

 第二部では、音楽アルバムの他に映画作品も登場します。まず、ダニエル・シャーナイトとダニエル・クワンのコンビ、「ダニエルズ」が監督、脚本を務め、ダニエル・ラドグリフが様々な便利な機能を持った死体役を演じ、オナラで海を渡る笑撃シーンが映像史に爪痕を残した2016年の映画、「スイス・アーミー・マン」。次に現代の電子音楽の先鋭の一人、フライング・ロータス(以降、フライロー)のアルバム作品。そしてもう一人の先鋭であるワン・オートリックス・ポイント・ネヴァー(以降、OPN)のアルバム作品。この三つを評論・解説していきます。

 第三部で登場するのは、映画「シックス・センス」で名高い監督のM・ナイト・シャマランの独特なコミックヒーロー風ミステリー、「アンブレイカブル」、「スプリット」、「ミスター・ガラス」のイーストレイル177三部作です。存在論的ヒロイズムの着想は、完結作である2019年の、「ミスター・ガラス」を劇場で見て閃きました。当時僕が勉強したてだった、可傷性や可塑性といった哲学概念が、映画の登場人物達と重なって見えたのです。映画を見終えて劇場を後にする頃には、ヒロイズムを現代の潮流へと救出することが可能なのか、救いを必要とする存在が、どのように脅威=驚異に対処するかを考えるようになりました。僕の主張に新しさはないかもしれませんが、ヒロイズムの意味の下に集まったこれらの作品を、読者が新たな形で受け入れてくれて、さらに僕たち現代日本人にとても馴染みのある少年誌や青年誌のヒロイズムを振り返るきっかけになるのでしたら幸いです。


       第一部 クラフトワーク

 よくある問題として、どこまでを音楽とするか、というのがあります。僕自身、バンドでボーカルや作詞・作曲も手がけているのですが、その音を楽しんじゃえばそれはもう音楽だよねと、気楽に捉えてしまいたい気持ちもありますね。ですが、もしこのように広義に音楽を捉えたいのなら、どんな音が鳴っているのかだけではなく、どこから音が鳴っているのかも気にしてみてください。例えば楽器という存在についてです。人間が発明してきた道具の中に、楽器と呼ばれる物はいくつもあります。それなのにある風変わりな音楽家や、楽器を修得していない素人は、あえて楽器として作られた物以外で、演奏に興ずることもありますね。もしかすると楽器とは、工作技術よりも先に演奏技術によって生まれるのではないでしょうか?演奏するための道具を作るには、演奏によって道具化するプロセスも伴うのです。このプロセスを経る楽器になる存在は、生き死にだって問われないのかもしれません。クラフトワークは、音楽をテクノロジー(道具・技術)の存在論と解釈しながら、テクノロジーをポップミュージックにしたのではないでしょうか。
 クラフトワークのコンセプトアルバムの出発点は、アルバムのタイトルである総距離12993kmの高速道路、「アウトバーン」から、自動車に乗り込み、ラジオを点けて走り出す所からです。彼らがコンセプトにしていく一見してわかるテクノロジーには、自動車、ラジオ、特急列車、コンピューター、自転車があります。しかし彼等のコンセプトの特筆すべきなのは、単体のテクノロジーのイメージに、他のテクノロジーのイメージを詩的に併存させていることでしょう。彼等にとって、音楽はその併存を可能にするテクノロジーなのです。
 2003年の自転車をコンセプトにした「ツール・ド・フランス」以来、クラフトワークの新譜は作られていないのですが、ファンの間では、次の新譜のコンセプトは飛行機や船なんじゃないかと言われています。一人のファンとしての僕の意見は、「ツール・ド・フランス」で彼等のコンセプトは完成されてしまっただろうから、テクノロジーをコンセプトにしたアルバムはもう作らないでしょう。それから新譜は飛行機だと想像している方は、残念ながら飛行機のコンセプトは、この「アウトバーン」で使われているのをご存知だろうか。
 これは、アウトバーンが非常時には飛行機の滑走路になることを踏まえた上で曲を聞いてもらえれば、『アウトバーン』の後の『大彗星1』、『大彗星2』、『真夜中』、『朝の散歩』の流れを理解出来るでしょう。彼等がただドライブしているだけでなく、ラジオから音楽が流れている所が重要です。音楽の中で、アウトバーンを滑るように走り続けていると、このまま飛行機のように離陸していくような瞑想体験をもたらしているのです。都市から離れていき、車越しに青い空と緑の地平を見晴らしながら、『アウトバーン』の8分30秒を迎えると、飛行機のエンジン音が聞こえてきます。地上に別れを告げて、車は空高く上昇していくのです。空に出てもラジオは地上の音楽を拾い続け、彼等をこの星に繋ぎ止めています。「アウトバーン」の後半の展開は、雲の海を通り過ぎている内に、日が落ちていくように聞こえてくるでしょう。
 『大彗星1』で、地上の電灯や天候にも邪魔されない標高まで来た星空で、彼等はジェットの尾を引く輝く彗星と並んで空を走る。彗星の輝きと自動車を重ねる一体感。『大彗星2』で空に迸る流星群に彼等は交ざり、瞑想体験は宇宙にまで及んでいきます。
 『真夜中』では、彼等の光ある軌道は、宇宙の虚無へと消え去ってしまい、車は放り出されてしまいます。彼等を引き留めてくれるような音楽は届かない。車は停止したまま取り残されているのか、それとも知らぬ間に遠ざかっているのかわからなくなる暗闇。どこかから聞こえてくる水滴の落ちる音、そして何かの金切り声が聞こえてきても、途方もない暗闇が広がっていることしかわからない場所では、扉を閉ざして怯えることしか出来ない。
 やがて瞼に温もりを感じ、聞き覚えのある鳥の囀りと共に、彼等の瞑想体験は終わります。彼等は長旅を終え、車から降りると、『朝の散歩』を始めます。アウトバーンでのドライブが、人生を変えてしまうほどの壮大な体験となりましたが、彼等はリフレッシュした気持ちで、テクノロジーから束の間離れる、あるがままな朝を感じます。平穏無事な世界はちゃんと存在していた。その中でこうして穏やかに歩いていける。

 次のアルバム「放射能」が、英語のradioactivityの中間に、-を置くことで、radio-activity、ラジオ活動になることから、原子力発電とラジオの2つが主題に使われているテクノロジーだというのは、周知されていることでしょう。前作の「アウトバーン」にもラジオは登場していましたが、それはこのアルバムの布石でもあったのです。「アウトバーン」の最後の曲、『朝の散歩』で車から降りて、ピクニックをしに行こうとする彼等は、車からラジオ=受信機を持っていくのです。『放射能』では、このラジオ=受信機は歩きながらつまみをひねって、ピクニックが楽しくなる短波放送を掴まえるだけではありません。彼等がピクニックしてはいけない、高放射線量地域を知らせるガイガーカウンターでもあるのです。
 クラフトワークはこのアルバムで、電波=放射線が都市から離れた地域、地球全土にまで普及していることをイメージさせます。『ラジオランド』の曲名が指しているのは、放送局=原子力発電所でしょう。そして『アンテナ』の歌詞から読み取れるように、ラジオ=受信機は、放送局=原発が発信=放射した電波=放射線を、リスナーが大気の中で受け取ることで演奏する楽器だと言います。これは単純にスピーカーから音楽が流れてくるということではなく、スピーカーから出る音の全てがメロディーになるということです。ニュース番組の情報、ラジオドラマの台詞、外国語、テストトーン、大規模災害発生時の緊急放送の言説、そして放射線量を計測するガイガーカウンターの電子音までもが。『ラジオランド』で放射能が歌う死のメロディーが、大気を汚染して皆んなに届く。それは、『ニュース』という曲の原発推進に寄った言説と併存しています。
 「こちらは西ドイツ放送のニュースです。西ドイツ共和国に、今後10年の間に50基の原子力発電所が建設され、大都市に電力を供給するでしょう」『ニュースの歌詞から引用』
 ちなみにクラフトワークは、核エネルギーに依存する社会を風刺するために、推進するような言説を利用しているのであって、誤解を避けるためにも、彼等自身でリミックスした表題曲「放射能」の歌詞に、停止を求めるSTOP!を追加し、ライブバージョンでは、被爆地の名前、兵器利用、放射性物質による被害や危機についての語りを入れています。核エネルギーの利用が未来に何をもたらし、その恩恵が害悪とどう併存しているのかを、音楽の枠内での併存効果と重ねる、これがクラフトワークの狙いなのです。
 『ニュース』の次には、ラジオ=受信機から『エネルギーの声』が聞こえてきます。この曲でクラフトワークは、ラジオ=受信機を通して音楽に変換することで、核エネルギーに自身の存在を語らせています。これは『ラジオランド』にある原発の声明でもあり、『ラジオスター』で宇宙の彼方からの特別(スター)出演、様々な電磁波を発信=放射しているパルサーやクエーサーの声明でもあります。
 「我はお前達に電力と光を供給し、お前達が言説や音楽やイメージを受信することを可能にする巨大な発電機である。我は、お前達の僕であると同時に、主である。我を守護せよ。我はエネルギーの神である」『エネルギーの声の歌詞からの引用』
 核エネルギーは宇宙規模のエネルギーであり、人の技術では監督仕切れず、故郷の死滅を招くと最後に訴えます。壊変されたウラニウムから生まれた放射能が歌います、壊変されたホーム(故郷)に対して咽ぶ曲、聞いてください『オーム・スイート・オーム』。

 クラフトワークにとって、「アウトバーン」と「放射能」は、郷愁と未来を音楽で併存させることもコンセプトにあったのでしょう。1978年のアルバム、「マン・マシーン」以降、クラフトワークのコンセプトから郷愁は消えていき、人がゾロゾロと乗り込んできて、社会を形成してくようになります。その郷愁が観光気分に移行していき、都市部を前に見据えていこうとする過渡期の作品が、1977年のアルバム、「ヨーロッパ特急」でしょう。『アウトバーン』のように、昼夜を通して移動する構成ですが、地方の到着先で自動車を駐車して、地方を散歩するイメージとは違い、都市部の到着先に自分を残して再び走り出すのが、クラフトワークのヨーロッパ特急のイメージです。
 『フランツ・シューベルト』号に乗りながら、風光明媚なケルンとウィーンの田園風景を往復し、「永遠に!」と繰り返し唱える『エンドレス・エンドレス』でアルバムは締め括られますが、列車に乗りながら『メタル・オン・メタル』の金属と金属が打ち合う産業的な音、テクノロジーの音に満たされた都市部で自分がどう振る舞うかを気にする現代人の心境に迫ります。その心境に迫る歌が、夜中、自分の見なりを整えようと鏡を探すと、列車の窓が黒い鏡になっていることに気づく『鏡のホール』です。列車が、長い一本道の揺れ動く鏡のホールに変わるのです。次の曲の『ショールーム・ダミー』と対照的なのが、『鏡のホール』では明るい車内から真っ暗な窓の外の暗がりを見ているのに対して、視点が車外から見えるライトアップされた車内の光景であることです。クラフトワークは、車内の人間を陳列されたマネキン人形に、列車を展示室に変えているのです。どちらも車窓を共通としながら、一方からは鏡、もう一方からは展示物を仕切る陳列窓になります。
 車窓に映るものを見つめながら、クラフトワークは芸術の街、デュッセルドルフの駅で偶然会った、イギー・ポップやデヴィッド・ボウイのような、そのイメージが画面上で勢威を振るうスターやアーティストの、自分の求める自己イメージを作り出しては、それに近づけるためにイメージや自身を変え続け、他人が求めて生産した自分のイメージに嫌気が差し、時に自分がわからなくなる生活から、現代人の特徴を導きます。この時、鏡や陳列窓になった車窓は、後の「コンピューター・ワールド」、「ツール・ド・フランス」の画面のテクノロジーの布石になるのです。自己のイメージ=ダミー・模像を画面に陳列し、陳列窓の中の人生を生きる、ダミー・模像へと道具化してしまった人間達は、次作の1978年「マン・マシーン」のコンセプトに引き継がれていきます。人目を伺いながらポーズを変えるダミー・模像達ですが、彼等は陳列窓=画面を突き破って、都市に繰り出し、音楽のかかるナイトクラブに入っていくと踊り出します。一見画面を克服したようで、都市部の音楽に呑まれていく道具化した人間を、クラフトワークは、「テクノポップ」で楽器にしてしまいます。

 道具化した人間を楽器にする音楽は、「テクノポップ」で詳しく話すとして、クラフトワークは、ライブパフォーマンスで自分達のダミーを登場させ、「我々は楽器を演奏するマシーンである」と、「マン・マシーン」の核心をつく発言をしています。「マン・マシーン」の表題曲で歌われる、「人間を超えた、人間の紛い物」という意味を取りあぐねぬように、ナイトクラブで何が起こるのか見てみましょう。踊っていたダミー人形達は突如動かなくなってしまうのですが、アルバムの冒頭で充電音が流れると、このダミー人形が踊るようにプログラミングされた、『ネオンライト』や画面の広告の輝きで、夜を照らす光となった『メトロポリス』の電力に依存する『ロボット』だということが判明します。充電が完了したロボットが再び動き出すと、そこで雑誌の表紙に飾られていた『モデル』がいるのを見かけます。一目で彼は彼女に惹かれるが、彼の念頭にどうしても現れてしまうのは彼女の美しさの価格。実際に見る彼女の顔に雑誌で見たような笑みはなく、彼が話しかけても彼女は稼働しない。そこには彼と同じく相手の値踏みをする視線があって、彼女が動き出し、微笑むようプログラミングされているのは、料金が発生するカメラの前だけ。鏡やレンズの前で自己プログラミングした商品の笑顔。彼が求めるのは広告の中の量産された笑顔。
 人間本来の有様を超え、相手を自分の欲求を満たすテクノロジーとして過剰な品評をし合う、人間紛いの道具や商品同士の関係でしかなくなった、親密さのない相互性こそ、「マン・マシーン」という言葉の内容であり、テクノロジーを駆使したところでとりわけ恋愛は思うようにはいかないことが、「コンピューター・ワールド」、「テクノポップ」でも続いて描かれます。

 ナイトクラブでモデルに声をかけられなかった彼は、また別な夜に一人きりでコンピューターの画面に向かいます。誰かと結ばれたい彼は、画面の中に陳列された世界中の人々のプロフィールを見ていく。画面に打ち込まれた情報は、どうすれば注目されるのか計算された愛の広告であって、コンピューターに要望をプログラムすれば、それに該当する相手を導き出してくれます。画面の中では自分と相手のデータはお似合いみたいだけど、本当に連絡が取れて会えたところでどうしたら良いのだろう?そう彼は『コンピューター・ラブ』で歌っています。
 1981年の「コンピューター・ワールド」では、現代人の値踏みをする視線が、すっかりと愛の眼差しに取って代わってしまった状況から、最速で最適化するために品評自体を計算機に託し、算出された結果をただ受け入れるがままにしていく状況が生まれてしまうのです。駅ではスターに、そしてナイトクラブではモデルに会った時のような偶然に任せる必要はなく、ただ自宅のコンピューターに情報を打ち込むだけで、世界中のスターやモデル、その他あらゆる人々がイメージを競う市場に瞬時に接続出来ます。
 このアルバムには、電卓が曲になっている『ポケット・カリキュレーター』がありますが、コンピューターよりコンパクトでシンプルでもこれも計算機。しかもオモチャのように、ボタンを押すごとに音が鳴る音声電卓というタイプです。この音声電卓には、視覚障害があっても利用しやすいように、押したボタンを言葉で伝えてくれるタイプもあります。それこそ世界で使用される言語の種類の数だけ、電卓のタイプもあるのです。『ナンバーズ』という曲の歌詞も、まるで音声電卓のボタンを押していくように、世界の各国それぞれの数の名前が歌われるのですが、この言語の横断も一台でやってのける計算機がコンピューターなんですね。ところで珍しくも、この音声電卓を使って演奏する人は実際にいるんですよ。クラフトワークも計算機(電卓、コンピューター)を操作して作曲をすると歌っています。ここでクラフトワークは、ラジオを楽器にしてしまう音楽性を持ってして、コンピューターを楽器にしてしまうのです。この楽器は計算することが演奏になるのが特徴で、世界中の人間が今やこの世界を画面の中の操作子、演奏機構に変え、未来を算出する音楽に熱中しているというのが、「コンピューター・ワールド」と大々的に歌われているのです。

 世界中が「コンピューター・ワールド」という音楽を演奏する楽器となってしまった以上、人間社会という言葉の中の人間が社会の中で、商品やテクノロジーとしてではない意味をもたらし得るのでしょうか?
 1986年のアルバム「テクノポップ」は、「マン・マシーン」と同じくテーマとなるテクノロジーが明確ではありません。せいぜい『テレフォンコール』で電話が歌われているな程度しか気づかれないのが関の山でしょう。まず『ボイング・ブーム・チャック』、『テクノポップ』、『ミュージック・ノンストップ』の連作の歌詞に注目すると、そこにはクラフトワークの歌声だけではなく、電子音の発話、合成音声への言及が見られます。『テレフォンコール』でも、相手と繋がらず留守番機能の自動音声が応対するシーンがあります。クラフートワークの提唱する「テクノポップ」が、テクノロジーの工業的な非音楽的な物音でさえも楽曲の中で併存させることを超えて、楽曲内の全ての音を、それこそテクノロジーではない人間の会話までもが、工業的な意味の中で合成されることであるならば、他のアルバムにも使われていましたが、このアルバムにおいて音声のデジタル加工・合成技術が最も強調されているのがわかります。
 これまでのアルバムから続けて考えていくと、デジタル加工・合成は画面上の商品イメージを操作するだけでは収まりません。人々は互いを市場に並ぶ商品イメージと重ねる、つまり合成し、人間関係を市場取引へと加工しています。おそらくマッチングサイトで気に入った相手を見つけられた彼は、愛情と時間を費やして相手との繋がりを求めますが、『テレフォンコール』、『セックスオブジェクト』の歌詞から読み取れるように、冷たい対応で忘れ去られようとしています。『セックスオブジェクト』の間奏中に挿まれる様々な国の言語で話される「イエス」、「ノー」、「多分ね」、「どうして?」といったやり取りに合成音声が使われているのは、『テレフォンコール』に挿まれる「かけなおしてください」と話す自動音声と同じく、感情も敬意もそこにはないことを指しています。そこには人間関係の要因は性的対象への欲望と市場への参画
しか見られません。人々はテクノロジーとしか会話していないのでしょうか。相手はセックスに使う道具?「私はあなたの性的対象にはなりたくない」と歌っていますが、では相手次第では性的対象という恋愛市場の商品になるということですか?クラフトワーク論から逸れない程度でフェミニストとして切り込んでいくなら、この辺りは自発的な商品化という側面しか扱えておらず、男性が統御する市場の側面に触れていないでしょう。ポルノグラフィックのデジタル性暴力のように欺罔や脅迫、暴力によって商品化される女性たちがいるのです。そして容赦なく女性の身体・イメージを市場に売り飛ばす男性たちこそ、マン・マシーンと呼ぶに相応しく、この場合のマンは男性に該当し、非人格的なマシーンになると解釈出来ます。
 こうして人々の自覚する身体イメージとデジタル市場がより深く接続をしていくことは、最後のアルバム「ツール・ド・フランス」にまで引き継がれます。「テクノポップ」の最後の曲に
ある、『エレクトリック・カフェ』という空間は、どうやら人々が会話をしているようですが、その内容は個人の心身を良好にしていく商品・指導サービスを利用した感想・口コミです。歌詞からは「ウェイトトレーニング」、「健康的な食事」、「美容」、「エクササイズ」、「ダイナミックな運動」、「文化的な体格」、「詩的な合成」といった言葉が読み取れます。使用した商品が自分の日々の健康をいかにサポートしてくれるか、若返ったように見られるその秘訣、モテるようになった、再びセックスが出来るようになった、絶倫も夢じゃない。満足、あるいは不満にさせられたのでも構わいませんが、身体イメージは計数化されて、欲求を煽る見本市に加わるのです。このような問いかけが必要になってくるように思われます。つまり人生をサポートする商品・指導サービスとは、人生がより善いものになるように導いてはおらず、人生がより価値のある商品になるように導いていませんでしょうか。
 ここまで考えられると、「ミュージック・ノンストップ」という歌詞が深刻な意味を帯びてくるはずです。まさに世界中で展開するテクノロジーとしての音楽が止まらず、人との会話も人格同士を示す会話はなくなり、商品・サービス、その価格を指し示すだけの絶え間のないコマーシャルの楽器になったのです。脳には自分の使うことが出来る予算・物量の多さに応じて快楽を感じるという説がありますが、生物の生存戦略という側面からすれば妥当でしょう。あなたが市場に熱中してしまう理由はその選択肢の多さ、価格のついた物を入手したり、放出したり取引・操作出来る空間の構築にあるのです。『テクノポップ』が発表された当時はスマートフォンはありませんでしたが、人間の脳は取引・操作可能な実物に囲まれる店舗という空間にいながら、デジタル市場の計数化されたバーチャルイメージを上乗せする遠隔空間を欲望するようです。ここにいながら他の所(取り分け他の店舗)にもいたいという空間への欲望。市場の方はあなたに注目してくれていますでしょうか?自分を振った異性と違い、あなたを覚えていてくれますでしょうか?勿論データはございます。しかし市場はあなたの欲求のみを追っていてるだけで、それ以外に関心はないのです。市場は際限なく接続を欲しますが、利用・操作可能なもの以外は外部へ締め出し、責任を回避、無関係であろうとします。市場に並ぶことのない精神がまさにそうです。なぜなら精神は利用・操作・数値化可能などに構うことなく全てを包括し、調和を目指していくものであり、これこそ市場に欠けているものです。

 『ツール・ド・フランス』は元々、「テクノポップ」に収録されることも考えられていたため、1983年にはすでに完成して、シングル曲で発表されていました。しかし、この自転車というコンセプトはアルバムの一部の中では描ききれないと直感したであろうクラフトワークは、17年間という時の経過の中でテクノロジーの動向に注意をしながら、2003年に自転車のコンセプトを全面に出した最後のスタジオアルバム、「ツール・ド・フランス」を発表しました。自動車や飛行機、特急列車ときて新しい乗り物のコンセプトが自転車というのはなんだかスケールがショボくなったと一般的には感じられるでしょう。しかしこれにはクラフトワークのメンバーのラルフ・シュッターが「これぞマン・マシーンだ。私だ。自転車に乗るマン・マシーンだ」と言わざるをえないほどサイクリングに熱中した経験があるからこそからであり、前作の「テクノポップ」の身体イメージとデジタル市場の問題系を再開してもいます。しかしこのアルバムの歌詞を見たところどうも「放射能」以降のアルバムで見られた批判的な示唆と呼べる箇所がないのです。むしろ人の運動に合わせて連動する自転車という乗り物から、テクノロジーと人間の調和という希望を提示する趣が強いです。人間が以前と比べてテクノロジーの利用に上達し、テクノロジーに任せきりだった計算に参加し、人間の意思決定を取り戻そうとする筋道が、世界最大の自転車ロードレースという競技を通じて、体調のメカニズムのグラフ/チャートから分析するコース戦略で山や谷間や峠を制覇する人間の実績・成果として、ラジオやテレビで世界中に放送・生中継されるのです。画面に視覚化されるのは、カメラが追いかける競技だけではありません。『エレクトロ・カルディオグラム』では心電図、『ラ・フォルム』ではモーションキャプチャーシステムが登場し、電極・マーカーが加わることで、生体内の調律、体躯の姿勢制御と運動に関わる細かな筋収縮と弛緩が、画面に視覚化されて捉えられ、合成・編集される要素になります。人体とメカ(自転車)が分解・組立図になってカスタマイズされ、運動の補助をしてくれる様は、『ヴィタミン』、『エアロ・ダイナミック』、『チタニウム』の連作で表現されていて、特に『ヴィタミン』に関しては、人体の活動を維持する栄養素の名称がそのまま歌詞になっているだけですが、体内というコースを駆け巡る栄養素達とタイムトライヤルの選手達のイメージと重なります。医科学を枢軸に置きながら、テクノロジーはあなたの状態が最適であるかどうかを、視覚以外の信号・音声も使いながら全身に知らせることが出来ます。
これまでで最もテクノロジーへの視座が揺さぶられるアルバムですが、テクノポップの範疇として批判的に読み解く必要は大いにあります。この場合の適切さとは、市場での適切さであると考えてみましょう。自身が最適でいられているどうかを知らせる音楽とは、あくまで自分の身体の健康に限られていますし、しかもこの健康の判断は、成果や実績を生み出せるかどうかという市場に並ぶ見本に囚われてもいます。人格なき最適化の元でますます人は市場価値、画面の中の数値とイメージに自分を見出し、生命を身体に限定して、精神を蔑ろにします。問題なのは、市場に並ぶイメージを用いて身体を活用する、イメージの身体化ではなく、身体の商品イメージ化です。注目を浴び、成果を求められ、交換に晒され続け、消費者のその場限りの興奮のために使い果たされる身体。見本は最適だとしても自己の代わりでは決してないのに、自らを使い潰そうとすることが人間の証になるのでしょうか?
 人間による不正を回避し、誤りを共有しないことに、テクノロジーは確かに重要な役割を担っていますが、人格をシステムから丸ごと排除してしまうのはいかがなものでしょう。身体の生体活動も精神も、同じ生命の働きなのに。自動になされるのではなく、データで見えてくる効率的な関係性を人間が善意を持って調整する。身体もまた、目に見えない細部や内部も含めて物理的で、悪や暴力であっても許容してしまう自己存続的なシステムであります。そこでもそのシステムの内に介入しながら、自己完結することなくシステムを超越しようとするところに精神は発露します。この精神の在処を、クラフトワークはツーリングを通してスポーツへと求めています。自分の身体は勝利への手段、そしてそれ以外は障壁として扱うのではなく、他者を尊重するルールの中で良心や善意を共有する精神へと訓練すること。多様な人々が平等を起点にして身体を活用するための精神が、そしてルールが人を尊重しない可能性に対して批判出来る精神が必要です。どれだけテクノロジーで改造や、合成・編集したところで、それだけで人間としての真の身体作りには至らないのです。

 音楽と道具化の考察から、僕たちは音楽が暴力と簡単に併存してしまうことに気付かされるでしょう。音を出すという目的で、僕たちは物体に打撃を与えることがあります。これは打楽器なら当然ですが、それでも物体を破壊することで成立する音楽もあります。助けを求める人間の悲鳴や相手を死に追いやる罵声、息たえる動物の苦悶ですら、誰かに向けられて発せられた意味に関係なくサンプリングで標本化されます。音楽は音さえ発生すれば成立する即物的な現象なのでしょうか?あるいは、商業的にしか作曲出来ない者の音楽に、生命の躍動はありえますか?テクノロジーの音頭と生命の音頭の境目で、人間は聞き分けられているのでしょうか?暴力は物体ならどれだけ傷つけ、手荒に扱っても構わないとしています。演奏がしたいなら聞くことから始めましょう。君からはどんな音がするのかな、どんな声を持っているのかなと、全身全霊を傾けるのです。


      第二部 スイス・アーミー・マン、フライロー、OPN

 そういえば、クラフトワークがテーマにしなかった乗り物に、船舶がありました。もう新しいアルバムを、しかも船舶をテーマに作るようなことはないでしょうが、2016年にとんでもない乗り物のアイデアが、ダニエルズが監督する映画で表現されました。それは、体内のガスを尻から噴射して、水上バイクと同じくウォータージェットで進む人間の死体です。無人島に漂流し、自殺しようとしていた主人公のハンクは、この死体に乗ることで、最初の島からは救出されました。この死体は、ハンクが無人島から辿り着いた次なる大自然の中でサバイバルする上で、アーミーナイフのようなマルチツールになって活躍します。後にこの死体は喋ることも出来るようになり、メニーという名前に決まります。メニーに生前の記憶はなく、知識は乏しく、人格も朧げで喋る事と視線以外は全く動けません。メニーは喋れるようになると、自己と視界に入る景色も認識出来るようになり、ハンクへの質問が止まりません。孤独に耐えきれずに死体に話しかけ、あんなに話し相手を欲しがっていたのに、ハンクはメニーに自分が助けを必要とするまでは死体でいてくれと伝えます。メニーは背負っていくのには重たい荷物でもあるので、余計な体力は使いたくないのです。
 森の中には、人に棄てられた用無しのゴミが落ちていて、ハンクは食べ物が残っていれば回収していきます。その中にはヌード写真集もあり、あるシーンで女性の裸が視界に入ったメニーの股間が硬く盛り上がります。メニーの勃起したペニスがある一定の方角を指し続けることがわかると、ハンクはこのコンパスの指す方へ進めば帰れると確信します。何の道標もない大自然の中を闇雲に彷徨うよりも、何かに縋りたいという一心と、無人島から助けてくれたメニーの機能だからこそ、その股間をコンパスとして使うことを決めさせたのでしょう。エロ本をメニーに見せながら、ハンクはコンパスを頼りに森の中を進みますが、ページを捲っていってもメニーのコンパスはやがて上手く勃たなくなってしまいます。メニーがエロ本に見飽きて、刺激が足りなくなってきたのです。ハンクは落としたスマホの待ち受け画面に映る女性をメニーに見られてしまいます。メニーはそれを見ると、火花のように現れたその女性のイメージに打ち震え、その女性のイメージは自分の生前の記憶なのかもしれないとハンクに伝えます。メニーのコンパスが復活を遂げたのを見て、ハンクはどうやら自分の記憶がメニーに伝わってしまったらしいことは伏せ、女性の名前はサラだと伝えると、メニーのコンパスの先にサラがいることを結びつける物語を二人で膨らませていきます。メニーの死顔から表情が解凍され、生きていることについて強く関心を持つようになりました。
 当初は、生存のための道具としてメニーを利用し、運んでいましたが、メニーと生き生きとした信頼関係を築くことで、メニーの新しい、より大胆な使い方を次々と見つけ、ハンクは物資に困らなくなります。ここで大半の方が、メニーの機能、使われっぷりにだけ驚いていますが、実は使用者の才能も相当のものであります。ハンクはメニーに人生を物語っていくうちに、より具体的に日常を再現するために、もうゴミとして棄てられた物を再利用して、様々な工作をするのです。必要とされなくなった物に再び意味を持たせること、壊れていても工夫して、以前とは全く違う新しい使い方をするハンクだからこそ、メニーという死体の奇跡を活かせているのではないでしょうか。
 ハンクとメニーの元ネタであろう、トムハンクス主演の映画、「キャスト・アウェイ」に登場する漂流者のチャーリーとバレーボールのウィルソンのように、ハンクとメニーの関係を妄想や分身で片付けてしまう視聴者がいますが、それは残念な解釈です。確かにあるところまで、メニーはハンクの分身も同然でしたでしょう。メニーは死んでいるので生きようとはせず、ハンクの記憶と生き延びたい気持ちに流されるままになっていただけです。生きることを欲することは、愛を欲することだと知ってからのメニーは違います。ハンクに喰らいつく熊を追い払い、意識を失ったハンクをサラの家までおぶって行った自立したメニーが妄想であるはずがありません。問題のクライマックスの熊との遭遇シーンで、メニーはサラと自分の物語がでっち上げであることを知ってしまいます。自分の行先には愛し合える相手が待っていない、自分と彼女は何の関係もなく、必要もされていない。メニーはもう生きてはいたくないほどに絶望します。どう扱われても決して痛がることなんてなかったのに、傷つき、目からは涙は溢れ、自分を騙して利用してきたハンクの死も願います。ハンクが生きてきたイメージがメニーに伝わってきたこととは逆に、メニーの死んでいたイメージがハンクに流れ込んでいき、ハンクは熊に襲われます。ハンクもまた誰にも必要とされていないという感じから、社会で思った通りに生きられずに、遠くへ逃げようとした結果、無人島に漂流してしまいました。孤独に耐えきれず死のうとしましたが、ずっと救いを求めていました。ハンクはメニーがそのまま死んでしまいたいならそれもいいだろう、自分もここで共に死ねるなら本望だと、傷つけてしまったけどメニーが最高の親友であることを伝え、道具扱いするのをやめます。そこには救うべき生きた友達と、立ち上がって救いに来てくれる生きた友達が認められます。
 ハンクを助け出して、町まで運んだメニーは、とある少女に怖がられたことをきっかけに、生きていく自信を失くし、再び命なき死体に戻ってしまいます。ハンクにはわかったのです。社会はメニーを死体としてしか見做さず、墓穴までは丁重に運んでも、あとは目の届かないとこへ葬って関わり合おうとしないことを。ハンクはメニーを海まで運ぶと、メニーは体内のガス噴射で浜辺から一人離れ、二人は別れることになります。思い出を手に入れ、愛することを知った友達に生きていて欲しいから、ハンクはメニーを社会から救い出したのです。

 読者は、他に人間や情報を運ぶテクノロジーを思いつくでしょうか?フライローなら、幻覚剤の服用で身体を置いて意識だけで宇宙へと旅する話をし出すかもしれません。クラフトワークの「アウトバーン」での自動車も宇宙にまで飛び出していく経験でしたが、フライローはさらにその先の彼方へ、死の淵にまで辿り着こうとします。フライローの代名詞となる宇宙観がはっきり打ち出されたのは、3枚目のアルバムの「コズモグランマ」からですが、まずは一枚目と二枚目のアルバム、「1983」、「ロサンゼルス」から、彼が地球に留まるうちに、いかに宇宙へと本格的に踏み出そうとしたかを振り返ってみましょう。
 初期の頃から彼のスペースサウンドや幻覚じみた音響は構築されていましたが、彼は宇宙を明示するまでには至っていません。「コズモグランマ」ほどの宇宙観が一枚目と二枚目のアルバムの時点にフライローにあったかは不明ですが、「1983」と「ロサンゼルス」のタイトルは、それぞれ彼の生誕年と出身地で、彼が個人的なことを宇宙と結びつけようしているのは伝わってきます。自分の誕生とは、最も重要な経験でありながら、ほとんど記憶されず、切り離されていて謎めいています。ロサンゼルスというこの地にまだ生まれていない自分とは何者だったのだろう。なぜ他の何かではなく人として、この土地に、この時代に現れたのだろう。『アンエクスペクテッド・デライト』の歌詞で、乗り継ぎ便の窓辺の席に座って、世界中を飛び回るビジネスマンにのつもりで、商売という壮大な巡り合わせについて書いてみる。そこには予期しない喜ばしい出会いがあるけど、別れ際に連絡を取り合うことを誓っても、続くことのない泡沫的な関係ばかり。帰り道の途中、ふと誰の思惑でこんなに動き回るのだろうと思う。ここ、ロサンゼルスにいながら、いつだって新しい始まりを夢見ることが出来る。今、ここから馳せる思いは、宇宙全体にまでだって通じているのに、どうして動く必要があるのか。身体をどこか遠くの地にまで移動させても、到着する度にいつも同じところにしか通じていない、同じ日々を繰り返しているような行き止まり感がある。フライローの作品には、この行き止まり感に対する答えが用意されています。
 「コズモグランマ」が作られる際にフライローの身近で起きた大きな出来事があります。それは彼の母親の死です。自分を産んだ愛する人の喪失。その一年と9ヶ月後には、このアルバムのタイトルを彼に教えてくれたミュージシャの大叔母が亡くなります。生きている彼女たちはもうここにはいない。もうどこへ行っても会えない。・・・本当にそうだろうか?身体はここにあっても、あのあまりにも広い宇宙のどこかにいて、この音楽は届いていたりするんじゃないだろうか?あなたへの愛が宇宙のどこかに重力を生み、音楽の軌道を定める。宇宙の向こうに隠れてしまっていてわからない。でも宇宙からは隠れることは出来ない。あなたが世界と共に笑っているのが伝わってくる。宇宙の原理(コズモグランマ)に、愛を跳ね返し合うことを見出す彼は、『テーブルテニス』という曲で、ユニークにそのイメージを描いています。
 次作「アンティル・クワイエット・カム」の『DMTソングス』という曲から幻覚剤が登場し、さらにその次のアルバム「ユー・アー・デッド」の『ザ・ボーイズ・フー・ダイド・イン・ゼア・スリープ』では、オーバードーズであの世行きになることが歌われています。愛するあなたが身体を置いて光と笑い声の先へと行ったなら、同じ原理で自分だって行けるのでは。「アンティル・クワイエット・カム」では、宇宙への演奏は中断され、現実が遠のいて静けさが来るまでじっとする。DMTは、生物の体内でも生成される内因由来のものでもあり、このアルバムでは、強力な薬物に頼らずに、瞑想による体外離脱の幻覚体験をテーマにしているようです。自分の透明度が増していく。電灯を通り越して、天井に入っていき、完全に現実から消え去ると、愛や夢の源を覗き込む。自分の身体や肉眼が信じられなくなる。自由に飛び回れる幻影肢を試していると、床から動かない身体にはもう戻りたくなくなる。
 「ユー・アー・デッド」は死に至るまでの体験によって見る世界をテーマにしています。ブラック仏陀の極楽ジャズと呼べるサウンドは、あの光と笑い声に追いついていますが、衝撃的なアルバムのビジュアルアートを見る限り、死後の魂達は、物体からの自由を祝福していながら、自分を保てず、解体と構築の狂瀾が続いているようです。『ネバー・キャッチ・ミー』は、PVで幼くして人生が終わってしまった二人の子供が棺桶から躍り出て、教会から飛び出し、誰にも捕まりようのない自由な存在になって、誰も知らないどこかへと出発し、自分だけの生を超えた新たな生を始めます。『デッドマンズ・テトリス』は、頭に弾丸を打ち込まれた男が、自分が死んだことを認められずにいます。生者や他の死者からお前は既に死んでいると言い聞かされてもしっくり来ない。死んだはずのアーティストと一緒にいるのは流石におったまげ。心停止してベッドに横たわる自分、その手を握って悲しむ家族はその男が死んでると思い込んでる。それを側でピンピンして見ている俺は一体何者なのさ、本当に俺はこの男だったのか?『コロヌス、ザ・ターミネーター』は、生前に人を殺めてきただろう血に塗れた過去を持つ男が、とある生死の境を彷徨う魂を「生きたいなら、ついて来い」と、死から救おうと導きます。少しでも殺めてきた生に償おうとしているのかも。曲の最後で見せる、「戻ってきたら殺しちまうかもしんねえぞ」と、死んでも変わらない死神っぷり。
 このアルバムで極めようとしたテーマは、霊魂や精神は永遠に生きていくということでした。それは同じ生に留まるのではなく、次なる生に進んでいくことであり、生を誰かに託そうとする巡礼です。この巡礼は、どのように、どれほどの規模で行われるのでしょうか?精神という光は、どんなに物質に遮られても暗闇の向こうに光を見つけ、縋ります。これは自らの光を暗闇に分け与えているのです。光とは、自分と結びつくかもしれない何者かがいることを告げるものであり、死後の生は、彼方に終わりなき愛の兆しを生みます。安定供給される電力の明かりにすっかり慣らされている現代の我々にとって、暗闇に明かりを灯すことに、自らを分け与えるという実感は残されているのでしょうか?
 この分け与える、または受け継ぐという意味は、現代テクノロジーの高い利便性と瞬間性の中では短絡されてしまいます。電力を知らなかった時代の人間の精神はどのように光と結びついていたのか、その起源には、生活の内に身近で発生する火の存在が関わっているのではないか。次のアルバム「フラマグラ」は、これまでより多くの歌手をゲストに招いていて、作詞はフライローがコンセプトを説明し、あとはゲストに作ってもらったそう。皆んなで火を囲みながら火について物語っていくのです。彼方へと飛び出すという、これまでの宇宙的な作風から地上へと生還を果たす英雄譚のコンセプトもあります。フライローは、大の日本のアニメファンで、とりわけドラゴンボールの悟空は、コスプレをしてライブをするくらいにフライローの永遠の英雄像なのです。アルバムにはドラゴンボールからサンプリングしている曲もあります。宇宙を股にかける戦闘や、死から復活するごとに強くなるサイヤ人は、これまでの彼のアルバムの作風とも重なります。
 このアルバムを聞いていると、筆者は小学生の頃の夏のキャンプ合宿を懐かしく思い浮かべます。誰しにでもあろう、火についての記憶を共有するのは、その場に一緒にいなくても、またはその場所に昔いた過去の存在にも可能なようです。異なる部族の戦士同士が、焚き火越しに交流し、マジックマッシュルームで集団トリップをしているのと、友達の家に泊まり込み、皆んなでマリファナを回しながら、テレビのゲーム画面のドット絵の炎のあるステージで、対戦格闘をしているのは、時空を超えたシャーマニズムの関係なのです。
 電気を知らなかった人類にとって、光は全て空に属する絶えることのないものであって、地上からでは届かない、自分達とはかけ離れた存在としての意味が強かったはずで、それなら明かりや熱だけではなく、匂いや音まで立てて揺れ動き、小さな状態から、糧を食べては大きく高く成長し、繁殖し、弱り果てて消え去る炎の方こそ、人類が自らの生命と重ねやすいではありませんか。自然現象でありながら文明の基盤。闇と寒さから救ってくれ、人々をより集めながらも、人々が逃げ惑い、住居を脅かす災厄、生命を奪い合う戦火にもなります。希望でもあり暴力。英雄譚は火を起こすことを必要とする時、火から身を守る必要がある時の分別を語ります。その炎は物理現象だけではなく、人間の感情や意思のイメージの事をも指します。実体的な火とイメージの火を近づけすぎては危ない、重ね続ければ火傷を負いかねません。貧困格差に立ち向かおうと、民衆の怒りの炎が、抗議活動となって現れる。騒ぎに便乗して報復する暴徒が、店に火をつけて回る。民衆を守るために出動する消火隊。警棒で制圧しにかかる機動隊に投げつけられる火炎瓶。その姿を生中継で動画サイトに投稿する。コメント欄も大炎上している。暴力をけしかけ、闘志や憎しみを煽るアカウント達。ところで火に苦しむ者は普通鎮火を望むはずですが、恋愛に関してはそうでもないことが見受けられ、自分を見つめる眼差しに愛の炎を灯そうとします。恋愛の焦熱から救いを求める者は、奇妙にも自分を燃やしている炎を意中の人に受け取ってもらいたいのであり、そのまま燃え移して、同じ火の中で結ばれていたいという放火願望があるのです。英雄譚と恋物語には、救いを求める者が共通していますね。
 誰かを救おうとする愛がなければ、火は物でしかない。物が燃えているだけでは、そこに愛し合おうとする精神があるとは言えない。人が灯す電飾も含めた明かりに、愛があるとは限らない。でもまず物としての火の輝き(感覚可能な刺激だが、視覚には限定されない)を知らねば、愛のイメージは語れず、求めることが出来ない。それは物としての火が身体を焼き尽くせば、身体から生命は消え、身体は生命なき物、亡骸になる。物としての火はいずれ消えても、人の精神によって永続し、生命の火が消えかけた他者が現れた時、人は自らの愛の炎で再び物に救いの意味を灯す。精神は、自らの生命を賭して物質的な危機を打破してくれる精神を求めている。精神は、誰の力も借りずに偶然助かったとしても、そこに誰かの意思が介在していたのではと想像したり、自分を救ったことで犠牲となって死んだ者の、生命なき亡骸から、生命を託されたと感じ、自分よりも大事で、救いを待ち望む生命がまだこの世のどこかに残されてると学ぶ。
 「フラマグラ」の後にフライローは、アニメーション作品、「ヤスケ」のサウンドトラックを手がけていて、スタジオアルバムとは別な仕事なのですが、「フラマグラ」で語られる英雄譚の一つなんだと捉えて間違いないです。安土桃山時代の日本を舞台に、信長に仕えた実在のアフリカ出身の侍を主人公にしたこのSF要素も含めた時代劇。隷属させられた過去を脱ぎ捨て、洗い流し、孤立無援に思われた見知らぬこの地に、ヤスケという新しい名で生誕させ、黒く輝くことを認めてくださった信長様への忠誠。この忠誠、愛こそ生命の炎であり、宇宙を満たす暗闇を切り拓いていくのです。個人にとって最初の文明とは故郷です。故郷とは、愛や忠誠を誓った者がいるところで、フライローにとっては、母や大叔母が生きていたロサンゼルスでした。火が象徴する文明の見誤ってはいけない本質とは、機械化や自動化ではなく、自然と一丸となって生命を調和へと掻き立てることにあるのです。それは、いつかは故郷のある星も燃え尽き、灰塵となる時に、この宇宙のどこか新たな地へと火を灯す、生命を宿す、過去の存在との約束。与えなければ、移さなければ火は失われてしまいます。精神が物としての火と共に消えてしまわないよう、物としての火は捧げられることで意味を持つのです。

 OPNの楽曲は、古いラジオの混線のように、予測不可能な要素に割り込まれるような展開を見せます。この暴力的なまでな展開は、楽曲をグロテスクで不恰好なものにしていますが、不思議とそこには救いをもたらす何かもあることをOPNは表現しています。OPNの核心に迫るには、<warp>レコードから発表した「R・プラス・セブン」以降のアルバムを語らねばなりません。このアルバムを聴いてもらえば、そこには英雄ならぬ天使が現れていることをイメージ出来ると思います。OPNの天使像からは、雑多な断片を無理に寄せ集めた得体の知れなさがあり、抵抗感が生じます。突然現れたこいつは、一体どんな存在なんだと。異様な造形から、こいつは自分に危害を加えようとする脅威で、自分には誰かの助けが必要なのか。アンバランスな継ぎ接ぎで、今にも崩れそうな脆さもあって、自分の助けを必要としている存在なのか。そんな見かけをしていても、いつも自分を見守って、助けようとしてくれる善良さと神々しさも感じて、すぐに受け入れることは出来ませんが、忌避することも出来ない、この天使像への批判的思考が抵抗感から展開していきます。
 次の作品、「ガーデン・オブ・デリート」では、思春期の自意識の未熟さ、そこから生まれる不安と過剰さを自覚する、制御の利かない内なる暴君への反省的なコンセプトになっています。侵害してくる外界と、自分を貪り、削除してくる他者の凄惨なイメージに取り憑かれ、それに削除でもって迎撃しています。削除の園を意味するタイトルは、この削除の応酬のことを指していて、パロディ元である、ヒエロニムス・ボスの絵画、「快楽の園」の快楽の箇所をハードロックやヘヴィメタルの要素で表現しています。変容への盲滅法な反逆に明け暮れ、目先の快適さや馬鹿げた欲望を満たすためだけの世界観。どれだけグロテスクで、不恰好な全体像でも関係を持とうとしていた時期。
OPNにとって思春期に聴いていた音楽は、ボスの「快楽の園」に登場する音楽地獄の楽器刑と重なるところがあるのでしょう。メタルの音楽に陶酔することは、楽器によって責められる感覚でもあったのです。このアルバム最後の曲、『ノー・ゴッド』では、自分が台無しにしてまった困難な経験から、自分は誰も救えず、救ってくれるような誰か、そして神すらもいないと、外界と自分が調和することが信じられなくなり、音楽の調和の中(第一部の音楽の併存効果と通じます。音楽にはその一部になりたいと思わせる力があるのです)に縋る檻の中の生へと塞ぎ込むのです。思春期は快楽による逃走を学びますが、快楽の中から逃れられません。
 OPNの音楽とコンセプトを語る人達は、すぐにカタストロフィーを持ち出したがりますが、OPNはカタストロフィーの先にある変異に言及していて、そのような袋小路に拘泥していません。次のアルバム「エイジ・オブ」には、時代性の関連とその推移を捉えようとする理念と批判精神、そして新たにバロック調の要素を取り入れたごちゃ混ぜ音楽があります。ここには暴力を持って奮闘する姿は見えず、誰もが間違いうるけど共にあろうと決意して、信じきれなくても前進しようとしています。批判精神のきっかけは抵抗であっても、ごちゃ混ぜから平和の形状へと応変し、せめぎ合いの只中でも結びつこうとする。集まること自体の喜び、相反する断片でも繋がることの美しさに、共にあることの意味がありますが、ただ集まっているだけでは意識は容易に美の罠へと堕ちてしまいます。OPNは『ブラック・スノウ』のPVのパロディ元の、福島第一原発のライブカメラに映る指差し作業員から、問題の現場を検証して脅威を名指し、意表をついた警告をする批判精神の権化を見ているのでしょう。批判の指先は、理想を追い求めるというよりも、脅威を回避しうることを明確にしようとする基準点になり、治療に伴う部分的な痛みを全体に知らしめるのです。
 2020年、新型コロナウィルスの世界的パンデミックの最中、未知のウィルスに感染して変異していく架空のラジオ局というタイムリーなコンセプトで、自らのアーティスト名を冠した集大成的アルバム、「マジック・ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー」以下「MOPN」を発表しました。「MOPN」が架空のラジオ局の名前という設定ですが、これにはOPNというアーティスト名の由来でもあるエピソードがあります。彼は25歳の頃に気に入っていた実在のラジオ局「マジック106.7」の名前を聞き間違えて覚えていたのです。自分はジャンクフードを愛好してるとインタヴューで発言したOPN。きっとその食習慣からかかることになってしまった歯科医院で、歯の治療を受けている時に、彼の耳に「マジック106.7」が流れ込んできたことで、ハンドピースの音の恐怖が軽減されたのです。歯の痛みの脅威から自分を救ってくれるはずのハンドピースが脅威に思えるのも重要ですが、この脅威、ハンドピースの音と混じりながら自分を救ってくれたラジオ局の音楽にOPNの想像の源流があるようです。この想像を拡げた先に、アルバムタイトルのウィルスに感染した「MOPN」というラジオ局はヒーリングミュージックの要素を持ちつつ、ウィルスの脅威から自分を救ってほしいと呼びかける弱さも持っていて、それと同時に、そのウィルスを感染させうる脅威にもなってしまってる複雑な実情を突きつけてくるのです。「MOPN」は、ウィルスに侵されながらも、自分は何が起ころうとも動じたりしないよと歌いかけてきます。パンデミック前では、ありふれていて何とも思ってなかった当たり前が、今はありありと思い浮かんでくる。変わってほしくなかった。行っちまえ、戻ってくんなと追い返した親友。死んでしまって悲しい、悪夢は消えろと歌いかけてきます。僕たちは旅をするだろう。多くを失ったけど、決して独りきりじゃない。


         第三部 M・ナイト・シャマラン/イーストトレイル三部作

 シャマラン監督の「ミスター・ガラス」という作品で、コミックヒーローのような超人的な能力の実在を証明するためなら、どんな犠牲や被害が出ても突き進む登場人物、イライジャは、自分の最後を見届けてくれる母親に、自分の人生の意味を問いかけます。「あなたは驚異だった」と老いた母親は答えますが、そこには人々を脅かす何百人もの命を奪った脅威がこの世から消えた勝利感はなく、息子の死と直面する悲しみと愛で満ちています。

 脅威=驚異となる存在が現れた時、または事象が起きた時、多くの人はどうするのでしょう?咄嗟にあなたはただ逃げ出しますか?一旦、回避することを選んでも構いませんが、その後はどうしましょう。あなたは安全圏で脅威=驚異が現れたことをなかったことにして暮らしていくのかもしれません。あるいは、逃げた後、または最初から逃げずに立ち向かい、克服しようとすることだってあり得るのではないでしょうか。どちらにせよ、脅威=驚異とは、それが暴力的であるかを問わず、現状の秩序にそぐわず、今までのやり方では駄目だ、これに対処しなければならないと思わせることなのでしょう。

 イライジャが残した「誰もがヒーローになれることを認め合おう」という台詞を根元的に考えるために、僕が提案したいのは、ヒロイズムを救出可能性と捉えなければならないということです。このイーストレイル177三部作に登場する登場する超人的な能力を持った人物は、三人とも成人男性であり、父親という立場の者もいます。誰もが誰かに救いをもたらすことの出来る可能性を考えるためには、そういった性別、年齢、障害、そして超人的な能力の有無に限定していてはいけません。しかもこの救出可能性は単体ではヒロイズムに活気を取り戻すには到底至らず、さらに二つの可能性とセットになって、やっと現実味を持たせられるのです。その二つの可能性とは、「弱さ」、そして「脅威=驚異」です。この三つの可能性を軸に、物語と登場人物について考えていくのですが、手始めに映画のタイトルに当てはめてみましょうか。

 「アンブレイカブル」も「スプリット」も、映画のポスターヴィジュアルのヒビ割れのイメージからわかるように、「ミスター・ガラス」のタイトルの通りにガラスの性質に集約されます。「スプリット」には、母親による虐待をきっかけに分裂していくケヴィンの人格と、イライジャの生まれついた時から脆弱な骨から、脅威=驚異に曝されればあっけなく壊されてしまうとされる、多くの方がイメージする通りのガラスの性質があります。「アンブレイカブル」では、デヴィッドの不死身なのではと思える程に頑丈な肉体から、脅威=驚異を跳ね除け、物ともしない強化ガラスのような人々を防護する性質に気づきます。ここまででガラスの持つ弱さ、救出可能性に気づく時、三つ目の脅威=驚異については、僕たちは壊されて散らばったガラスに注意しなければならなくなります。脅威=驚異に勝てず、壊されてしまった救出可能性、そこから生まれる新たな破壊性。この人々を傷つけ、命を奪いうるガラスの刃もまた、対処を要する脅威=驚異となるのです。

 イライジャにとって、このガラスの刃の脅威=驚異は体内の骨組みそのものであって、彼にとっては、健常者の営みの全てが、骨折へと至る脅威=驚異となっているのです。イライジャは、デヴィッドやケヴィンの派生人格のビーストのように超人的な戦闘力を持ってして脅威=驚異に立ち向かえません。イライジャは骨が砕かれる度に、何度も救いようのない自分の脆い肉体に絶望してきたでしょう。こんな身体で何が出来るんだ、こんな人生に何の意味があるんだと。そんな彼を子供の頃から支え、画商になるまでに至らせたのが、漫画であり、そこで描かれるヒーローの物語でした。イライジャのコミックヒーローへの信念は、娯楽として消費するだけの凡人とはわけが違います。自分のような脆い肉体を持って生まれる可能性があるのなら、その真逆の決して壊れない肉体を持った人間が生まれる可能性があっていいはずだ。自身に救いを認められなくなった彼は、自分以外の誰かに、人類を超えた力、生体の変容という救出可能性を求めているのです。それこそ脅威=驚異的なまでに。

 「アンブレイカブル」はデヴィッドが、列車事故から奇跡的に無傷で生き残ったことから、自身の持つ超人的な能力と救出可能性を自覚していく物語でした。しかし、その自覚までの背後には多大な被害があったことを、イライジャに触れることで知ります。デヴィッドには、触れた相手が脅威=驚異であるかを察知する能力もあるのです。イライジャは、ヒーローの誕生にはいつも悪役が必要だと告白します。それは救出可能性が脅威=驚異との対峙を前提していると言い換えることが出来ます。イライジャが悪役になったのは、ヒーローを生み出すためだったのですが、迂闊に善悪の判断がこの三位一体の救出可能性と丸ごと互換出来るものだとは思わないでいただきたい。イライジャの引き起こした大犯罪はヒーローを生み出したからといっても容認してはならないのであり、善悪の判断と救出可能性の分析は、分かちながら両方を使っていくのです。

 「スプリット」もまた、23の人格を持ち、「群れ」と呼ばれるようになる男、ケヴィンに、女子高生3人が誘拐されるというホラー仕立ての筋書きですが、超人的な能力を自覚していくのは、「アンブレイカブル」と共通しています。ただこの超人的な能力を発揮出来るのは、新しく覚醒した24番目の人格のビーストのみです。主人格であるケヴィンは、名前を呼ばれることで、過去に受けた虐待のフラッシュバックと共に強制的に現れる、弱点のような扱いになっています。ビースト、その他の22人の副人格達は、ケヴィンを脅威から守るために生まれてきました。最も傷つき、壊された人格から生まれたことが共通していて、破綻した主人格を保全するために、身体の主導権を交代する救出可能性です。しかし、22人の副人格達がなせる役割は、せいぜい精神障害者、研究対象として、社会の周縁で細々と、主人格を現実から乖離し続けながら生かす程度です。それぞれが別々な個人でありながら、一つの身体に収まった副人格達もまた、救いを求めていたのではないでしょうか。ビーストは別格です。弾丸で倒せず、様々な動物的な動きと力を取り込んでいて、後に不死身のデヴィッドと互角に渡り合うほどの強さで、社会から脅威=驚異と認知されます。最も純粋に「群れ」やケヴィンを脅威=驚異から救うという役割を遂行し、彼が「壊れた者」と呼ぶ以外の人間を捕食します。叔父に虐待を受けている女子高生のケイシーを、ビーストは追い詰めますが、ケイシーの服の下に隠れていた傷跡を見ると、「壊れた者に救いがある」と、彼女を見逃します。獰猛なビーストの人格にも思想があり、その主張と存在意義には一致が見られます。

 では、「壊れない者」であるデヴィッドについてはどうでしょう?実は、デヴィッドもまた、子供の頃の水泳の授業中にプールに沈められ、死にかけた過去を持っていました。彼は死に至る経験をし、そこから救出され、生き延びたことで、超人的な能力を身につけていました。彼もまた「壊れた者」であったのです。そして不死身と思われたデヴィッドにとって、この溺死寸前の経験は、彼が水を弱点とする理由になっているのです。「群れ」、もといケヴィンは、ビーストになっていなければ、一般的な方法で殺害されます。デヴィッドとケヴィンにも弱さという可能性が認められます。脅威=驚異による圧倒や救出による飛躍には、不合理だとしても、連続性があるようです。これには、ビーストという人格が、ケヴィンが動物園で働いている時に観察していた、様々な動物をモデルにしていることも含まれます。

 ビーストは、「壊れた者」が、脅威=驚異に負けても生き残り、傷ついても、打ちのめされずに向き合うことに救いを見出しています。ビーストが、ありふれた、壊れていない者達にとって脅威=驚異となるのは、救いを信じないからであり、次作でイライジャを認め、共闘するのは、彼が何度も「壊れた者」であるからなのです。

 完結編の「ミスター・グラス」が、前2作の超人的な能力への自覚の物語と違うのは、その能力の確信を否定し、揺るがしてくることです。デヴィッド、ケヴィン、イライジャが集結する作品ですが、3人とも精神病院に収容され、精神科医を名乗るエリーから、超人的な能力は妄想と偶然の産物であることを、病理学的に説明されます。ここではまず、エリーは医療従事者として、社会制度が保証する救出可能性として現れますが、その正体は、世界を暗躍するある「組織」の一員であり、超人的な能力の発現を驚異=脅威と見なし、逸脱した者を世に知られずに無力化し、出来なければ抹消していきます。正体を明かしたエリーは、警備隊に扮した「組織」の人間に溺れさせられるデヴィッドに初めて触れたことで、デヴィッドのビジョンを見る能力にこの「組織」のことが現れてきます。超人的な能力が公になれば、秩序が危ぶまれる、自分は3人を救おうとしていたと告げられます。ビーストとイライジャのような存在が再び現れるかもしれないと考えるなら、エリーの所属する「組織」の活動には、妥当な箇所もあるようです。デヴィッドもまた、能力を公にせずに、変装して正体を隠しながら犯罪者を取り締まっていたのは、世間を脅かさないようにするためでした。しかし、何故デヴィッドはエリートの接触を通して、「組織」が暗躍しているビジョンを見たのでしょう?彼のビジョンが発現するのは、脅威=驚異となる存在に触れた時のはずです。デヴィッドと「組織」の、脅威=驚異から社会通念の秩序を守るという救出可能性には違いがあるように思われるのです。

 「組織」にとっては、脅威=驚異に打ち勝つことの出来るほどの強い力を持つデヴィッドのことも、脅威=驚異となりうると見做しています。デヴィッドのビジョンは「組織」を同じように、脅威=驚異と見做しているわけではなさそうです。ここで僕は、初めて驚異と脅威の間から「=」を取り払ってみたいのです。もしこの「組織」の目的が、人間が変容する可能性そのものを排除しようとし、その可能性から均質的な人間を保護するために、逸脱した存在を貶め、蹂躙するならば、そこから「驚異なき脅威」がありうることを導き出せるのではないでしょうか。「組織」にとって人々は、救うべき弱い存在としか認めていません。自分達の活動以外の救出可能性を認めない排他的な側面があるのです。「組織」は、脅威=驚異的な力を上回るさらなる脅威=驚異、つまりは誰かを守りうる救出可能性の出現を阻み、隠蔽しているのです。可能性を否定し、収容する資格があるという意識を持った時、大多数の人間を程々にしておけば、揉め事は起きないと決めつけた時、救出可能性の占領と覇権化が生じてきます。「驚異なき脅威」が脅威として名指すことを認められない脅威であるとすれば、それは「権威」と言い換えることが出来るでしょう。その先には、自分が救われることだけを求めてばかりで何の変容もなく、驚異=脅威を引き受けることもない弱い人間だけだから、デヴィッドは「組織」のビジョンを見て、ビーストは誰も救い合おうとしない人々に歯を剥き、イライジャは「組織」を出し抜き、ヒーローを世に知らしめる命を懸けた計画を実行するのです。デヴィッドとケヴィンの弱点をついて殺害した「組織」ですが、イライジャに病院の監視カメラを利用され、ヒーローの存在の隠蔽を打ち破られます。「組織」の権威にも弱さがあるのです。

 障害を抱えた最弱者であろうイライジャの脅威=驚異は、超人的な能力を自覚させようとするその頭脳、ヒーローを生み出そうとする計画力にあります。ケヴィンが虐待されるようになった原因に、イライジャが引き起こした事故が関係していたことを知ると、イライジャと共闘していたビーストは、イライジャの弱さからは底知れない脅威=驚異を感じとり、致命傷を負わせます。「誰もがヒーローになれることを認め合おう」。これが最後までイライジャの貫いた思想です。イライジャがどこまでも自分は悪役にしかなれないと自覚しながらも、こんな自分でも誰かを救いうること彼は信じ抜いてきました。特定の誰かを救ったわけではありませんが、イライジャは人間の変容と関係性、「ヒロイズム=救出可能性」を救ったとするならば、イライジャにも救出可能性があったと捉えられます。

 最後に、このイーストレイン177三部作で語られるべき存在は超人的な能力を持った三人の主要人物だけではありません。それは「組織」でもなければ、人間の可能性に目覚めていない大多数の人々でもなく、三人のヒーローを側で支え、愛を持って理解し、信じながら寄り添ってきた、デヴィッドの息子のジョセフ、イライジャの母親、そして「群れ」による誘拐事件を生き延びたケイシーの三人です。「スプリット」では、「群れ」はケイシーにとって脅威=驚異でした。「ミスター・グラス」では、事件の後、叔父と訣別する勇気を持ったケイシーが、ケヴィンが収容されたことを知り、ケヴィンが自分にとって脅威=驚異でなくなったかを確かめ、事件を乗り越えたと納得するためにも再会を決めます。

ケイシーとケヴィンの過ごしてきた時間は、親子との関係と比べたらほんの僅かなものでしょう。そもそもケイシーが対峙していたのは、デニスとパトリシアとヘドヴィグとビーストの副人格達であって、主人格のケヴィンと過ごした時間はほんの数分だけ。それも閉鎖空間内での被害者と加害者の関係でしたが、ケヴィンがショットガンと弾薬の在処をケイシーに教えてくれたからこそ、ケイシーはビーストと戦えたのです。ケイシーは「群れ」と対峙していく内に、脅威=驚異だけではなく、その弱さも知り、ケヴィンと自分が共通の傷を持っていることを知りました。二人共、自分を守ってくれると期待していた身近な存在が、脅威=驚異に変わるという経験をしていたのです。

「スプリット」で、ビーストはケヴィンのカウンセリングと研究を担当していたカレン医師を殺害してしまい、ケヴィンを気遣ってくれる人は、副人格達以外いなくなりました。ケイシーは周囲の人間関係を再び形成してきている自分と、いまだ眠り続け、現実に戻って来られていない主人格のケヴィンに対して、救出可能性を感じ取ったのかもしれません。脅威=驚異であった存在が救出対象になるのです。「組織」に撃たれ、息絶えようとしている「群れ」を抱きしめるケイシーのおかげもあってか、主人格のケヴィンは最後に自分の身体の主導権を取り戻します。僕はこの場面に、ほんの短な間でも、ケヴィンがビーストの脅威=驚異から人々を救ったという意味を持たせたい。

 イライジャは人間が変容する可能性について語り、人々に証明しようとしてきましたが、愛の力に関しては明言していません。母親の愛に支えられてきたであろうにもです。息子に支えられてきたデヴィッドも、ケイシーに受け入れてもらえたケヴィンも同様です。しかし、どれほどの愛であっても、「組織」から三人のヒーローの命を救える能力はありませんでした。愛には、弱さを補うようなことが出来ないのです。ラストシーンのヒーローの動画が世界中に拡散されていく後に、残された三人の愛に為せることがあります。社会にヒーローの存在を証言するのです。

 愛する者に救いのない世界を残していきたいのか?人間の可能性を野放しにしたまま?救出可能性の物語は、自分に弱さしか認められない人たちに、驚異=脅威となる力と誰かを救う力が備わりうることを分析、評価させ、正しさが歪められることもあることを教示します。超人的な能力がなくても、社会関係において、互いにケアをしながら、脅威=驚異を学習し、対処する自己効力感を高めます。物語で諸々の救出可能性を文脈を超えて結びつけていくのです。自分は弱くて何にも突出していないからとか、あいつはとんでもないことを過去にしでかしたからなどの理由で、誰かの救いを求める声を認めないことは「驚異なき脅威=権威」なのです。いくら自分は無力だと思い込んだところで、無害であることとは別で、回避し続けることが問題を維持することがあるのです。自分や社会を安心させようと躍起になることから発生する権威を、変容への恐怖感情への耐性を育むことで阻んでいくのです。証言することで、社会関係から逸脱したヒーローを社会関係の中に意味あるもとして救い、社会関係の結びつきそのものを引き上げ、権威に立ち向かい、社会関係を救う理由を与えるのです。

自らの弱さを抱えながらも、誰もが真っ先に実践出来る救出可能性、それが愛です。愛は安全性を保証しない。愛は変容を促す。

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