カレー味のカレーを食べたい
よく「飲み会とか嫌いでしょ?」と言われることがある。
正直、「好きな飲み会は好きだし、嫌いな飲み会は嫌い」である。
ただこんな身も蓋もないことを答えたところで何も生まれないので、基本的に「嫌い」というスタンスを取っている。
好きな飲み会に誘われるメリットより嫌いな飲み会に誘われるデメリットの方が大きいと思うからである。
「海派?山派?」という質問も、「日による」だし、「和食派?洋食派?」も「気分による」である。
ただこう答えたところでやっぱり何も生まれないので、「山派」「洋食派」というスタンスを取っている。
これはもう完全に適当に答えているだけなので、たまに違う答えを言うときもある。
「飲み会が嫌い」とか「山派」とかはあくまで何かを生み出すための「スタンス」である。
しかし、よく考えればこのスタンスをとったところで何かが生み出されたこともそんなにない。
なら、歪曲されたイメージが付く前にもっと「身も蓋もない答え」をしていった方がいいのではないか。
「うんこ味のカレーかカレー味のうんこか」と聞かれたら、「カレー味のカレーです」と答えたいのである。
そもそもうんこ味のカレーかカレー味のうんこしかない状況がおかしいのだ。
百歩譲ってうんこ味のカレーはわかるが、カレー味のうんこは誰が用意して誰が確かめたものなのだろう。
とは言いつつ、確かに僕の中にもハッキリ「これは好きです!!」とか「これは嫌いです!!」と言えるものもある。
ただ、この答えで話が膨らんだときに困るのが、「好き嫌いに理由が求められた時」だ。
例えば僕はお笑いライブが好きだが、「なんで好きなの?」と聞かれたら「好きだから」としか言えない。
こう答えたところで会話は別に広がらない。
言わば「生理的に好き」なのである。
なんでこんな素晴らしいものをみんなが好きじゃないのかもわからない。
ただ、「好きなことに理由なんかいる?」というようなカッコイイセリフがあるように、「好きだから好き」という感情はあまり否定されにくい。
そして、僕は嫌いなことにも理由なんかいらないと思う。
もちろん何かを嫌いになる時には理由がある場合が多いが、人には間違いなく「生理的に嫌い」という感覚があって、すべての人に理由はないけど受け付けないものがあるはずだ。
しかし、嫌いなものには何故か理由が求められる。
嫌いな人を発表したあとは必ずと言っていいほどその人のダメエピソードが語られる。
「嫌い」と「理由」はセットなのだ。
僕は今まで、「生理的に嫌い」という感情を隠して釈然としない理由で何かを嫌い、論理が破綻している人を何人か見てきた。
恐らく今までワケもなく嫌いだったものに理由らしきものが見つかると、めちゃくちゃに悪口が言いたくなるのだろう。
ちなみに僕は、酒が強いことがステータスだと思っている人が生理的に嫌いだ。
別に僕が酒が飲めないからではない。
もうとにかく嫌いで他人がアルハラされているのを見るのも嫌いである。
冒頭の「嫌いな飲み会」とはこういう人がいる飲み会のことである。
だからこそ、そういう人が酒で事件でも起こそうものなら一生そこをイジり倒したくなる。
嫌う理由らしきものが見つかったからだ。
ただ、そこをイジったところで「だからってその人を全否定するのはどうなんですか?」「酒との向き合い方だけで人を判断しないでください」と言われたら、「ふふふ♡」と返すことしかできない。
発端は「理由はないけど嫌い」というだけ感情なので、ちょっと反論されただけで論理が破綻するのであろう。
そんなことになるくらいなら、「酒が強いことがステータスだと思っている人は生理的に無理です。ここに理屈は通しません。個人の感想なので異論は認めません。」と最初から言うべきなのだろうなと思う。
もちろんそんな身も蓋もないことを言ったら終わりだが、「それを言ったら終わり」の何がいけないんだろうか。
無駄な議論をかわさずに済んで効率的でないか。
僕はもっと、身も蓋もないことを言っていきたい。
あ、「そんなことばっか言ったたら友達いなくなるぞ」という身も蓋もないことは言わないでください。
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