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残像に口紅を

筒井康隆『残像に口紅を』(1995, 中公文庫)

 少しずつ音が消え、消えた音でしか言えない言葉は概念ごと消失する世界。さっきまで当然のように使えた言葉が出てこない、そこに存在したものが思い出せないという奇怪な状況に、その世界を書いている張本人の佐治までが戸惑っている。言葉が出ないもどかしさや、しっくりくるものが見つからない苛立ちに感じたのは、懐かしさと、少しずれた共感めいたもの。

 高校2年生の時、さして英語をしゃべれるわけでもないのにひとまず外国に飛び込んでしまった。最初の数ヶ月は、日本語で一度考えてからそれを英語に訳して口に出すというプロセスを踏む。英語に訳せないような日本語、たとえば、食事前の「いただきます」は、類する言葉がみつからなくて、都度都度もどかしかった。ひとつの音が消えるたび、佐治が「これはなんといったかな」と訝しがって言葉を探すのと似ていて、この場面ではなんといえば良いのか、日々妥当な言葉を見つける作業だ。

 でも段々「慣れ」が進むと、考える言語が切り替わる。都度、脳内で翻訳を繰り返すステップを経て、別のチャンネルを使うようになると、言葉が見つからずに苛だつことは殆どなくなった。「いただきます」は、マインドごと私の中から消失していて、当然のように無言で食事をはじめている。それだけなら良くて、ただの異なる文化だし、感謝の言葉はいくらでも選べる。でも私の日常の思考の殆どは、母語に比べたら圧倒的に少ない英語の語彙だけで行われるようになっていた。

 人生でいちばん、難しいことを考えなかった年だった(すごく楽しかった)。単純化される思考、排除される紆余曲折。それに気がついた時、私は言語が思考を規定すると知った。言葉の貧しさは思考を貧しくする。感覚で正しい/優しい考え方を選びとれない私にとってこれは、たぶん深刻な問題だった。でも、それが問題だったことにすら、その時は気がつかなかった。

 残像に口紅を―― タイトルに惹かれて手に取った。失くしたものを惜しんで、その残像に口紅を塗ってやろうと思えるうちはまだ幸せなんだろう。ここで真に失われているのは音や言葉ではなく、それに伴う思考や感情、言葉で表せないはずのものなんだと思う。一番かなしいのはきっと、言葉を失うことそれ自体よりも、大事なものの喪失に気がつかず、いつのまにか貧しくなっている世界に無頓着でいること。この世界からも、最初の音が消えている。

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