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写真と記憶について【写真のはなし#3】

2015.4.3 会社からの帰路にて

みなさん、おはようございます。
87_graphです。

本日は2024年3月30日(土)、年度末の繁忙期、いかにお過ごしでしょうか。
わたしも仕事柄、年度末は忙しく、本日は休日出勤です。
仕事は大変なのですが、平日とは違いどこかがらんとした朝の通勤電車の中でこの記事を書いています。(1時間も電車に乗っているので結構書けます)

昨晩、natori kahoさんの記事を見て、写真と記憶について、眠りに落ちるまでの間、少し考えていたので筆を取ってみました(iPadにキーボードをつけて家を出てきました)

SNSで素晴らしい写真をたくさん撮られている方ですので、ご覧いただければと思います。


幼い頃の記憶は曖昧で、「〜に旅行に行ったけど小さかったから覚えていないよね?」といったことを親から言われたりします。
特に孫(わたしの子)が生まれてからは、そんな話題もちょくちょく出るようになりました。

確かに、ほとんどのことは覚えていないのですが、なぜだかよく覚えていることもたくさんあります。

ひとつめは、感情の揺らぎが大きかったとき。どちらかというとわたしの場合は怒られたり、嫌な思いをした時のことの方が覚えています。トラウマのようなものもあるでしょう。だいたいこういうのは親も含め、他人は覚えていません。

もうひとつは、写真が残っているものです。うちの親は結構マメだったので、わたしの幼少期の写真はきちんとアルバムに保存されていたり、壁や棚に飾られていました。
(わたしが初めて使ったカメラ、Nikon FM2もこの頃、親が使っていたものです)

特に飾ってある写真は毎日見ているので、子どもながらに記憶に定着したのでしょう。たまに自分の視点(主観)ではなく、写真に写っている自分(客観的な視点)での記憶になっていることも面白い点です。
「あぁ、あの写真の時ね」と写真中心に話が進みます。



さて、大人になってからのわたしは自分が撮った写真を嫌と言うほど繰り返し見ています。いまをシェアすることだけが写真の醍醐味でないと思っているので、昨日の写真も10年前の写真も混ぜこぜでSNSにアップしています。
その都度、撮ったときのことを思い出しては、また頭のどこかにしまわれを繰り返しています。

つくづく良い趣味だと思います。

最近はあまり主観的な写真は公開していないのですが、機会があればまた作品として発信したいなと思います。


記事を書いているうちに地下鉄の長いトンネルを抜け、車内に朝日が差し込んできました。
大きな川を渡れば到着です。冬の時期の低い太陽が水面に反射してきらめく様子が好きで、それを見ると今日も1日仕事を頑張ろうと思えてきます。

皆さんも体調等気をつけて良い新年度を迎えてください。
それではまた。

87_graph

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